04/27の日記

12:30
【宮沢賢治】風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(7)

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 こんばんは (º.-)☆ノ



 宮沢賢治の童話小品『龍と詩人』をとりあげています:



 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(1)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(2)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(3)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(4)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(5)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(6)






【18】“自然との交感”―――3つのレベル(続)



 前回は、19241年ころの『龍と詩人』前後の時期に、宮沢賢治の“自然との交感”―――“自然”や、鉄道線路などの印象的な人工物から詩や散文のインスピレーションを受けるしかたには、3つのタイプがあった、という話をしました。

 第1のタイプは、


  西ぞらの
  ちゞれ羊から
  おれの崇敬は照り返され


 という詩句(歌詞?)に象徴的に表れているものです。後年賢治は、じっさいにフシをつけて歌っていたそうですから(再現された楽譜が残っています)、もともと保阪嘉内とのあいだで、作って歌っていたのかもしれませんね。

 しかし、このタイプの“自然との交感”が賢治作品に残っているのは、1921年ころのものだけです。このタイプは、賢治は、21年前後には卒業してしまったと考えられます。

 第2のタイプは、『春と修羅』の「序詩」と『龍と詩人』のチャーナタのことばに典型的に表れています。第1のタイプとは異なって、対象となる“自然”とのあいだに、超えがたい距離はなく、また、人と“自然”との交感は、相互的です。このタイプは、


「そのときわたしは雲であり風であった。そしておまへも雲であり風であった。」


 というチャーナタのことばで代表されるでしょう。この第2のタイプは、サハリン旅行後、1923-24年を中心とする時期のものと考えられます。

 第3のタイプは、第2のタイプよりもさらに、対象たる“自然”との距離は縮まります。第2のタイプでは、対象たる“自然”の述べ方が、「風景」「雲」「風」「波」というように、まだ抽象的です。浜辺でじっさいに聞こえる風や波の音であっても、心理的にはまだ距離があると言えます。ところが、第3のタイプになると、「かしはばやしの青い夕方」「十一月の山の風のなか」「林や野はらや鉄道線路やら」
(『注文の多い料理店』「序」)というように、ひじょうに具体的で、体験的に身近なのです。賢治としては、自分が育ち、かつ住している岩手県の実家周辺の地域に限っていたかもしれません。

 その一方で、“交感”のしかたは、相互的ではなく、“自然”から人へ、という一方的な流れです。

 しかし、第2のタイプの相互性から、一方通行に変ってきたのは、より現実的・実践的になったとも言えます。「わたしは雲であり風であった。」というような“夢物語”から、実際に詩や童話のインスピレーションを受けとる“創作の現場”に降りてきた。つまり、創作する、作品として構成することを、よりはっきりと意識してきたと言ってもよいのではないでしょうか。

 ところで、いま、あたかも第2のタイプから第3のタイプへ移行してゆくように述べましたが、実際の作品の年代を考えてみると、そう簡単ではないようです。大きな流れ、ないし傾向としては、第2から第3へ、と言えるように思いますが、第2、第3の両タイプは、同時並行していた時期が長いかもしれません。

 たとえば、この『注文の多い料理店』「序」にしてからが、1923年12月20日という日付がついています。これは、第2タイプの『春と修羅』「序詩」の日付のちょうど1か月前なのです。日付通りならば、第3タイプの典型が先に書かれ、第2タイプの典型は、その後に書かれたことになります。

 賢治が原稿に記した日付については、いろいろと問題があり、現在も研究と議論が重ねられているほどです。公刊された本の「序」の日付ならば、もう少し実際に近そうですが、完全に脱稿の日だと断定する根拠はありません。この2つの「序」は、どちらが先と決めてしまうよりも、おおよそ同じ時期のものだと考えておくべきでしょう。













 第3タイプに入れてよいと思われる詩句は、『春と修羅』収録作品のなかにもあります:



「そらにはちりのやうに小鳥がとび
 かげらふや青いギリシヤ文字
 せはしく野はらの雪に燃えます」

『春と修羅』「冬と銀河ステーシヨン」1923.12.10.より。

 2行空けの段落は原文。1行空けの段落は引用者。



風の透明な楔形文字
 暗く巨きなくるみの枝に来て鳴らし
 また鳥も来て軋ってゐますと」

『春と修羅・第2集』#75「北上山地の春」1924.4,20.〔下書稿(一)〕より。



 これらの詩句は、“自然”から未知の文字が吹きよせられてくる、というものです。これまでに見てきたほかの例のような「崇敬」「うやまひ」「同時に感ずる」といった単なる感情・感覚ではなく、「うた」「話」「ものがたり」といった音声言語でもなく、文字言語が“自然”から送られてくるという点が注目されます。

 もっとも、上のような詩句だけならば、意味のある「文字」――つまり文字列――ではなく、単にギリシャ文字や楔形文字の形を「かげろう」や「風」の比喩として使っているのだ、とも見られなくはありません。しかし、次の例になると、そうは言えません。文字は、主人公(木霊 こだま)によって読まれているのです:



「その窪地はふくふくした苔に覆われ、所々やさしいかたくりの花が咲いていました。若い木
〔こ〕だまにはそのうすむらさきの立派な花はふらふらうすぐろくひらめくだけではっきり見えませんでした。却ってそのつやつやした緑色の葉の上に次々せわしくあらわれては又消えて行く紫色のあやしい文字を読みました

『はるだ、はるだ、はるの日がきた、』字は一つずつ生きて息をついて、消えてはあらわれ、あらわれては又消えました

『そらでも、つちでも、くさのうえでもいちめんいちめん、ももいろの火がもえている。』

 若い木霊ははげしく鳴る胸を弾
(はじ)けさせまいと堅く堅く押えながら急いで又歩き出しました。」
『若い木霊』より。

 原文は旧仮名遣い。段落の1行空けは引用者。



 『若い木霊』が、上の『春と修羅』の2作品と同じか、それ以前の時期に書かれたとすると、『春と修羅』のほうの詩句も、単なる文字の形による比喩ではなく、意味のある未知の文字列が、“自然”から謎かけのように贈られてきた―――という理解をすべきだと思うのです。

 『若い木霊』の現存草稿は、1枚が《10/20(広)イーグル印》原稿用紙の表マス目に清書されており、ほか5枚は、《10-20 イーグル印(草色罫)》に書かれた『馬の頭巾』草稿の裏面を流用しています。《10/20(広)》は、書簡や他の童話原稿としての利用から見ると、《草色罫》より後の 1921年末から 1922年中の使用が中心と思われるのです。筆跡も、『若い木霊』草稿は、「お」の点が離れていて、1922年中かそれ以前のものです。

 そうすると、『若い木霊』は、『春と修羅』2作品の 1923-24年頃より少し前の、1922年中には書かれていたことになります。

 第2タイプから第3タイプへ、という図式とは矛盾してしまうのですが、カタクリの葉に現れた文字を読む、というモチーフは、かなり早くからあったようです。






 
  小天狗の滝 大岳山馬頭刈尾根






 ところで、『春と修羅(第1集)』には、ほかにも未知の文字が登場する詩句があります:



「  (ひのきのひらめく六月に
    おまへが刻んだその線
    やがてどんな重荷になつて
    おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)

  手宮文字です 手宮文字です

『春と修羅』「雲とはんのき」1923.8.31.より。

 2行空けの段落は原文。1行空けの段落は引用者。



 「手宮文字」は、北海道・小樽の洞窟で発見された岩刻壁画ですが、当時は、古代に渡来した異民族が書き残した文字ではないかということで、一般の関心を惹いていました。摂政の宮(のちの昭和天皇)も見学に訪れているほどです(【参考記事】⇒:手宮洞窟)。したがって、賢治は、「ギリシヤ文字」「楔形文字」とならぶ未知の文字として登場させていることになります。

 しかし、上の引用で、「おまへが刻んだその線」が、文字で書いた文章を表しているとすると、自分の書いた文章が、“ブーメラン”となって戻って来て、「男らしい償ひ」を要求する。つまり、「手宮文字」の形は、文字がそれを書いた人を脅迫する、恐ろしげな形としてイメージされているのです。

 これは、“自然”から受け取る、という第3タイプよりも、第1タイプに近いニュアンスを感じさせます。「男らしい償ひ」の意味はよくわかりませんが、潔い償い、たとえば自分の間違えを潔く認める、といったことなのでしょうか? 「ダルゲ」の歌にあるような“理念への崇敬”を克服して、第1タイプを卒業する‥‥といったことなのかもしれません。

 これは、「ミルダの森」から聞こえてきた“剽窃のウワサ”にわななき震えていた状態を脱して、チャーナタ龍のことばによって、第2タイプへ移行する、スールダッタの軌跡とも並行している、――と言えるかもしれません。






【19】“自然との交感”―――テレポーテーション



 第2,第3のタイプについては、並行して行われていた期間が長く、第2 → 第3 という移行は、はっきりと見ることはできません。それらに対して、第1のタイプは古いもので、どのぐらい古いかというと‥‥、中学卒業後の浪人時代から高等農林時代にかけて、“テレポーテーション短歌”というべきものが幾つかあります↓。

 テレポーテーションは、超自然的な能力によって、瞬間的に場所を移動する空想、もしくは幻覚です。移動先が、かんたんに行ける場所であったら、そんな空想の必要はありませんから、テレポーテーションの想念が起きるということは、移動先との間に超えがたい距離がある場合です。超えがたい距離を、どうにかして超えて、そこへ行きたいという考えがあるから、テレポーテーションということが思念されるのです。

 その意味で、これらの“テレポーテーション短歌”は、第1タイプの“自然との交感”とは、ひじょうに近い位置にあると思います。


     ※

 いかに雲の原のかなしさ
 あれ草も微風もなべて猩紅の熱。
 
     ※
 
 火のごとき
 むら雲飛びて薄明は
 われもわが手もたよりなきかな。
 
     ※
 
 なつかしき
 地球はいづこ
 いまははや
 ふせど仰げどありもわからず。
 
     ※
 
 そらに居て
 みどりのほのほかなしむと
 地球のひとのしるやしらずや。

『歌稿B』#157-160.


 ↑中学卒業後の浪人時代のもの。“一足飛び”のテレポーテーションではありませんが、病気の熱にうなされて、「火のごとき/むら雲」のなかから、下のほうを覗いて、はるか下にある地球を探す‥‥というものです。

 つぎは、高等農林2年時のもの。「猩々緋」は、黄みの強い朱色。その次の歌とともに、夕日に輝く「ちぢれ羊」への「崇敬」との関連がよくわかります。しかし、「きりぎし(がけっぷち)に立つ」―――テレポーテーションは、危うさにみちています。


 猩々緋雲を今日こそふみ行けと躍るこゝろのきりぎしに立つ


 きん色の西のうつろをながむればしば\/かつとあかるむひたひ

『歌稿A』#388,390.


 ↓つぎの、高等農林卒業直後の助手時代の短歌では、「銀雲」とともに「みねを越え」て飛んでゆくさまが想像されています。高洞山
(たかぼらやま)は、盛岡市の北郊、山田線沿いにある山で、この短歌群の詠まれた「岩手公園」(盛岡城跡)からも、よく見えます。


     ※

 黒みねを
 はげしき雲の往くときは
 こゝろ
 はやくもみねを越えつつ

 
     ※
 
 暮れそむる
 アーク燈の辺
 雲たるゝ黒山にむかひ置かれしベンチ

 燃えそめし
 アークライトは
 黒雲の
 高洞山に
 むかひ置かれき
 
     ※
 
 黒みねを
 わが飛び行けば
銀雲の
 ひかりけはしくながれ寄るかな。

『歌稿B』#654,655,655a656,656.



 「銀雲」の「ながれ寄る」なかを飛んでゆく想像は、


「そのときわたしは雲であり風であった。そしておまへも雲であり風であった。」


 という『龍と詩人』のチャーナタの言葉――これは第2タイプですが――にも通じるかもしれません。













 ↓散文『秋田街道』は、高等農林在学中の 1917年に、保阪嘉内らと同人誌《アザリア》の発刊を記念して行なった雫石方面への徒歩旅行の思い出を綴ったものです。原稿末尾に「1920.9.-」と記されており、原稿の成立時期を示していると思われます。

 テレポーテーションは、作者の大きな希望であり憧れであったことがわかるのです。



「帰りみち、ひでり雨が降りまたかゞやかに霽
(は)れる。そのかゞやく雲の原
                          今日こそ飛んであの雲を踏め。」

宮沢賢治『秋田街道』より。




 1924年に出版された『春と修羅』にも、テレポーテーションの詩が収録されています↓。その日付は、1922年前半で、“自然との交感”第1タイプの終了時期とも一致します。さいごの行の「こゝいら」は、「むかふ」のキノコの形の林の中の風景なのでしょう。

 「わたしのかんがへが……溶け込んでゐる」という点は、むしろ第2タイプに近づいています。



「そら、ね、ごらん
 むかふに霧にぬれてゐる
 蕈
(きのこ)のかたちのちいさな林があるだらう
 あすこのとこへ
 わたしのかんがへが
 ずゐぶんはやく流れて行つて

 みんな
 溶け込んでゐるのだよ
   こゝいらはふきの花でいつぱいだ」

『春と修羅』「林と思想」1922.6.4.

 2行空けの段落は原文。1行空けの段落は引用者。






【20】個と自由



 宮沢賢治の童話集『注文の多い料理店』(1924年12月1日発行)は、この年4月に自費出版した『心象スケツチ 春と修羅』とは違って、近森善一、及川四郎、菊池武雄という出版仲間がいました。『春と修羅』の校正を手伝った親戚で歌人の関徳弥氏とは異なって、『料理店』のほうの仲間は、いずれも抱負の高い‥山っ気の多い人たちでしたから、賢治もその影響を受けて、おおいに気をふくらましたのでしょう。

 彼らとの歓談のなかから、気負った「広告文」のチラシを作って配布したり、菊池氏の手引きで、当時有名だった児童文学雑誌『赤い鳥』に広告を出したりしています。いずれも不発で、この本は、『春と修羅』以上に売れなかったのですが、「広告文」は、宮沢賢治の当時の文学的抱負を表現した文章として、現在も、賢治童話集などに再録されています。

 その「広告文」には、“自然との交感”を直接述べた部分はないのですが、やや違った角度から、童話制作の方針を述べている部分があるので、見ておきたいと思います。



「イーハトヴは一つの地名である。
〔…〕

実にこれは著者の心象中にこの様な状景をもつて実在した
ドリームランドとしての日本岩手県である。

     
〔…〕

 🈪これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。

  多少の再度の内省と分折とはあつても、たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。」

『注文の多い料理店・広告文』より。

 赤字は原文の傍点付き文字。



 これも、賢治文学の“マニフェスト”として、たいへん有名な文章のひとつです。色文字にした部分に注目したいと思います。

 「心象」という語が、賢治の文章の中に現れるのは、じつはこれが最初なのです。『春と修羅』のほうでは、本のタイトルに、『心象スケツチ』という言い方が出てくるだけです。「序詩」にも、収録の各詩篇にも「心象」という語は出てきません。






 






 この『広告文』で重要なのは、「心象」という語の使われ方です。賢治は、


「これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。」


 と言い、そう主張する根拠として、「たしかにこの通りその時心象の中に現はれたもの」だからだと言うのです。つまり、「偽り」でも剽窃でもない“証し”として、自分の「心象」に現れた想念なのだから、“真実のもの”だ―――と言っているわけです。

 また、「心の深部に於て万人の共通である」とも言っています。あえて「心の深部」と言う点が重要です。なぜ、「深部」でなければならないのか? 「深部」だから「偽り」ではない、“真実”だと、どうして言えるのか?

 他人からのパクリや真似、あるいはウソではない理由として、“たしかに、自分の心の中に現れたのだ”と言うのは、たいへんに特殊なことです。いかなる時代にも通用する言い訳ではないでしょう。他人の文章を読んで剽窃する場合だって、ありもしない嘘をつく場合だって、自分の心の中に一度はそれらの想念が現れるはずです。それをなぞって書いて、自分のオリジナルとして発表するから、剽窃になるんだし、考え出したことを現実として発表するから「偽り」になるんじゃないか。そう考えてみれば、この言説の特殊性は明らかです。

 しかし、この時代‥20世紀前半の時代には、この賢治の言い方こそまさに、“真実の証し”としてもっとも通用する表明のしかたであったのです。

 このことを卑近に理解するためには、当時と現在の夫婦喧嘩を比較してみればよいのです。当時の夫婦喧嘩を知るためには、夏目漱石の小説を読んでみればよい。

 20世紀前半の夫婦喧嘩と現在(1980年代以後)の夫婦喧嘩が同じ点は、どうでもよいような些細なことから雪だるま式に猜疑がふくれあがってゆくことですw しかし、相違点は、夫婦それぞれが自分の主張を正当化する根拠が何かということです。

 漱石の小説の夫婦の根拠は、自分が心底そう感じ、そう思っている、心の中の“真実”を述べているのだ、ということです。

 しかし、現代の夫婦の根拠は、そうではありません。自分がそう思っているからだ、などと主張しようものなら、「それはあなたのエゴイズムだ」「ゴーマンだ」などと言われて、かえって墓穴を掘ることになります。“心の中の真実”という古風な主張をしつづけようとするならば、「カラスの勝手でしょ?」と言うしかなくなるのですw

 現代の夫婦喧嘩で双方が持ち出す根拠は、世間の人はみな、こう思っている、「ふつうは、こうだ」「みんな、こう思う」ということです。そして、それを補強するために持ち出される理屈は、自分の友人の誰々がそう言った、テレビのワイドショーで誰々がそう言った、といったことです。

 つまり、“むかし”の日本人は、自己の内面を向いていた、“内面指向型”だったとすれば、今の日本人は、個性のない抽象的な“他人”のほうを向いている、すなわち“他人指向型”なのです。おそらくその先頭を切っているのが、安倍、菅、河野といった、この国のトップに立つ人たちです。彼らは、「テレビのワイドショーで誰々がそう言った」と言いたいために、テレビのニュースやワイドショーそのものの内容を検閲し、おおぜいの側近官僚を動員して「抗議」し、操作しているのです。

 20世紀の終りころに、「カラスの勝手でしょ」というドリフターズのセリフが流行したのは、“他人指向型”に変遷してゆく圧倒的な社会思潮の流れに付いて行けない大衆が、むなしい抵抗の根拠として、それを歓迎したからでした。



 しかし、ここでは、もう少し文学的な‥アカデミックな説明も参照してみることにします:



「『市川団十郎が当時
〔明治10年代[1877-86年]―――ギトン注〕大根役者と言われたのは、その演技が新しかったからである。彼は古風な誇張的な科白〔せりふ〕をやめて、日常会話の形を生かした。〔…〕明治時代の新しい知識階級者は、団十郎のこの写実的でかつ人間的な迫力のある演技に次第に慣れ、彼を認めて当代第一の役者と見なすに至った。』(伊藤整『日本文壇史』第1巻、講談社)

 団十郎の演技は『写実的』であり、すなわち『言文一致的』であった。
〔…〕歌舞伎役者の、厚化粧で隈取られた顔は『仮面』にほかならない。市川団十郎がもたらし、のちの『新劇』によっていっそう明瞭に見出されたのは、いわば『素顔』だといえる。

 しかし、それまでの
〔江戸時代の――ギトン注〕人々は化粧によって隈取られた顔にこそリアリティを感じていたといえる。いいかえれば、『概念』としての顔にセンシュアルなもの〔しっくりと感じられるもの――ギトン注〕を感じていたのである。


      
〔…〕

 風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかし、それがたんにそのようなものとして見えるようになる
〔…〕ためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある『場』が転倒されなければならない。そのときはじめて、素顔や素顔としての風景が『意味するもの』となる。それまで無意味と思われたもの〔なんでもない素顔やけしき――ギトン注〕が意味深くみえはじめたのである。〔…〕

 ありふれた(写実的な)素顔が、何か
〔喜怒哀楽の感情や思想など――ギトン注〕を意味するものとしてあらわれたのであり、『内面』こそその何かなのだ。〔…〕いったん『内面』が存立するやいなや、素顔はそれを『表現』するものとなるだろう。〔…〕

 それまでの観客は、役者の『人形』的な身ぶりのなかに、『仮面』的な顔に、いいかえれば形象としての顔に、活きた意味を感じとっていた。ところが、いまやありふれた身ぶりや顔の背後≠ノ意味されるものを探らなければならなくなる。
〔…〕そこには坪内逍遥をしてやがて『小説改良』の企てに至らしめるだけの実質があった。」
柄谷行人『定本・近代日本文学の起源』,2008,岩波現代文庫,pp.51-54.













 つまり、能や歌舞伎では、伝統的に定まった演技の“型”があり、仮面の“型”があり、隈取りの“型”があって、クロウトの観客はそれをよく知っている。感情の表現は、“型”を通じて観客に伝達されます。だから、その“型”さえ呑みこんでいれば、能や歌舞伎は、とても解りやすいものなのです。

 ところが、「新派」などの近代の舞台や映画では、そのような“型”は、とっぱらわれています。観客は、俳優の「素顔」から、感情を読みとらねばならない。それがどうして可能になるのかと言えば、“型”に代って「内面」というものが想定されているからです。劇の登場人物にも、それを見ている観客個々人にも、およそ人間にはすべて“心の「内面」”があり、それは万人共通である。登場人物の「内面」と、観客の「内面」は、劇中の出来事に応じて、同じように動く。だから、ありのままの「素顔」によって、感情が伝わるのだ。このような一種の信仰――というより“制度”が成立した時に、つまり大衆がそれに慣れた時に、近代の演劇や映画は、大衆をとらえるようになったのです。

 宮沢賢治が、『春と修羅』「序詩」で、


「(すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)
     
〔…〕

 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
     
〔…〕
 ある程度まではみんなに共通いたします
 (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから)」


 と言い、『注文の多い料理店・広告文』で、


「これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。

  ……たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。」


 と書いているのは、まさに、このようにして成立した近代文学の“制度”の上に乗って述べているのだと言えます。



「国木田独歩は、自分が自分自身から隔てられているように感じている。そこに不透明な『一種の膜』がある。『驚く』ということはそれを突破することであり、『透明』に到達することだ。そこには、まるで『真の自己』なるものがあるかのような幻影が根をおろしている。この幻影は、『文』が二次的なものとなり、自分自身にとって最も近い『声』―――それが自己意識
〔頭の中で考えている意識――ギトン注〕である―――が優位になったときに成立する。そのとき、内面にはじまり内面に終るような『心理的人間』が存在しはじめるのである。

 日本の近代文学は、国木田独歩においてはじめて書くことの自在さを獲得したといえる。この自在さは、『内面』や『自己表現』というものの自明性と連関している。
〔…〕内面が内面として存在するということは、自分自身の声を聞くという現前性が確立するということである。」
柄谷行人『定本・近代日本文学の起源』,2008,岩波現代文庫,pp.75-76.



 つまり、人間の「内面」には、ふだん頭の中で考えている内語という「自己意識」があり、それこそがその人としての“真実”なのだから、人が“真実”を語るには、たんに「内面」の声を「そのまま」「ありのまま」に音声言語にして語ればよいのである。その音声言語を「そのまま」口語文にして書けばよいのである。美文調の文語文のような粉飾、虚飾は、いっさい必要がない。それが、《言文一致》以後の考え方でした。

 それは、決して小説家や“文士”だけの考えではなかった。当時、小学校でも「国語綴り方」運動というものが起こって、心に思うことを「ありのまま」に口語文で作文することが奨励された‥‥いやむしろ、教え込まれたのです。そして、文語文や美文調で書かれた時代小説などは、時代遅れの低俗な読み物として、軽蔑するように刷り込まれたのでした。こうして、「内面」「自己意識」という“制度”は、広く大衆に根をおろしたのです。

 すでに引用したように、宮沢賢治もまた、そうした《近代文学》の制度、観念の中にいたのですが、しかし、賢治の場合には、当時一般の文学者とは、異なる点があったと思います。

 国木田独歩以後の文学者、また「国語綴り方」以後の教育者にとっては、「内面」の表現こそ、自然で本来的なありかたである。「内面」をそのまま口語の文章にすることが、「自明」で「透明」な表現行為なのである。そのようにすれば、自己の「内面」を「自在」に書くことができる、と考えました。

 しかし、賢治の場合には、「内面」を「ありのまま」に書くことは「自明」なことではなかったし、「透明」に書くことは、非常に高い目標であったのだと思います。賢治の詩や童話の中に、「すきとほった」「透明な」という形容が頻出するのは、そうした“透明性”へのあこがれ、裏返して言えば、その困難さを表白しています。「万人の共通」である「内面」“心の中”を、「そのまま」表現して、読者に理解させることが、なぜそれほど困難なのか?‥‥《近代文学》の中心点から見れば、宮沢賢治のような者は、東北の田舎の「デクノボー」にしか見えないでしょう。

 しかし、その「デクノボー」の役割をあえて買って出たことによって、賢治は《近代文学》を越えるものを創り出しえたのだと思います。






 






「告白はけっして改悛ではない。告白は弱々しい構えのなかで、『主体』たること、つまり支配することを狙っている。
〔…〕

 私は何も隠していない、ここには『真実』がある……告白とはこのようなものだ、それは、君たちは真実を隠している、私はとるに足らない人間だが少なくとも『真実』を語った、ということを主張している。
〔…〕ここでいわれている『真実』は有無をいわさぬ権力である。」
柄谷行人『定本・近代日本文学の起源』,2008,岩波現代文庫,pp.122-123.



「明治国家が『近代国家』として確立されるのは、やっと明治20年代に入ってからである
〔たとえば憲法発布は明治22(1889)年――ギトン注〕。『近代国家』は、中心化による同質化としてはじめて成立する。むろんこれは体制の側から形成された。重要なのは、それと同じ時期に、いわば反体制の側から『主体』あるいは『内面』が形成されたことであり、それらの相互浸透がはじまったことである。

 
〔…〕国家・政治の権力に対して、自己・内面への誠実さを対置するという発想は、『内面』こそ政治であり専制権力なのだということを見ないのだ。『国家』に就く者と『内面』に就く者は互いに補完しあうものでしかない。

 明治20年代における『国家』および『内面』の成立は、西洋世界の圧倒的な支配下において不可避であった。」

柄谷行人『定本・近代日本文学の起源』,2008,岩波現代文庫,pp.136-137.













 しかし、「内面」の“真実”にこだわることは、自己と他者の“個”を強く意識することでもあります。『龍と詩人』に戻って言えば、自己の「内面」に現れた「声」は“真実”だが、他人の「うた」を聞き取って歌えば、それは「窃盗」である、ということになります。アルタの頌詩によって与えられた賞讃の興奮が醒めた時に、スールダッタを襲ったのは、そうした想念でした。スールダッタが直面したのは、「内面」の“真実”という《近代文学》の「権力」との葛藤であったと、言うことができます。

 つまり、“言葉がひとり歩きすること”。スールダッタの発した「うた」のことばは、どこまでも彼個人に帰せられる刻印を掲げながら、ひとり歩きし、作者の予想もしない結果をもたらしてゆくのです。

 賢治における“自然との交感”の3つのタイプを追ってゆくと、第1,第2から、第3タイプに至って、自然のインスピレーションを受け取る“個人”の存在が強く意識されるようになります。それとともに、個人、すなわち作者が自分の作品を作り上げるという構想力の働きが意識されるようになり、作者の自覚的な“自由”の余地が広がっていきます。

 『銀河鉄道の夜』に燦然と表れるような《否定的‐統合的組成》のレトリック(⇒:『銀河鉄道の夜』(6)【1.13】争異するコンシストロジー ⇒:(7)【2.1】修辞的モダニズム)は、このようにして開かれた“自由”のなかではじめて可能になったと言えます。反面、それによって宮沢賢治は、《近代文学》を超える境位に達したと言えます。

 宮沢賢治は、日本の《近代文学》の流れの中には、ひじょうに位置づけづらい作家であると言われています。彼は、《近代文学》史の外側にいたとさえ言えるのかもしれない。しかし、賢治と《近代文学》の関係は、単純に伸るか反るかで言えるものではないと思います。賢治もまた、《近代文学》の「内面」と“個”の制度の中にいたのであり、それに深く影響されながら、葛藤の中で《近代文学》を超える道すじを歩み出したのです。



「これらは二十二箇月の
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね

 (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)

 ここまでたもちつゞけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケツチです」



 こう書かれた『春と修羅』「序詩」は、一面で「内面」を援用しての“真実”性の主張に貫かれていますが、それが及ぼすはずの他の面、“個”の自由と責任という面については、まったく楽観的です。過去から現在まで、2本の「くさり」によって繋がる“個”が、意識されていながら、それは、「すべてわたくしと……みんなが同時に感ずるもの」ということで、“個”は曖昧に処理されてしまっているのです。

 しかし、これは、この時期の一面にすぎなかったと思います。ここで曖昧に流されてしまった“個”が、流されずに、より強く意識されたのが、同じ時期に書かれた『龍と詩人』であり、『注文の多い料理店・広告文』であったのです。








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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