01/14の日記

01:29
【宮沢賢治】『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(6)

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イギリス海岸(北上川対岸) 









 こんばんは (º.-)☆ノ




 『銀河鉄道の夜』草稿の失われた“欠落部分”の内容を推理してみようということで、連載の6回目です。

 興味をもたれた方は、シリーズの最初から読んでいただけたらと思います。そのほうがよく分かります:



 ⇒:『銀河鉄道の夜』の成立過程

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(1)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(2)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(3)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(4)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(5)










【1.12】 天の川の「水」は水素か?



 “欠落部分”に登場したブルカニロ博士が、ジョバンニの前で語った“宇宙の話”の内容。前回からのつづきです。

 ブルカニロ博士が語った内容は、…天の川は星の集まりだ、というだけの話ではなかったようです。

 じっさい、そのあとジョバンニが向った「天の川」の世界―――ブルカニロ博士の“エネルギー宇宙”では、「星のひかり」がお菓子になったり、鳥になったり‥、リンゴの皮がけむりになって消えてしまったり‥、信じられないことばかりが起きるのです。

 今夜は、その“銀河世界”を流れる「天の川」の「水」―――見えないようで見え、見えるようで見えない、この「水」の正体から話をはじめたいと思います。

















 さて、ジョバンニの“銀河世界”への“旅立ち”場面で、「億万の螢烏賊の火」を固めたような、ダイヤモンドの倉庫をひっくりかえしたような圧倒的な「ひかり」が放出されたあとの状況に、ここでもういちど戻ってみます。



〔…〕眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思はず何べんも眼を擦ってしまひました。実にその光は、広い一本の帯になって、ところどころ枝を出したり、二つに岐れたりしながら、空の野原を北から南へ、しらしらと流れるのでした。

 (あの光る砂利の上には、水が流れてゐるやうだ。)

 ジョバンニは、ちょっとさう思ひました。するとすぐ、あのセロのやうな声が答へたのです。

 (水が流れてゐる?水かね、ほんたうに。)

 ジョバンニは一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きはめやうとしましたが、どうしてもそれが、はっきりしませんでした。

 (どうもぼくには水だかなんだかよくわからない。けれどもたしかにながれてゐる。そしてまるで風と区別されないやうにも見える。あんまりすきとほって、それに軽さうだから。)ジョバンニはひとりで呟きました。

 すると、どこかずうっと遠くで、なにかが大へんよろこんで、手を拍ったといふやうな気がしました。

 見ると、いまはもう、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとほって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のやうにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、
〔…〕
『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。






 ジョバンニが「思はず何べんも眼を擦ってしま」うほどの圧倒的に明るい光は、天の川のかたちになって、「空の野原を北から南へ、しらしらと流れ」ていたと言うのです。つまり、この時点では、もうジョバンニは地上から―――「天気輪の丘」の上から眺めているのではなくて、「空の野原」の上にいることになります。

 いま、「天の川」は、ジョバンニが立っている「空の野原」の地面を水平に、大河のような広さと圧倒的な明るさで「北から南へ」流れている……このようにイメージしてよいと思います。



「あの光る砂利の上には、」



 とあって、光っているのは、「天の川」の砂利や小石であることがわかります。



「(あの光る砂利の上には、水が流れてゐるやうだ。)」



 「光る砂利」の上は、何かが「流れてゐる」ように見え、そこは「天の川」の川底のように見えるのですが、流れているのは「水」なのかどうか、見てもよくわかりません:



「ジョバンニは一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きはめやうとしましたが、どうしてもそれが、はっきりしませんでした。

 (どうもぼくには水だかなんだかよくわからない。けれどもたしかにながれてゐる。
〔…〕
『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 何も見えないのに、なぜ「ながれてゐる」と分かるのかというと、



「そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとほって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のやうにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、」



 と書かれているように、その透明で音もしない「水」は、「ときどき眼の加減か」さまざまな色で波のように輝くことがあるので、何かが流れていることがわかるわけです。

 作者の描く「天の川」の「水」の、このような“見えない見え方”は一貫しています。〔第3次稿〕には、「見えない天の川」という表現が5回ありますが、その意味は、線路との位置関係で川が見えないということではなく、ながれているはずの「水」が見えないということであるようです。

 “見えない見え方”が描かれた部分を抜き出してみますと:







 





 北十字の付近:



「俄かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたやうな、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ
〔…〕






 「双子のお星さまのお宮」:



「川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。
〔…〕






 〔第2次稿〕には↓つぎのような「あまの川」の歌も書かれています。

 「琴の宿」付近。タイタニック遭難者の連れの中の「男の子」が、窓の外をのぞいて、



「『あまの川、
  底のすなごも見ぃへるぞ
  かはらの石も見ぃへるぞ。
  いつまで見ても、
  見えないものは水ばかり。』」



 と叫びます。これは賢治の創作童謡で、1921年に『愛国婦人』に投稿して採用されました。(同人誌でなく)公刊雑誌に、はじめて掲載された賢治作品でした。

 ところでこの歌、見かけは童謡ですが、それだけではないように感じます。たとえば、渇水した夏の稲田で歌ったら、身に迫るのではないでしょうか。東京で作った歌詞と思われますが、超人的努力のかいもなく、いっこうに滞在の成果が得られない賢治の焦りが感じられます。これが「琴の宿」に置かれたのも、賢治の東京生活の回想にかかわっています↓

 【参考】(瀬川琴子のこと)⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》9.3.15






  ↓つぎは有名な「プリオシン海岸」の場面ですが、「天の川」の「水」の見え方以外にも、注意を惹くことがいろいろと書かれています。



「カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌にひろげ、指できしきしさせながら、夢のやうに云ってゐるのでした。

 『この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えてゐる。』

 『さうだ。』どこでぼくは、そんなこと習ったらうと思ひながら、ジョバンニもぼんやり答へてゐました。

 河原の礫は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらはしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとほってゐたのです。それでもたしかに流れてゐたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました

     
〔…〕

 左手の渚には、波がやさしい稲妻のやうに燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や貝殻でこさえたやうなすすきの穂がゆれたのです
〔…〕

 『
〔…〕ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらゐ前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。〔…〕』」
『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。


















 かんたんなことから先に片づけてしまいますと、



「銀や貝殻でこさえたやうなすすきの穂」



 という描写のしかたは、宮沢賢治の《心象スケッチ》特有の表現と言ってよいと思います。河原で光るススキの穂は、金属や鉱物質の材料で「こさえ」られているのです。

 「銀や貝殻でこさえたやうな」は、色の比喩と見ることもできますが、たんに色だけではなく、「銀」と「貝殻」の硬い材質を、私たちはこの描写から受け取ります。童話では、賢治の直喩のそうした特質が、詩以上にはっきりと感じられます。

 つまり、“銀河世界”では、《心象スケッチ》そのままの野原や草が出現していることになります。






 川岸で化石を発掘している「大学士らしい人」がジョバンニたちにする説明のなかの



「ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないか」



 ということばは、ジョバンニの“旅立ち”の際の



「そこは博士の云ったやうな、がらんとした冷いとこだとは思はれませんでした。」



 という想像に対応しています。

 地上から見ると、風や「がらんとした空」に見える場所には、じっさいに行ってみると地層があり、昔の動物やクルミの化石が埋まっているのです。これは、『春と修羅』「序詩」↓に書かれていた「青ぞらいつぱいの無色な孔雀」の化石と同じですが、そこでは時間軸に沿って考えられていた“相対性”が、『銀河鉄道の夜』では、地上と“銀河世界”とでの見方の違いになっているわけです。



「おそらくこれから二千年もたつたころは
 それ相当のちがつた地質学が流用され
 相当した証拠もまた次次過去から現出し
 みんなは二千年ぐらゐ前には
 青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
 新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
 きらびやかな氷窒素のあたりから
 すてきな化石を発堀したり
 あるひは白堊紀砂岩の層面に
 透明な人類の巨大な足跡を
 発見するかもしれません」

『春と修羅』「序詩」より。






 二人が“プリオシン海岸”の天の川の岸辺に着いてすぐですが、カムパネルラが、



「『この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えてゐる。』」



 と言うのに対して、ジョバンニは、



 「どこでぼくは、そんなこと習ったらうと思ひながら」



 『さうだ。』と答えています。カムパネルラが「天の川」の岸の砂粒を見ながら、「みんな水晶だ」「中で‥火が燃えてゐる」と言うと、ジョバンニには、それが、まえから知っていた知識だったように思えてしまうのです。

 端的に言うと、こうしたことが、ジョバンニにとっての“銀河世界”の実在感を増しているのだと思います。『銀河鉄道の夜』には、“銀河世界”を地上と同等の“実在感”のある世界として描くための工夫が随所にしかけられています。“銀河世界”は、ジョバンニが丘の上で眠っていたあいだに見た“夢”にすぎない、というように合理的に片づけてしまうことはできないと、ギトンは思います。

 この“実在感”の問題については、のちほどもう一度戻ってきて考えることになります。





 








 さて、このへんで本題に戻って、「天の川」の「水」の正体について、ジョバンニとブルカニロ博士のテレパシーの声が交していた議論を検討したいと思います:



「(あの光る砂利の上には、水が流れてゐるやうだ。)

 ジョバンニは、ちょっとさう思ひました。するとすぐ、あのセロのやうな声が答へたのです。

 (水が流れてゐる?水かね、ほんたうに。)

     
〔…〕

 (どうもぼくには水だかなんだかよくわからない。けれどもたしかにながれてゐる。そしてまるで風と区別されないやうにも見える。あんまりすきとほって、それに軽さうだから。)ジョバンニはひとりで呟きました。

 すると、どこかずうっと遠くで、なにかが大へんよろこんで、手を拍ったといふやうな気がしました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 「どこかずうっと遠くで‥‥大へんよろこんで、手を拍った」のは、地上の「天気輪の丘」の上にいるブルカニロ博士だと考えてよいでしょう。「手を拍った」のは、「‥‥あんまりすきとほって、それに軽さうだから。」というジョバンニのつぶやきに対する同意と見てよさそうです。

 作者は、「天の川」の「水」の正体について、はっきりとは述べていません。読者の解釈にゆだねています。おそらく作者は、「天の川」の「水」は水素だと言いたいのではないでしょうか。






「きしやは銀河系の玲瓏レンズ
 巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる」

『春と修羅』「青森挽歌」より。



 (4)で見た「真空溶媒」での用例から考えて、宇宙空間は真空であることを賢治は知っていたと思います。その一方で、↑このように、銀河系の中は水素で充たされているというイメージも持っていたようです。

 たしかに、星間を漂う物質の大部分は水素だと言われています。そうしたイメージから、「天の川」には、透明な水素の「水」が流れているという想定―――科学的な想定というよりは、鳥の脚がチョコレートでできているのと同じ“エネルギー宇宙観”のひとつでしょう―――を持ったのかもしれません。






【1.13】 星になりそこねた夜鷹――争異するコンシストロジー



 さて、“欠落部分”の直前、ブルカニロ博士の話を聞く前のところで、ジョバンニは、



「『あゝあの白いそらの帯が牛乳の川だ
〔…〕 」



 と言っていました。つまり、ジョバンニのもともとの観念では、「天の川」は「牛乳の川」だったのです。すくなくとも、そうイメージされていたことになります。ジョバンニは、このすぐまえに「牛乳屋」を訪ねて断られ、受け取れなかった牛乳を、そらから取ってきたいと思ったかもしれません。

 「天の川」は、ブルカニロ博士の言うような「がらんとした冷いとこ」ではないはずだ、というジョバンニの反発は、「しぃんとして」誰も居ない「牛乳屋」で冷たくあしらわれた体験も影響しているでしょう。現実の生活空間での疎外感が、幻想空間をより甘美なものにしていると言えます。



「「その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂のするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子をぬいで『今晩は、』と云ひましたら、家の中はしぃんとして誰も居たやうではありませんでした

 『今晩は、ごめんなさい。』ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。するとしばらくたってから、年老った下女が、横の方からバケツをさげて出て来て云ひました。

 『今晩だめですよ。誰も居ませんよ。』

 『あの、今日、牛乳が僕んとこへ来なかったので、貰ひにあがったんです。』ジョバンニが一生けん命勢よく云ひました。

 『ちゝ、今日はもうありませんよ。あしたにして下さい。』

 下女は着物のふちで赤い眼の下のとこを擦りながら、しげしげジョバンニを見て云ひました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。

















  ところが、“欠落部分”のあとでは、「天の川」は、ジョバンニには「小さな林や牧場やらある野原のやう」な場所に思われてしかたなかったと書かれています。

 「博士の云ったやうな、がらんとした冷いとこ」ではないという方向は同じですが、「牛乳の川」と「林や牧場やらある野原」とは、かなり違うイメージです。

 そうすると、“欠落部分”の前と後とで、ジョバンニの抱く「天の川」のイメージが変化していることになります。これは、“欠落部分”でのブルカニロ博士との対話を通じて、――「がらんとした冷いとこだ」と言う博士に対して反発することを通じて、頭の中にあるイメージが変り、いっそう親近感のあるものになったことが考えられます。

 また、“欠落部分”直前の↓つぎの独白に現れた、カムパネルラとふたりで、「野原」を「どこまでもどこまでも行」きたいという願望も、影響していそうです。



「(ぼくはもう、遠くへ行ってしまひたい。みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行ってしまひたい。それでも、もしカムパネルラが、ぼくといっしょに来てくれたら、そして二人で、野原やさまざまの家をスケッチしながら、どこまでもどこまでも行くのなら、 どんなにいいだらう。
〔…〕






 もし、“欠落部分”で、ジョバンニが、カムパネルラと旅をしたい希望を口に出したとすれば、ブルカニロ博士は、ジョバンニの“夢”をかなえてやりたいと思ったかもしれません。

 しかし、そういうことがなかったとしても、ブルカニロ博士の話に反発して考えるなかで、“銀河世界”のイメージがジョバンニのなかで具象化して行ったことは考えられるでしょう。






 2回目の「琴の星」の異変から「三角標」への変化が始まり、「ダイアモンド」の放散に至る過程で、ジョバンニは、この変化に対してはじめは反発し、「いくらなんでも、あんまりひどい」と期待はずれを表明します。

 しかし、やがて一連の異変が終結し、周囲の環境が安定してくると、ジョバンニはしだいに新しい世界に馴応します。

 そもそも、“飛翔”したジョバンニの前に姿を現してくる“銀河世界”は、「牛乳の川」などではなく、ジョバンニの想像していた「野原」のイメージはあるものの、「天の川」の底の砂利や小石として光る星々など、多分にブルカニロ博士流の科学的宇宙のイメージをそなえています。にもかかわらず、ジョバンニは、しだいに、この現出した世界を受け入れてゆくのです。

 




「するとこんどは、前からでもうしろからでもどこからでもないふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションときこえました。そしていよいよおかしいことは、その語が、少しもジョバンニの知らない語なのに、その意味はちゃんとわかるのでした。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 ↑「ジョバンニの知らない語」を、天沢退二郎氏は、ジョバンニに未知の言語(エスペラント語?w)という意味に解釈されています。たしかにそれも根拠のある解釈なのですが(このあと「北十字」で、ジョバンニとカムパネルラは、白鳥の島に立つ十字架を見た感動を「何気なくちがった語で、そっと談し合った」とあります)、ここではあえて巧まずに読んでおきたいと思います。

 すなおに読めば、「銀河ステーション」という日本語の「語」(単語)は、「銀河」と「ステーション」を賢治がつなげた架空の名前なのに、ジョバンニはそれを聞いただけで、知っている駅であるかのように感じてしまうという意味でしょう。…はじめて聞いた名前なのに、「その意味はちゃんとわかる」とは、どんな鉄道のどんな駅で、まわりに何があって‥‥といったことを、彼はなぜかすでに“知っている”、なぜ知っているのかは分からないが既に知っていて、あたかも、ジョバンニになじみのある世界の一部であるかのように感じられてしまうのです。

 このようなジョバンニの感じ方――既知感――は、このあとも繰り返されて、さきほど上で見た「プリオシン海岸」でのような、“銀河世界”の実在感を形成してゆくことになります。






 「ガラスよりも水素よりもすきとほっ」た「水」の流れる「天の川」の岸辺を、目の前にはっきりと望むようになると、ジョバンニは、「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」と、満足したようにつぶやくのです:



「見ると、いまはもう、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとほって、
〔…〕声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、〔…〕さまざまにならんで、野原いっぱい光ってゐるのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんたうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかゞやく三角標も、てんでに息をつくやうに、ちらちらゆれたり顫へたりしました。

 『ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。』ジョバンニは呟きました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 ジョバンニが「頭をやけに振」ったのは、眼の前の光景が夢か幻ではないことを確かめる動作です。「するとほんたうに」ジョバンニの頭の震動に応じて風景が揺れ、“夢”ではなく現実であることがわかったので、「天の野原に来た。」とつぶやいたのです。

 野原に立ち並ぶ「三角標」の「ちらちらゆれたり顫へたり」するようすが、「てんでに息をつくやうに」とされているように、ジョバンニが現実感覚を確かめる動作は、同時に景物の生きているような動きや“合図”を受け取るアニミズムの発動でもあります。つまり、ジョバンニの――あるいは『銀河鉄道の夜』の――現実感覚は、その根底にアニミズムを持っています。



 ここにひとつ大きな問題があります。「もう、すっかり天の野原に来た。」とつぶやいたジョバンニの確信は、どこから来ているのか、という問題です。ジョバンニは、突然起きた“異変”にまきこまれ、何が何だかわからないうちに、見知らぬ異世界に来てしまったのでしょうか?それにしては↑この、我が意を得たような呟きは不可解です。

 まるで、ジョバンニは「天の野原」に来ることを予期していたかのように聞こえます。

 もちろん、天に、ほんとうに「野原」があると確信してはいなかったかもしれない。しかし、そこが「野原」なのか「がらんとした冷いとこ」なのかはともかく、自分がこれから「天の川」の近くへ行くということ、‥あるいはもっと漠然と「空の遠くの遠くの方へ‥‥飛んで行」くことは分かっていたのではないか?…もしかすると、ジョバンニは自分の意志で(ブルカニロ博士の実験装置か“心霊術”に助けられて)飛翔してゆこうとし、じっさいに飛翔したのではないか?‥‥そういうことが考えられてきます。

 もし仮にそうだとすると、ジョバンニは、“星になりそこねた夜鷹”“噴火ボタンを押さないで帰って来たブドリ”と言ってもよいのではないか?‥‥



 「すっかり天の野原に来た。」というジョバンニのつぶやきだけで↑ここまで考えるのは、あんまり憶測が過ぎるかもしれません。ここでは、結論を保留しておきたいと思います。

 しかし、このあと(次回以降)ほかの箇所も検討してゆくと、この“読み”は、あながち無理な憶測ではないようにも思われるのです。。。





 










 ともかくこうして、つぎつぎ現出する“銀河世界”の形象に対して、はじめのうちは疑いをもっていたジョバンニも、まもなくそこが自分の抱いていた「天の川」の「野原」のイメージに近いことを認め、

 ブルカニロ博士とジョバンニ、…この二人の、たがいに大きく異なる宇宙組成観が、みごとに融合したような“銀河世界”が構築されてゆくことになります。

 ジョバンニが、最終的にはこの世界を、“真実の”天の川世界、つまり“実在の”世界として受け入れてゆくことは、カムパネルラとの会話のなかに示されることになります↓。ジョバンニは、はじめはブルカニロ博士の「がらんとした冷い」宇宙観を否定していたのですが、カムパネルラに、「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」と言った時、彼はブルカニロ博士からあらかじめ(“欠落部分”で)教えられていた・この“銀河世界”のしくみをカムパネルラに“教えて”やり、こうしてほとんど有頂天になるのです:



「『さうだ。おや、あの河原は月夜だらうか。』そっちを見ますと、 青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすゝきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立ててゐるのでした。

 『月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。』ジョバンニは云ひながら、まるではね上りたいくらゐ愉快になって、足をこつこつ鳴らし、 窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 “銀河世界”は地球から遠く離れているのですから、その“そら”に月は出ていないはずです。そういう知識を―――カムパネルラは知らないのに―――ジョバンニがもっているのは、“欠落部分”でブルカニロ博士から“講義”を受けているからかもしれません。

 ジョバンニは有頂天です。「高く高く星めぐりの口笛を吹きました。」は、さきほど地上の「十字路」の場面で、同級生たちがジョバンニを嘲罵したあと、「高く口笛を吹いて」去って行くカムパネルラと同級生たちの態度に対応しています。

 ともかく、“旅立ち”前にはブルカニロ博士の宇宙の説明に強く反発していたジョバンニは、ここではもうブルカニロ博士の宇宙観を自分のもののように語っているのです。






 もっとも、ジョバンニはここでブルカニロ博士と完全に一致してしまうわけではありません。このあとも、“銀河世界”の異常な現象がつぎつぎに繰り出されてくるたびに、ジョバンニとカムパネルラは、それらに対して疑いをかくさないのです。すでに、「鳥捕り」の登場場面などで見てきたとおりです。

 世界の“組成”をめぐるブルカニロ博士とジョバンニ・カムパネルラとのあいだの争異は、この童話のつづく限り、とどまることなく繰り返されて行きます。いや、

 …この童話だけではありません。世界の“組成”をめぐる止まることのない争異、つぎつぎに開示される未知の“組成”の露頭、‥‥いわば永久に堂々めぐりをつづける“遠い未来の地質学”を列ねたような宇宙観は、宮沢賢治の詩と童話の全作品に瀰漫しているのです。















 宮沢賢治の全作品に、並ぶもののない壮大さと不可思議の印象をあたえているそうした特質を、私たちは“争異するコンシストロジー(組成論)”の美学と名づけることができるかもしれません。



「"y は x から成るのではなく、かつ『ほんたうは』y は z から成る"という命題を、このテクストの根底に認めてもよいだろう。対象の組成を示す函数を P(comPosition の P)と書けば、函数表現風には、〔y≠x, y=P(z)〕と要約できる。

 世界の組成はいったん否定され、しかる後に別の《統合》の主張がなされるのである。
〔…〕世界の否定的−統合的組成を示すレトリックの一般的形式にほかならない。

     
〔…〕

 空間の成分がまるで『蛍烏賊の火』の『化石』や『金剛石』のようであり、銀河の材質を『水晶』『黄玉』『鋼玉』と見なすレトリックは、通常の物理学を否定し、散乱する鉱物的材料の《統合》として世界の組成を呈示する、否定的−統合的組成論の表現なのである。

     
〔…〕

 だが、統合的組成論が否定性を伴う限り、文体は常に論争を共示することになる。現実領域における
〔ギトン注―――「午後の授業」の〕先生の科学への反発、〔…〕幻想界においても『なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ』と鳥捕りが否定され、〔…〕これは凄まじいまでに論争的なテクストなのだ。〔…〕

 否定的−統合的レトリックは、いわゆる〈夢〉と〈現〉との正統性奪取の論争をそもそも内在している。」

中村三春『修辞的モダニズム』,2006,ひつじ書房,,pp.75-78.



 “世界は‥‥ではなく、〜のようなものだ。”“世界は‥‥ではなく、〜から成る/作られている”―――このような文型(レトリック)が、『銀河鉄道の夜』の地上場面にも“銀河の旅”場面にも頻出しています。これらの文型をとらなくとも、同様の発想は、宮沢賢治のほとんど全作品で主張されていると言ってよいと思います。

 大空を組成しているのは、空気と水蒸気だけではない、「青ぞらいつぱいの無色な孔雀」がいるのであり、2000年後には大気圏上層から、その化石が発掘されるにちがいない(『春と修羅』「序詩」)と言ったり、

 正午の湿地に注ぐ陽の光は「琥珀のかけら」であり(同「春と修羅」)、「栗の梢」はモザイク・ガラス、「やなぎの葉」はブリキでできている(同「火薬と紙幣」)と主張されたりするのです。

 しかも、さまざまに主張される“組成論”のどれかが、客観的に正しいものとして確定するということはなく、ある統合組成 → その否定 → べつの統合組成 → その否定 ‥‥というように限りなく繰り返されてゆくのです。

 もっとも、このような宮沢賢治ないしはジョバンニの特徴的な“世界”の見方を、“主体”が“世界”に対して一方的に意味を付与して主張しているように、近代的に理解してしまうと、新たな誤解に陥ると思います。「統合的組成」という言い方は語弊があるかもしれません。

 ジョバンニの“旅立ち”の場面で、どこからともなく聞こえてくる「銀河ステーション、銀河ステーション」という声に対して、



「そしていよいよおかしいことは、その語が、少しもジョバンニの知らない語なのに、その意味はちゃんとわかるのでした。」



 と書かれていたように、“世界”のしくみ(組成)に関する知識・感覚(ディスクール)は、そのつど新たな“世界”のほうから、作中人物にも作者にも与えられて来るのです。



 このような宮沢テクストのなかにおいては、そもそもどれが〈現実〉で、どれが〈夢〉ないし〈幻想〉なのか、という区別さえ、自明ではなくなってきます。

 鳥の脚の「チョコレート」は、…それを〈夢〉と考えるジョバンニの現実感覚に対して、それを「ぽくぽく食べ」るジョバンニの味覚が裏切っており、「チョコレート」こそがより“正統”な〈現実〉なのだと主張しているように見えます。地上に降りて来たジョバンニに対して、ブルカニロ博士が激励することば:



「お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。」



 にある「本統の世界の火やはげしい波の中」という表現は、“銀河世界”をも凌駕する〈夢〉と〈幻想〉に彩られてはいないでしょうか?

、…この童話を、地上の〈現実〉と〈幻想〉の宇宙を往復して成長する少年の物語とする健全志向の“成長読み”(吉本隆明、別役実等、圧倒的多数)には、大きな疑問符が付せられざるをえません。

 『銀河鉄道の夜』における〈夢〉ないし〈幻想〉と〈現実〉とのあいだの問題については、次回も引き続いて見て行きたいと思います。








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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