04/08の日記

00:01
【宮沢賢治】風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(5)

---------------
.




 
北京 故宮 九龍壁 (矢印:摩尼宝珠)  








 こんばんは (º.-)☆ノ



 宮沢賢治の童話小品『龍と詩人』をとりあげています:


 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(1)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(2)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(3)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(4)






【13】「貝の火」と、龍の「赤い珠」



 宮沢賢治に、『貝の火』という童話があります。《10/20(イ)イーグル印》という原稿用紙に書かれており、この用紙は、1921年1-8月の東京滞在中に(おそらく 4-6月の間)東京で購入された可能性が大きい(東京から賢治の出した手紙のうち 6月以降の4通が、この用紙に書かれています)。『貝の火』は、1922年11月に及川留吉氏(当時農学校在学中の賢治の生徒)の筆写した写本が現存しているそうですから、成立時期は、1921年6月〜22年11月の間と推定して、ほぼまちがえありません。つまり、『龍と詩人』より前の作品です。



 『貝の火』の【あらすじ】

 川に流されたヒバリの子を助けた仔兎のホモイが、鳥の「王さま」からお礼の宝玉「貝の火」を贈られる。「貝の火」をもったとたん、ホモイは、鳥たち、動物たちから敬われるようになる。しかし、その権威を利用しようとする狐に騙されて、網で鳥たちを捕獲する行為に関わってしまう。その時、「貝の火」は光を失い、ホモイの眼を失明させたうえ、どこへともなく転がって行ってしまう。





 この「貝の火」という宝玉の外観が、『龍と詩人』の「赤い珠」と、たいへんよく似ているのです:



「ひばりはさっきの赤い光るものをホモイの前に出して、薄いうすいけむりのようなはんけちを解きました。それはとちの実ぐらいあるまんまるの玉で、中では赤い火がちらちら燃えているのです。

 ひばりの母親がまた申しました。

 『これは貝の火という宝珠でございます。王さまのお言伝
(ことづて)ではあなた様のお手入れしだいで、この珠はどんなにでも立派になると申します。どうかお納めをねがいます』

     
〔…〕

 ホモイは玉を取りあげて見ました。玉は赤や黄の焔をあげて、せわしくせわしく燃えているように見えますが、実はやはり冷たく美しく澄んでいるのです。目にあてて空にすかして見ると、もう焔はなく、天の川が奇麗にすきとおっています。目からはなすと、またちらりちらり美しい火が燃えだします。」

宮沢賢治『貝の火』より。

  原文は旧仮名遣い。以下同じ。



 比較のために、『龍と詩人』の箇所を再度引用しますと:



「わたしはわたしの小さな贈物をだけしやう。こゝに手をのばせ。)龍は一つの小さな赤い珠を吐いた。そのなかで幾億の火を燃した。」







ファイア・オパール(メキシコ産)






 『龍と詩人』と比較すると、「貝の火」の物語の中での役割は、「赤い珠」よりむしろ、スールダッタが「詩賦の競ひ」で歌った「うた」に似ているかもしれません。


 〇持ったとたんに尊敬される。

 〇しかし、ささいな出来事によって、栄光は突然に失われる。



 ↑この2点で、「貝の火」がホモイに及ぼした影響は、「詩賦の競ひ」の優勝がスールダッタにもたらした事態に、似ています。

 「貝の火」は、宝石のオパールがモデルだとされています。オパール(蛋白石)は、2酸化珪素の含水コロイドからなる鉱石。オパールの中でも、当時輸入されるようになったメキシコ産のファイア・オパール(↑写真参照)は、遊色効果(干渉光を反射して、虹のような多色の色彩を示す)が顕著で、赤〜褐色透明な石の内部に、火が燃えているような斑が見え、光の角度によって色が変化します。

 「赤い珠」も、同様でしょう。

 しかし、スールダッタは、ホモイとは違って、「赤い珠」を、すぐには持とうとしないのです。『龍と詩人』の続きを見たいと思います:



「(その珠は埋もれた諸經をたづねに海にはいるとき捧げるのである)

 スールダッタはひざまづいてそれを受けて龍に云った。

  (おゝ龍よ、それをどんなにわたしは久しくねがってゐたか わたしは何と謝していゝかを知らぬ。力ある龍よ。なに故窟を出でぬのであるか。)

  (スールダッタよ。わたしは千年の昔はじめて風と雲とを得たとき己の力を試みるために人々の不幸を來したために龍王の____
〔数文字分空白・傍線付き〕から十萬年この窟に封ぜられて陸と水との境を見張らせられたのだ。わたしは日々こゝに居て罪を悔ひ王に謝する。)

 (おゝ龍よ。わたしはわたしの母に侍し、母が首尾よく天に生れたらばすぐに海に入って大經を探らうと思ふ。おまへはその日までこの窟に待つであらうか。)

 (おゝ、人の千年は龍にはわづかに十日に過ぎぬ。)

 (さらばその日まで龍よ珠を藏せ。
〔…〕
宮沢賢治『龍と詩人』より。




 チャーナタから「赤い珠」を渡されたスールダッタは、


「それをどんなにわたしは久しくねがってゐたか わたしは何と謝していゝかを知らぬ。」


 とまで言って喜んでいるのに、ではただちに、その「珠」を奉じて、「埋もれた諸經をたづねに」出かけるかというと、そうはしないのです。



「わたしはわたしの母に侍し、母が首尾よく天に生れたらばすぐに海に入って大經を探らうと思ふ。おまへはその日までこの窟に待つであらうか。」


 スールダッタの「母」の年齢はわかりませんが、スールダッタが「わかもの」なのですから、「母」は老人ではないでしょう。まだ若いかもしれません。その母が死んで、「天に生れ」るまで、待っていろと言うのです。

 仏教の伝統的な考えでは、人は死んですぐに「天に生れ」るわけではありません。とくに、女の人は性転換しないと「天」に生まれることができないとされる。『宇治拾遺物語』の説話(清徳聖奇特の事)では、3年後に、「男子となりて天に生まれ」「今は仏になりて告げ申すなり」と言う「母」の声が聞こえたとあります。徳の高い「聖(ひじり:遊行僧)」が、陀羅尼を日夜唱え続けても 1,2年かかるわけです。ふつうは、何年かかるかわかりません。宮沢賢治は、トシが死んで 8ヶ月後の「青森挽歌」で、天上界に達したトシのようすを想像していますが、これはちょっと気が早すぎるんではないだらうかw

 そういうわけで、スールダッタは、ほしいと思っていた「珠」をせっかくもらったのに、これを使うのは何十年も先にする、と“延期”して、龍に「珠」を返してしまうのです。返したと、はっきり書いてあるわけではありませんが、


「その日まで龍よ珠を藏せ。」


 と言っていますから、返したのでしょう。

 いったいどうして、スールダッタは、すぐに「赤い珠」によって「大經を探」りには行かないのか?






 






【14】“自然”からの贈与と、人間の“自由”



 『貝の火』を見ると、仔兎のホモイも、やはり、はじめは「貝の火」を受け取ろうとせず、断っているのです:



「ホモイは笑って言いました。

 『ひばりさん、僕はこんなものいりませんよ。持って行ってください。たいへんきれいなもんですから、見るだけでたくさんです。見たくなったら、またあなたの所へ行きましょう』

 ひばりが申しました。

 『いいえ。それはどうかお納めをねがいます。私どもの王からの贈物でございますから。お納めくださらないと、また私はせがれと二人で切腹をしないとなりません。さ、せがれ。お暇
(いとま)をして。さ。おじぎ。ご免くださいませ』

 そしてひばりの親子は二、三遍お辞儀をして、あわてて飛んで行ってしまいました。」

宮沢賢治『貝の火』より。



 つまり、ホモイの場合には、無理やり押しつけられるようなかたちで、「貝の火」を受け取ってしまいます。そのとたんに、まわりの動物たちが、急にホモイを敬うようになるという“効果”が現れるのですが、その反面、ホモイの「父」が言うように↓、「貝の火」の所持によって、幼いホモイが背負いきれないほどの“責任”の重圧を負うことになるのです:



「兎のお父さんが玉を手にとって、めがねをはずしてよく調べてから申しました。

 『これは有名な貝の火という宝物だ。これは大変な玉だぞ。これをこのまま一生満足に持っている事のできたものは今までに鳥に二人魚に一人あっただけだという話だ。お前はよく気をつけて光をなくさないようにするんだぞ』」

宮沢賢治『貝の火』より。



 そして、けっきょく、ホモイは、「貝の火」の重い“責任”をまっとうすることができず、たった3日で、所持者の資格を失うことになります。しかも、失明するという重い罰を受けて。(ちなみに、「ホモイ」という名前は、エスペラントで「人間たち」を表す homoj[ホーモイ] からきている――『龍と詩人』の場合とは違って、これは通説――“タイプ名”です。ホモイは、人間という“自由の重圧”から逃れられない存在のアレゴリーであることを、あからさまに示しています。)

 いわば“名誉”と“責任”がうらはらの関係にあるという、この道理は、『龍と詩人』ではすでに、「詩賦の競い」をめぐる、スールダッタの“優勝の栄光”と“誹謗によるその落胆”というエピソードによって、スールダッタに開示されていました。

 スールダッタが、せっかくもらった「珠」を龍に返してしまうのも、そうしたことによって躊躇いの気持が起きたせいかもしれません。「久しくねがってゐた」ことであればあるほど、それがうらはらにもたらすかもしれない脅威を危惧しないではいられません。もっとも、スールダッタが、


「それをどんなにわたしは久しくねがってゐたか」


 と言っているのは、直接には、「赤い珠」そのものが欲しいということよりも、それによって「埋もれた諸經をたづねに海にはいる」ことのほうでしょう。文脈上、「ねがってゐた」という言い方からして、スールダッタが願っていたのは、「諸經をたづね」ることであるはずです。

 スールダッタが、チャーナタに会う前から、龍の「赤い珠」というものがあることを知っていたかどうかは、わかりません。しかし、海底に埋もれている・失われた経典を探しに行きたい、という願いは、まえまえから抱いていたのでしょう。

 「珠」を受け取ったスールダッタは、まず、


「力ある龍よ。なに故窟を出でぬのであるか。」



 と、チャーナタに尋ねます。この「赤い珠」が、「埋もれた諸經をたづねに海にはいるとき捧げる」ものであるならば、なぜ、チャーナタ自身が、「埋もれた諸経」を探しに行かないのか?―――という意味です。

 「聖龍王」の罰を受けて、「十萬年」のあいだ洞窟に封じられているので、外に出られない、という境遇をチャーナタから聞いたスールダッタは、そこではじめて、自分が、その「珠」を持って探索に行く決意を述べるのです。チャーナタが洞窟から出られないのであれば、何十年か後になるけれども、自分が、海底に「埋もれた諸経」を探しに行こう、と約束します。

 つまり、スールダッタは、チャーナタのいわば“代理”として、チャーナタの意思を実現するために、経典発掘の冒険に出かけようと言っているのです。なぜなら、海底への探索行に必要な「赤い珠」は、あくまでもチャーナタのものであるからです。チャーナタのものであるだけでなく、


「龍は一つの小さな赤い珠を吐いた。そのなかで幾億の火を燃した。


 と書かれているように、「珠」は龍の身体を離れても、なお龍の意思によって活動する身体の一部なのです。その「珠」がなければ、人間であるスールダッタは、溺れずに「海にはいる」ことさえできません。













「(さらばその日まで龍よ珠を藏せ。わたしは來れる日ごとにここに來てそらを見、水を見、雲をながめ、新らしい世界の造營の方針をおまへと語り合はうと思ふ。

 (おゝ、老いたる龍の何たる悦びであらう。)」

『龍と詩人』より。



 「來れる日ごとに」は、これからの数十年間毎日という意味なのか、折りに触れて、たとえば、毎月もしくは毎年、きょうと同じ日が「来るたびに」という意味なのか、わかりません。このすぐあとで、


「(さらばよ。)(さらば)」


 と告げ合って別れるところをみると、毎日ではないようです。

 ともかく、スールダッタは、今後もしばしば、この洞窟のそばに来て、「新らしい世界の造營の方針をおまへと語り合」うと約束するのです。

 アルタの頌詩には、



「星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覺悟する
 あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる豫言者、
 設計者スールダッタ」



 と歌われていました。「星」と「陸地」自身が「そうならうと思」っている「まことと美との模型」を示し、やがてはその模型に「かなふ」世界を生成させる―――という「豫言者、設計者」の役割は、そこで明らかにされていましたが、それは抽象的な“原則論”にすぎません。いったい、どのようにしたら、「あしたの世界」が、「まことと美」に「かなふ」ような世界になるのか、つまり具体的な“方法論”は、そこには示されていないのです。また、そこでいう「まことと美との模型」‥「あしたの世界」の「模型」とは、具体的にどんな内容のものなのか? 「あしたの世界」とは、どんな世界なのか? ‥‥それはまったく不明というほかありません。

 スールダッタは、これからチャーナタとともに、その「新らしい世界の造營の方針」を作り上げていこうと言っているのです。

 このように考えると、スールダッタが「埋もれた諸経」の探索行を、何十年か“延期”したのは、むしろ賢いことだったと言えるかもしれません。

 それというのも、チャーナタ龍は、はるか昔に、いちど失敗をしているからです:



「わたしは千年の昔はじめて風と雲とを得たとき己の力を試みるために人々の不幸を來した」


 そのことが原因となって、現在、この洞窟に封じ込められているのです。チャーナタは、「埋もれた諸經をたづねに海にはいるとき捧げる」「赤い珠」を体内に蔵しているのですから、もともと、「己の力を試みるため」の失敗さえしなければ、自ら「諸経をたづね」て発掘し、人間たちに将来するはずだったのかもしれません。スールダッタが示唆するように、「力ある龍」は、その「力」の使いようによっては、「人々の不幸を來」すこともできれば、幸福をもたらすこともできるのです。

 龍が「風と雲とを得」ることは、「風と雲」の「うた」を聴いて自らも歌うこと、「雲であり風であ」るものとなって共に「うた」をうたうことに通じます。おそらく「うた」は、「風と雲とを得」て大空を翔る龍の活動の一部なのでしょう。

 しかし、風と雲の「うた」を唄い、スールダッタのような“詩人の感性”を通じて、人びとにそれを聴かせることだけが龍の活動でないことは、もちろんです。“龍”の「力」は、あまりにも強大であり、人間に対しては“暴力”となって及ぶこともあるのです。

 そこで、「埋もれた諸經をたづね」ることは、龍の強大な“力”を、宗教に裏づけられた“正しい方向”へ向ける意味があるのかもしれません。

 しかし、作者・宮沢賢治が、「新らしい世界の造營の方針」を「語り合」うことを、チャーナタとスールダッタのふたりに約束させているのは、経典をもたらすだけでは不足だと、考えたからではないでしょうか。賢治は、おそらく、己れを空しうして、経典の教えにしたがう――ということに満足できなかったために、浄土真宗から離れ、法華経と日蓮宗に真理を求めていったのだと思います。



「今度私は
  国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は
  日蓮聖人の御物です。従って今や私は
  田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。
 謹んで此事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります。
〔…〕
宮沢賢治書簡[177] 1920年12月2日付 保阪嘉内宛て より。



 ↑これは、『国柱会』に身を投じようとして上京する直前の手紙です。ここで賢治は、日蓮と田中智学への“絶対服従”を宣言しています。しかし、上京後まもなく、それにも飽き足らなくなって、自らの宗教的・文学的信念をあらためて組み立てようとしています。上京して訪ねた『国柱会』本部で、冷たくあしらわれたのは事実ですが、それは外面的な出来事にすぎません。

 賢治にとって、経典、教義はあくまでも、人がみずから信仰を構築してゆくための手がかりなのだと思います。






 
Wilhelm von Gloeden (1856 -- 1931)   






 そういうわけで、『龍と詩人』でも、作者は、スールダッタが「諸經をたづねに」行く、というだけでは満足せず、それを数十年先に“延期”させたうえで、それまでの間、


「ここに來てそらを見、水を見、雲をながめ、新らしい世界の造營の方針を」


 語り合うこととしたのだと思います。「新らしい世界の造營の方針」は、「風と雲」の「うた」からただちに聞き取れるようなものではなく、海に「埋もれた諸經」を手に入れれば、そこに書いてある、というようなものでもありません。それは、あくまでも、人間たちが、自らのあいだで議論し、構築しなければならない。つまり、人間は、望むと望まざるとにかかわらず、“自由”を課せられているのです。

 その反面、「そらを見、水を見、雲をながめ」とも書かれているように、その議論は、人びとが“自然物”の一部分となった・詩的精神と感覚のもとに、行われなければならない。なぜなら、構築されるべき「新らしい世界」とは、アルタの頌詩にいう:


「星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覺悟する……まことと美」


 の世界なのであるから。そのことと、消し去ることのできない“人間の自由”とは、どんな関係にあるのか?…………

 こうして、“自然と一体になること”をテーマとした『龍と詩人』の最後の部分で、“人間の自由”という問題があらわれてきたことに注目したいと思います。

 『貝の火』のホモイも、『龍と詩人』のスールダッタも、自然からの“贈与”を受けるにあたって“抵抗”を示しています。ホモイは、差し出された“贈与”をいったん断り、スールダッタは、“贈与”の受領を延期して、いったん返却しています。そこには、《ことば》がもたらす栄光と、栄光に伴なう“責任”と“不幸”、また、“独り歩きする《ことば》と、作者の責任”という問題があります。

 これは、童話のみならず“文学”の枠を超えてしまうかもしれない、大きな問題だと思います。またそれは、“誰のものでもない「うた」と、作者の「個」の刻印”という問題にもつながります。賢治のテクストは、「新らしい世界の造營の方針」という一句によって、私たちに、この問題の片鱗を仄めかしたにすぎないのかもしれません。

 この大きな問題については、次回にもう一度取り上げて論じたいと思います。



「(さらばよ。)(さらば)

 スールダッタは心あかるく岩をふんで去った。

 龍のチャーナタは洞の奧の深い水にからだを潛めてしづかに懺悔の偈をとなへはじめた。」

『龍と詩人』より。






【15】「赤い珠」、海、と“性愛”



 『新校本全集・校異篇』によると、チャーナタがスールダッタに「赤い珠」を渡す場面のテクストには、賢治の書き直しが見られます。↓青字の部分が、書き直された後の現行テクストです:



〔…〕スールダッタよ

 もしわたくしが外に出ることができおまへが恐れぬならばわたしはおまへを抱きまた撫したいのであるがいまはそれができないのでわたしはわたしの小さな贈物をだけしやう。こゝに手をのばせ。)龍は一つの小さな赤珠を吐いた。そのなかで幾億の火を燃した
。」
『龍と詩人』より。



 これらは、はじめ↓つぎのように書かれたあと、上のように書き直されているのです。



〔…〕スールダッタよ

 もしおまへが恐れぬならばわたしはおまへの頬を嘗めたいのであるがいまはそれができないのでわたしはわたしの小さな贈物をだけしやう。手をのばせ。)龍は一つの小さな赤珠を吐いた。それはなかで幾億の火を燃した。」






 
   長崎くんち 龍舞






 チャーナタ龍は、


「あのうつくしい歌を歌った尊ぶべきわが師の龍よ。おまへはわたしを許すだらうか。」


 と問いかける美丈夫の「わかもの」に対して、


「あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。……誰が許して誰が許されるのであらう。われらがひとしく風でまた雲で水であるといふのに。」


 と言って慰めたうえ、「わかもの」に対する親愛の情あまって、岩の割れ目から舌を出して、スールダッタの「頬を嘗(な)め」ようとした―――賢治が最初に考えたテクストは、そういうものでした。ここには、“龍”と“わかもの”との間のセクシュアルな交感が感じられます。チャーナタの性別は明示されていませんが、男性でしょう。つまり、同性愛のセクシュアルな官能が、いったんは描かれたのです。

 賢治がそれをすぐに抹消して、現行テクストに直しているように、性愛の官能は、この説話の主スジではありません。しかし、現在までのところ、賢治作品のこういう面を読みとろうとする人は少ないので、ここで少しまとめておくのも無駄ではないでしょう。



「『珠』とは、広辞苑によれば、『玉』が鉱物由来であるのに対して、海に由来するものだという。白珠は真珠で、赤珠は珊瑚珠とのことである。珠は竜と因縁の深い存在である。
〔…〕龍が蔵する珠を取ろうとして失敗するのが『逆鱗にふれる』であったはず。〔…〕10月9日に行われる長崎の『おくんち(御九日)祭』で〔…〕『龍踊り』は珠を追って舞われるという。」
続橋達雄・編『〈初期作品〉研究』,1976,学芸書林,p.174.



 伝統的用語では、「赤い珠」は、赤いサンゴの珠のようです。また、「珠」は、海および龍と関係が深いらしい。ただし、長崎の「くんち」でも、日本、中国など各地の「龍踊り」でも、龍が追いかける「宝珠」は、赤ではなく金色です。赤いサンゴの「珠」も、中で火が燃えているわけではありません。

 「赤い珠」じたいは、ファイア・オパールにヒントを得た宮沢の独創だとしても、


「その珠は埋もれた諸經をたづねに海にはいるとき捧げる」


 とされ、“海”とのつながりは念頭におかれていると言えます。そして、スールダッタは、龍に対して、いつかは「海に入って大經を探らうと思ふ。」と約束しています。海にもぐってゆくことは、セクシュアルな行為を思わせます。

 ホモイが、無理やり押しつけられたとはいえ、「貝の火」の美しさに見とれて、とりこになってしまう筋書きは、セクシュアルなものの誘惑を思わせます。『龍と詩人』のスールダッタは、いわば性慾の充足を“延期”しているのです。

 「諸経」を求めて「海にはいる」とは、人間と世界の内奥の秘密を探り、それと合体することを意味するでしょう。真理を“理会する”とは、単に知ることではなく、身体によって出会い、体現することを意味します。“水に入る”ことは、性愛とともに、内奥への没入のアナロジーにほかなりません。

 「諸経をたづねに海に入る」とは、入水にほかならないとすれば、人間としての現世の生命を失って、彼岸に渡ることを意味することになるかもしれないのです。ここで、“性”と“死”はひじょうに近い境域で接しています。

 『春と修羅(第1集)・補遺』の「宗谷挽歌」では、亡き妹の死後の消息を求めて、船の甲板から海に入水しようとする気持が描かれています:



「こんな誰も居ない夜の甲板で
 (雨さへ少し降ってゐるし、)
 海峡を越えて行かうとしたら、
 (漆黒の闇のうつくしさ。)
 
〔…〕
 私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。

      
〔…〕

 けれどももしとし子が夜過ぎて
 どこからか私を呼んだなら
 私はもちろん落ちて行く。

      
〔…〕

 みんなのほんたうの幸福を求めてなら
 私たちはこのまゝこのまっくらな
 海に封ぜられても悔いてはいけない。」













 『小岩井農場・パート9』では、雨に濡れながら農場の小路をたどっているとき、「ユリア」「ペムペル」と賢治が呼ぶ少年たちの幻影が、彼と並んで歩いて行きます。



「たしかにわたくしの感官の外で
 つめたい雨がそそいでゐる

  (天の微光にさだめなく
   うかべる石をわがふめば
   おゝユリア しづくはいとど降りまさり
   カシオペーアはめぐり行く)

 ユリアがわたくしの左を行く
 大きな紺いろの瞳をりんと張つて
 ユリアがわたくしの左を行く
 ペムペルがわたくしの右にゐる」



「ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
 わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
 きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
 どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
 白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう

   《あんまりひどい幻想だ》

      
〔…〕

 きみたちとけふあふことができたので
 わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
 血みどろになつて遁げなくてもいいのです」



 菅原千恵子氏によれば、この「ユリア」「ペムペル」、そして〔下書稿〕にあるもうひとりの少年「ツィーゲル」は、高等農林学校時代の同人誌《アザリア》の3人の仲間が、回想のなかで実体化した幻影にほかなりません。雨に濡れるとは、水の中に潜る誘惑であり、セクシュアルな一体化の幻想なのです。

 そう考えれば、同じ『パート9』の、雨の中で啼くヒバリ(の幻聴)、濡れた黒い馬、『パート7』で、「あかるい雨の中ですうすうねむる」少女たち、『パート3』の暗く濁った沢水の「鉄ゼルの fluorescence」など、類似のセクシュアルな形象が、この長詩のあちこちに見られます。



「  青柳教諭を送る

 秋雨にしとゞにぬれて
 きよらかに頬瘠せ青み
 おもはざる軍
〔いくさ〕に行かん
 師はひとりおくり来ませり

 羊さへけふは群れゐず
 玉蜀黍
〔きみ〕つけし車も来ねば
 このみちの一すじ遠く
 雨はたゞ草をあらへり

   
〔…〕
宮沢賢治『文語詩未定稿』〔瘠せて青めるなが頬は〕〔下書稿(一)手入れ〕より。



「ひとびとに
 おくれてひとり
 たけたかき
 橘川先生野を過ぎりけり


 追ひつきしおじぎをすれば
 ふりむける
 先生の眼はヨハネのごとし」

宮沢賢治『歌稿B』#6a-b.



 “性”と“聖”と“死”。―――想像力としての“聖”が、“性”の感覚と、観念の“死”とを結びつけています。

 雨がそぼ降る果てしない霧の野原を行く「青柳教諭」の姿に、ヘロデ王に殺害された殉教者ヨハネを映し見ています。実際に、賢治が盛岡中学校で教わった青柳亮・助教諭(英語担当)は、徴兵のために退職したので生徒たちが送別会を開いた――というだけの事実でした。しかし、少年賢治には、青柳氏との半年たらずの出会いが、のちのちまで思い出されるほどの強い印象を与えたのです。短歌のほうでは、漢文・国語の橘川教諭のおもかげが重なっています。青柳に対する賢治の回想には、中学生時代のさまざまな出来事の印象が流れこんでいるようです。

  【参考記事】「青柳教諭を送る」⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》3.6.29

  【参考記事】「青柳教諭を送る」⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》3.6.24

















ばいみ〜 ミ



 
現代詩ランキングへ
.
カテゴリ: 宮沢賢治

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ