ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.6.24


“長者館2号”耕地のスロープを登って行く作業員の姿を見て、──あるいは、その状況を、後日思い出しながら推敲している時に──作者には、「青柳教諭」に関する記憶が、よみがえったようです。

なぜ、記憶がよみがえったかというと、‥このあたりで、遠くを人が、ひとりでとぼとぼと歩いている後ろ姿──という状況が、「青柳教諭」を思い出させるようなモメントが、むかしあったのだと思います。

また、網張街道(なのかどうかは、確信がもてないのですが)らしい「北へ這って行く」道を見つけたのが、きっかけになって、再び「青柳教諭」を思い出しています。

これは、「青柳教諭」とともに網張街道を歩いた覚えがあるからです。

「青柳教諭」は、宮澤賢治が、盛岡中学校2年の時(1910年)に、約8ヶ月だけ習った英語担当の教員ですが、賢治は、この先生の思い出がよほど深かったと見えて、のちのち作品にしているのです。

「岩手山に関する追懐」、あるいは、「網張へ行く道」とあるのは、

その1910年9月の秋分に、宮澤ほか9人の生徒が、青柳教諭とともに、夜行+1泊2日の行程で岩手山に登ったことを指しています。この時、下山路は、網張温泉に小屋泊まりし、網張街道を歩いて、小岩井農場を通り抜けて下りて来たのです。

青柳亮(1889-1949)は、1910年に東京外国語学校英語科を卒業して盛岡中学校に赴任し、2年生の賢治らを教えた英語の先生☆でした。当時21歳の若い先生でしたが、兵役に就くために、同年11月14日退職して故郷(島根県松江)に戻っています★

☆(注) 盛岡中学校の正式資料によれば、教諭ではなく嘱託講師でした。「青柳教諭」に関するデータは、小沢俊郎「秋雨に聖く」,in:同『薄明穹を行く』,pp235-260.

★(注) 島根県の人が、東京の学校(東京外国語学校は、現在の東京外国語大学)を出た後で、たった8ヶ月間、しかも嘱託講師という不安定な身分で、逆方向の岩手県の中学に来た理由は、記録では解りません。おそらく、青柳氏は“文学青年”で、石川啄木の出身校である盛岡中学校に憧れていたのではないか?兵役までのわずかの“自由な”期間を、そこで過ごしてみたいと思ったのではないか、とギトンは推測します。

「青柳教諭」に関連する作品は、1910年当時の短歌が何篇か、そして、この「小岩井農場」【下書稿】のメモと、【清書稿】の一部、さらに晩年(1928年以後)に書かれた文語詩「青柳教諭を送る」とその一連の草稿があります。

まず、文語詩「青柳教諭を送る」を見ておきたいと思います:

「〔青柳教諭を送る〕

 痩せて青めるなが頬は
 九月の雨に聖[きよ]くして
 一すじ遠きこのみちを
 草穂のけふりはてもなし

 羊も群れず玉蜀黍[きみ]つけし
 車も行かず この原に
 みちは一すじ遠くして
 草穂のけふりはてもなし」
 (『文語詩未定稿』〔痩せて青めるなが頬は〕【下書稿(2)】◇)

◇(注) 草稿は、「青柳教諭を送る」という標題のある【下書稿(1)】の裏面に清書されて書かれているので、『新校本全集』では、これ自体には標題がないものとして、本文1行目の「痩せて青めるなが頬は」を仮題にしています。また、第2連は著者による削除の指示があるので、第1連だけが、この詩の定稿とされています。しかし、ここでは、第2連を含む【下書稿(2)】の最初の形を表示しました。

果てしない草ぼうぼうの野原に、途絶えてしまいそうに心細く続いている一筋の小径、先に立って歩いてゆく教諭の細面の頬には、冷たい「9月の雨」が降りかかっています。

血の気の失せた青年の青白い頬を伝う雫は、中学生の作者には、涙のようにさえ見えますが、教諭はしっかりと面(おもて)を上げて進んで行くのです。
先生は、ひとりどこへ向って行くのでしょう。送って付いてきた作者には、それは知るよしもなく、ただその聖(きよ)い面影だけが胸に刻まれるのでした──

という感じでしょうか…


    

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