04/26の日記

19:24
【宮沢賢治】風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(6)

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横浜中華街 春節燈花   








 こんばんは (º.-)☆ノ



 宮沢賢治の童話小品『龍と詩人』をとりあげています:



 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(1)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(2)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(3)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(4)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(5)






【16】中上健次『宇津保物語』から



「仲忠が琴の名手だとは知られていた。
〔…〕いつも琴を彼は風のように奏し、弦が震えて立つ音がまっすぐ樹々の中心にある霊や花の中心にあるぼうっとかすんだ霊に行きつ戻りつするのを視ていた。霊は琴の音に身を寄せるように震える。音が鳴り始めると自分の手元に物の霊が集り来て乱舞するのが視えた。〔…〕琴を弾く以前はかさとも動かなかった物らが、いま仲忠によって揺られて動き出し空に舞う。仲忠は琴を演奏しながら岩を割って涌きだした清水の音を耳に聴いた。清水は光を眩ゆく撥ねながらその空に舞う物の霊を巻き込んで岩場の陰に入りさらに強い流れの沢に入り込みしぶきをあげる。仲忠の眼は翳り暗かった。

      
〔…〕

 仲忠は満座の中でほめたたえられながら、不意に独りぽつんと都の真中に取り残された気分になり、自分の歌った紅葉という言葉から、北山の紅葉を想像した。

 仲忠は息苦しかった。歌の中の紅葉と北山の紅葉は違っていた。〔…〕誰一人あのような色とりどりの紅葉を実際に眼にした者はいないだろうと仲忠は思い、その時、その息苦しさに耐えられず、紅葉の中にある音、梢の中にある音にむかって琴を力いっぱいかき鳴らした。

      
〔…〕

 仲忠は
〔…〕都にいて、着飾った女人や貴人らの興に乗る物の一等奥にあるもの、それこそが熊野の北山にあふれていた事を知っている。仲忠は琴を奏でる。仲忠の体は空洞になり自分が北山で習い覚え一身に寄せ集めた物が空洞の中に徐々にたまり始めるのを感じる。それは物の中心にひそんだ音、物の霊の音だった。紅葉は詞としての紅葉ではなく、水を吸い日に赤く明るく輝いている幾つもの葉の赤。光が、琴に合わせて動き出し舞い出す。」
『宇津保物語』「北山のうつほ」, in:『中上健次全集』12卷,集英社,1996,pp.11f.



 ここで、中上健次の小説をいきなり引用したのは、『龍と詩人』に書かれている、風や雲や波「が鳴らすそのうたをたゞちにうたふ」ということ、また、そうしたインスピレーションを受けて「うた」う時に、「わたし
〔チャーナタ――ギトン注〕は雲であり風であった。そしておまへ〔スールダッタ――ギトン注〕も雲であり風であった」とは、じっさいにどういうことなのか‥、私たちの現代の感覚でも納得しておきたいと思うからです。

 和歌というものは約束事で成り立っている面があるので、和歌に詠われた「もみじ」は、じっさいの色づいた樹々とは隔たりがあります。琴の名手である「仲忠」が、吉野の北山で身近に見ていた「紅葉」とは、「水を吸い日に赤く明るく輝いている幾つもの葉の赤。光が、琴に合わせて動き出し舞い出す。」というようなものなのです。深山で育った者、とくに仲忠のように、自然から受けるものを自分の演奏にむすびつけている者は、そのズレから「息苦しさ」を感じます。

 仲忠は、「紅葉」や樹木の「梢」や「清水の音」に音楽を聴きとっていました。それだけなら、「涼」(↓)のような、他の琴の名手も、していることです。しかし、仲忠の場合には、琴の音が、「樹々の中心にある霊や花の中心にあるぼうっとかすんだ霊に行きつ戻りつするのを視ていた。」つまり、楽器の音が、樹や花の中にある「霊」と感応して踊るように戯れているようすを「視て」いるのです。「霊は琴の音に身を寄せるように震える。音が鳴り始めると自分の手元に物の霊が集り来て乱舞するのが視えた。」

 これは、宮沢賢治が「チャーナタ龍」に、 


「スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考へたのであるか。おまへはこの洞の上にゐてそれを聞いたのであるか考へたのであるか。おゝスールダッタ。

 そのときわたしは雲であり風であった。そしておまへも雲であり風であった。詩人アルタがもしそのときに冥想すれば恐らく同じいうたをうたったであらう。」


 と言わせているのと似ています。たいへん近い場所からの“自然”の感触であると思います。中上の場合には、「霊」という媒介項、また、楽器という道具が介在していることによって、私たちにはより分かりやすい叙述となってるのですが、それらがなくとも、賢治は、ほぼ同じことを、いわば徒手で言おうとしているように思われます。







荒川源流






 しかし、『龍と詩人』の“アルタの頌詩”↓は、どうでしょうか?



「  風がうたひ雲が應じ波が鳴らすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ
   星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覺悟する
   あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる豫言者、
   設計者スールダッタ」



 「風がうたひ雲が應じ波が鳴らすそのうたをたゞちにうたふ」という部分は、自然の音の中に音楽や詩を聴きとるということで、『宇津保物語』の仲忠や涼と同じです。

 それに対して、「星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覺悟する‥‥まことと美との模型をつくり」ということになると、これは、たんに「風」や「波」や「樹々の梢」の音に詩を聴きとる、それらの「霊」を誘(おび)き出し交感する‥‥ということとは隔たりがあります。つまり、大きな飛躍があります。

 そこでは、「風」や「波」や「樹々」が属する“世界”全体の、眼に見えない変化が述べられているからです。つまりそれは、感覚をはるかに超えて理念的です。感覚の中で働く想像力ではなく、感覚をはるかに超えた理念的なものが見られています。

 このような理念的なものを、無媒介に“理解した”と信じてしまうことは危険です。理念は、空虚に“理解”されてしまうと、指し示すものの無いただの記号、内実のない“名前”のひとり歩きになってしまうからです。 

 賢治もまた、そうした危険を感じていたのだと思います。“アルタの頌詩”で讃えられたスールダッタは、まず、理由もなくその褒め言葉に酔いしれ、酔いがさめたとたんに、自己の「うた」う能力への疑いに苛まれることになりました。

 その理念的な部分は、いま脇へおいて、中上の「仲忠」の場合に“自然”との交換の媒介項となっている「霊」について、もう少し、賢治との比較を試みてみたいと思います:



「仲忠は北山の空洞でオニの子であり獣の子だった。沢には耳を聾する音を立てて流れる水が集まり川流れになり、ところどころに青い淵をつくっていた。子供の仲忠にはその淵の青があまりにも濃すぎた。そこでは水の流れが止り、頭からのめり込んで行きそうで畏ろしかった。石を投げると水音も浅瀬とは違っていた。日を撥ねる水がその眩しさで自分を誘い、罠におとそうとしているようだった。木は風に鳴り雨に鳴った。一体それらの音が何故わき起こるのか理解も出来ぬまま幼い仲忠は風の中を身の安全な方にむかって走った。仲忠は絶えずおびえていた。

 は仲忠のいうことが分からないと首を傾げた。」

『宇津保物語』「あて宮」,同,p.41.


 「淵の青」を見つめていると、「頭からのめり込んで行きそうで畏ろしかった」「自分を誘い、罠におとそうとしているようだった。」という部分は、中学生時代の賢治の↓つぎの短歌と響き合っています:



      ※

 石投げなば雨ふるといふうみの面はあまりに青くかなしかりけり。
 
      ※

 泡つぶやく声こそかなしいざ逃げんみづうみの青の見るにたえねば。
 
      ※

 うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり

『歌稿B』#77-79.



 「うみ」「みづうみ」は、岩手山頂カルデラにある火口湖「御釜」です。(【参考】⇒:「西火口原」と御釜湖 ⇒:岩手山頂の火口湖 ⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》3.6.25.

 中上健次の山奥の渓流の「淵」が、こちらでは火口湖ですが、異様に青い水の印象と、理由のわからない恐怖におそわれて、「風の中を身の安全な方にむかって走」る「おびえ」とが、両者に共通しています。






 
 荒川源流   






「カントの考えでは、
〔…〕崇高にかんする判断は、構想力[想像力]が『理性』とあいまって働くときにもたらされる。たとえば、規模においてあるいは威力においてわれわれを絶対的に圧倒するような自然に直面したとき、無力であるにもかかわらず、『われわれのうちに潜む超感性的な能力』を喚起されるときに、崇高の感情が生じる。〔…〕

 外に人を無力にするような圧倒的に巨大な威力をもったものがないならば、崇高はない。もちろん、内部にそれを超克する理性がなければ、崇高はない。さもないと、それは宗教的な恐怖になってしまい、『快』をもたらすどころではなくなる。」

『定本 柄谷行人集 第4巻 ネーションと美学』,2004,岩波書店,pp.98-99.



 つまり、「圧倒的に巨大な威力をもった」自然を前にして、卑小な存在である人間がはじめにもつ感情は、恐怖なのですが、人間の内部に、その「圧倒的に巨大な」自然をも「超克する理性」が生じ、「構想力(想像力)が『理性』とあいまって働くときに」、恐怖はしりぞいて、「崇高」の感情がもたらされるのです。なぜなら、理性は、人間が自己の存在を無限と思いなす際限なき能力だからです。

 「崇高」なものを想像し、畏敬することは、「圧倒的に巨大な威力」を前にした恐怖と「おびえ」の感情に根拠があるのです。

 もっとも、この、「崇高」なものに対する畏敬と、「星」や「陸地」、つまり“自然”全体の“意志”を想定するような理念との間には、やはりまだ距離があり、飛躍があります。

 その距離を埋めてゆくことに、賢治は努めたと思います。しかし、その努力はどのようにあったのか? どこまで成功したのか? 肺疾のために、いわば生涯の中途で命を奪われた・この探究者に対して、私たちは、敬愛の情とともに、そのことを慎重に見極めてゆく必要があると思います。






【17】“自然との交感”―――3つのレベル



 『龍と詩人』を中心に、この時期の宮沢賢治の諸作品を見てゆくと、そこには、“自然”に対する態度において、3つの異なる階層があるように思われます。階層と言うより、段階と言ったほうがよいかもしれません。異なる態度が、同時にみられる場合もあり、また、時期を追って継起的に交替してゆくようにも見えます。

 まず、最初のレベルは、“自然”とのあいだの“照り返し”の交換とも言うべき態度です。



「室の中はガランとしてつめたく、せいの低いダルゲが手を額にかざしてそこの巨きな窓から西のそらをじっと眺めてゐた。

 ダルゲは灰色で腰には硝子の蓑を厚くまとってゐた。そしてじっと動かなかった。

 窓の向ふにはくしゃくしゃに縮れた雲が痛々しく白く光ってゐた。

 ダルゲが俄かにつめたいすきとほった聲で高く歌ひ出した。

  西ぞらの
  ちゞれ羊から
  おれの崇敬は照り返され
  (天の海と窓の日覆ひ。)
  おれの崇敬は照り返され

おれは空の向ふにある氷河の棒をおもってゐた。〔するとどこかで誰かゞ平べったい声でゆるやかに歌った。

  日はしづか
  屋根屋根に
  藍晶石の粉がまかれ
  つめたくもひるがへる天竺木綿
  おれの崇敬も又照り返され。〕

ダルゲは又ぢっと額に手をかざしたまゝ動かなかった。」

宮沢賢治『圖書館幻想』より。

 段落の1行空けは引用者。


 【参考記事】
(『図書館幻想』の舞台)⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》荒川の碧き流れに(30)






「『虹さん。どうか、ちょっとこっちを見てください』めくらぶどうは、ふだんの透きとおる声もどこかへ行って、しわがれた声を風に半分とられながら叫びました。

 やさしい虹は、うっとり西の碧いそらをながめていた大きな碧い瞳を、めくらぶどうに向けました。

     
〔…〕

 めくらぶどうは、まるでぶなの木の葉のようにプリプリふるえて輝いて、いきがせわしくて思うように物が言えませんでした。

 『どうか私のうやまいを受けとってください』

     
〔…〕

 『けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います』

 『すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。ごらんなさい。まことの瞳でものを見る人は、人の王のさかえの極
(きわ)みをも、野の百合の一つにくらべようとはしませんでした。それは、人のさかえをば、人のたくらむように、しばらくまことのちから、かぎりないいのちからはなしてみたのです。もしそのひかりの中でならば、人のおごりからあやしい雲と湧きのぼる、塵(ちり)の中のただ一抹も、神の子のほめたもうた、聖なる百合に劣るものではありません』」
宮沢賢治『めくらぶだうと虹』

 原文は旧仮名遣い。段落の1行空けは引用者。



 『圖書館幻想』の草稿末尾には、「1921.11.-」と日付が記されています。現存草稿は、1921-23年頃の清書稿ですが、日付はおそらく最初の草稿を書いた時期でしょう。引用の〔 〕内は、清書稿に書き写した直後に抹消されている部分です。

 『めくらぶだうと虹』の現存草稿は、《10-20 イーグル印(草色罫)》に書かれた清書稿で、この用紙は、1921年の後半、東京から帰ってきた後に使用されたものと思われます。使用時期は遅くとも 1922-23年まででしょう。

 したがって、2作とも、ほぼ 1921年頃に成立したものと言えます。







花巻城・本丸跡    
『めくらぶだうと虹』の舞台と言われている。






 『圖書館幻想』については、1921年夏に、東京で保阪嘉内と久しぶりに会って、意見や志向の隔たりが大きくなってしまったことに衝撃を受けた体験がもとになっているとする、菅原千恵子さんの解釈があります。それによれば、「西ぞらの/ちゞれ羊」とは、嘉内のキリスト教信仰を暗喩しています。

 他方、秋枝美保さんによれば、「ダルゲ」とは、ドイツの仏教指導者ダールケのことであり、保阪とは関係がないとされます。「ちゞれ羊」とは、西洋人の受容した仏教(小乗仏教)を指すことになります。

 しかし、ここでは、賢治を執筆に向かわせた動機事情は、しばらく置いて、テクスト本位にこの作品を見たいと思います。そうすると、キリスト教、西洋人の仏教、いずれにしろ、宮沢賢治にとっては多分に“本を読んで理解した宗教”です。題名が「図書館幻想」となっているのも、それに関係するでしょう。それらは、賢治にとって、文字通り生まれながらにその信仰の中にあった大乗仏教とは、大きく異なった宗教なのです。

 つまり、それらの信仰の対象「ちゞれ羊」は、血肉の信仰というよりも、理念、理屈に近いもので、賢治には、どこか胡散臭く思われたかもしれません。

 もうひとつ参考になるのは、「ちぢれる」という言い方です。この語は、高等農林学校の賢治の仲間たちの間では、悩んで委縮した仲間を否定的に貶す意味で使われていたようなのです。嘉内は、“退学”の痛手から立ち直った時の日記に、自分はもう「縮れて」はいないと書いています:



「朋よ、今はおれは先の日のおれではない。
 あのあわれなる、小さい、ちゃちなにんげんぢゃない。
 力がある。輝きに満ち充ちてゐる。熱い心が躍ってゐる。
 ちゞれてはゐない。

      
〔…〕

 否 今や余は神だ。人間神だ。
 又はこれニィチェの超人だ。」

保阪嘉内:ノート『新しき生命』「跋文」より。



 宗教に限りませんが、人が、本などで読んだ“理念”を固く信じようとしているとき、それと矛盾する生活上のさまざまな思い――とく性欲や、金銭の必要―――が交錯して、頭の中は、いつも揺れ動く思いでいっぱいになります。それを「ちゞれ羊」と言っているのかもしれません。

 語り手「おれ」は、「ちゞれ羊」、つまり日に輝く雲と照らしあう「ダルゲ」の「崇敬」を、「空の向ふにある氷河の棒」のように冷たい信仰として、否定的に感じています。しかし、そういいながら、語り手自身も、「ダルゲ」に唱和して続きを歌い、「おれの崇敬も又照り返され」と言っているのです。それが、「どこかで誰か」が歌っているように聞こえるのは、自分の声だとは認めたくない無意識の心理的規制のためです。あるいは、かつては「ダルゲ」とともに歌った、と考えてもよいでしょう。

 つまり、この型の“自然との交感”は、多分に理念的で、どこかそらぞらしく、この 1921年の時点では、賢治は、すでにそこから離れつつあると考えられるのです。

 もっとも、『めくらぶだうと虹』のほうでは、同じ“照り返し”の「うやまひ」が、より肯定的に扱われています。しかし、そこでも、「うやまひ」の対象とされた「虹」は、「めくらぶどう」に向かって、「私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。」―――どちらかが光源ということではないのだ、と言っています。

 「ごらんなさい。」以下は、『聖書』の「マタイ伝」6:28-31 に典拠があります。賢治は、一面では、キリスト教信仰を高く評価していたことがわかります。とはいっても、賢治の描くキリスト教は、正統なキリスト教そのままではなく、たぶんに大乗仏教的に理解されたものだったかもしれません。

 『めくらぶだうと虹』で、「虹」は、「まことのちから、かぎりないいのち」の「ひかりの中でならば、」「塵の中のただ一抹も、神の子のほめたもうた、聖なる百合に劣るものではありません」と答えています。「虹」のこのことばからも解るように、賢治は、“絶対者”への「崇敬」そのものよりも、その「ひかり」の中での、衆生生物に対する慈しみをより重視しているようです。「まこと」の「ひかりの中」では、すべての「いのち」は平等なのだ―――という点を、とりわけ強調しているのです。



「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」

『マタイによる福音書』6:28-31。






 
秩父華厳の滝    






 “自然との交感”の第2の型を見たいと思います。第1の型では、「おれ」や「ダルゲ」のような人間、および「めくらぶどう」のような擬人と、“自然”―――そらの縮れ雲や虹―――とのあいだには、超えがたい距離がありましたが、第2の型では、作者(人間)は、“自然”と、いわば対等に交感しあっています。



「わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です

 (あらゆる透明な幽霊の複合体)

 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら

 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です

 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)


 これらは二十二箇月の
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね

 (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの


 ここまでたもちつゞけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケツチです

     
〔…〕

すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから
)」

『春と修羅』「序詩」より。

 2行空けの段落は原文。1行空けの段落は引用者。



「そして、ほんとうに、こんなオホーツク海のなぎさに座って乾いて飛んで来る砂やはまなすのいい匂を送って来る風のきれぎれのものがたりを聴きいているとほんとうに不思議な気持がするのでした。それも風が私にはなしたのか私が風にはなしたのかあとはもうさっぱりわかりません。」

『サガレンと八月』より。

 原文は旧仮名遣い。



 『春と修羅』「序詩」にいう「風景やみんな」の「みんな」とは、あらゆる生物を含むと考えるべきでしょう。あるいは、賢治の文学的・宗教的観念からいえば、「雲」や「星」や岩石のような、“意志ある無生物”をも含んでいるかもしれません。そうした「みんな」と「わたくし」は、「せはしくせはしく明滅し」あって、同じ感覚を「みんなが同時に感」じていると言うのです。『春と修羅』に収録された詩作品:「これら」は、そうやって感得されたものにほかなりません。

 これは、


「そのとき
〔「うた」が心に浮かんだ時―――ギトン注〕わたしは雲であり風であった。そしておまへも雲であり風であった。」


 という『龍と詩人』の「チャーナタ」のことばに通じます。

 『サガレンと八月』では、


「風が私にはなしたのか私が風にはなしたのか」


 わからないと言います。そうやって、「風」から受け取るでもなく受け取って来たのが、これから書く「タネリ」の物語だというのです。

 『サガレンと八月』も、1923年8月の“サハリン旅行”以後に書かれたものですから、『春と修羅』「序」および『龍と詩人』と同時期の成立と思われます。













 しかし、『春と修羅』の「序」とほぼ同時期に書かれた『注文の多い料理店』「序」になると、やや表現が変ってきます。



「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです

 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。」

『注文の多い料理店』「序」より。



 ここで賢治は、自分のかたる物語は、身近な“自然”の中で、“自然”や風景から「もらってきた」。自然や鉄道線路の風景になかにいると、「どうしてもこんな気がしてしかたない」のだと言います。物語る“自然”と作者の関係は、第2の型のように相互的ではなく、“自然”が語り、作者が「もらう」、聴き取るという一方交通の関係です。その点では、第1の型に戻っているようにも見えますが、しかし、第1の型と違うのは、相手が、超えがたい距離の彼方にある「ちぢれ雲」ではなく、身近な自然や線路だという点、および、受け取るものが、はっきりと“ことば”として送られてくる点です。第1の型が、たぶんに理念的であったのに対して、この第3の型は、より体験的であり、作品を創るという意味で実践的なのです。

 第3の型は、この童話集『注文の多い料理店』の収録作品にも見られます。収録童話『鹿踊りのはじまり』は、つぎのようにして語られます:



「そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあひだから、夕陽は赤くなゝめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のやうにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡
(ねむ)りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行はれてゐた鹿踊(しゝおど)りの、ほんたうの精神を語りました。」
『鹿踊りのはじまり』より。



 語り手「わたくし」は、「苔の野原」の「すすき」の間で睡っていた時に、風が「人のことばにきこえ」、この『鹿踊りのはじまり』の物語を聴かされたと云うのです。

 そうして語り始められた物語の中では、山の中で鹿の群れに遭遇した主人公の耳に、鹿どうしで話す会話の「ことば」が聞こえてきます:



「嘉十はにはかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるえました。鹿どもの風にゆれる草穂
(くさぼ)のやうな気もちが、波になつて伝はつて来たのでした。

 嘉十はほんたうにじぶんの耳を疑ひました。それは鹿のことばがきこえてきたからです。」

『鹿踊りのはじまり』より。



 こうして、「嘉十」は、鹿たちの会話を聞き取るだけでなく、彼らが歌い踊る「鹿踊り」の唄の言葉も理解することとなります。

 ところが、「嘉十」が感激のあまり、隠れていた草むらから躍り出て、鹿の仲間に加わろうとすると、鹿たちは驚いて逃げてしまいます。「嘉十」と鹿との“交感”はあくまでも、 鹿➡人間 という一方通行で、「嘉十」の鹿への呼びかけは、鹿たちには、人間が脅かす叫び声にしか聞こえないのです。



「嘉十はもうまつたくじぶんと鹿とのちがひを忘れて、

 『ホウ、やれ、やれい。』と叫びながらすすきのかげから飛び出しました。

 鹿はおどろいて一度に竿のやうに立ちあがり、それからはやてに吹かれた木の葉のやうに、からだを斜めにして逃げ出しました。銀のすすきの波をわけ、かゞやく夕陽の流れをみだしてはるかにはるかに遁げて行き、そのとほつたあとのすすきは静かな湖の水脈
(みを)のやうにいつまでもぎらぎら光つて居りました。

      
〔…〕

 それから、さうさう、苔の野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとほつた秋の風から聞いたのです。」

『鹿踊りのはじまり』より。




 しかし、そろそろ1回分の連載の分量に達してきましたし、第3の型に属する作品は多いので、たくさん引用しなければなりません。3つの型の比較についても、言いたいことがまだまだあります。

 なので、今夜はこの辺で切って、続きは次回にまわしたいと思います。






 








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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