ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.6.25


さて、「青柳教諭」に関係する作品を年代順にたどって行くと、

最初に現れるのは、中学2年時の“岩手山行”の際に詠んだと思われる短歌です:

そこで、中学時代の短歌を見ますと、次の5首は、この1910年9月の岩手山行を詠んだものと考えられます:

75 風さむき岩手のやまにわれらいま校歌をうたふ先生もうたふ

76 いたゞきの焼石を這ふ雲ありてわれらいま立つ西火口原

77 石投げなば雨ふると云ふうみの面[も]はあまりに青くかなしかりけり

78 泡つぶやく声こそかなしいざ逃げんみづうみの碧の見るにたえねば

79 うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり
(『歌稿A』)

#75 は、おそらく明け方でしょう。岩手山頂、あるいは火口壁(内輪山、《御鉢》)の上に立った状況と思われます。

9月の彼岸には、もう山の上は非常に寒くて風が強いので、みんなで校歌を歌って元気を出そうとしています。

#76 の「西火口原」は、西岩手火山のカルデラ、「いたゞきの焼石」は、頂上(東岩手火山)の《御鉢》(薬師火口)を見上げているのでしょう:画像ファイル・岩手山

当時、御室火口は噴煙を上げていたのかもしれません。

#77 の「うみ」は、西岩手火山のカルデラ内にある火口湖《御釜》です:画像ファイル:御釜湖・御苗代湖

神秘的な青藍色の水を湛える《御釜》に、石を投げ込むと、雨が降るという言い伝えがあるそうです。

#78: 同行の生徒の誰か(おそらく上級生)が、言い伝えをばかにして、水面に石を投げたようです。すると、湖は、怒るようにぶくぶくと泡を吹き出したと言うのです。「碧(あお)」は、引き込まれるような恐ろしげな濃藍色(エメラルド・グリーンではありません)

#79: 湖に背を向けて逃げようとする作者たちの後ろで(振り返って見る勇気はありません)、水面から「青きもの」が現れて、こちらを睨んでいるような気がします。

宮澤賢治が岩手山頂に登ったのは、この時が2回目と思われますが、《御釜湖》を訪ねたのは初めてだったかもしれません。

山頂では、激しく吹きすさぶ寒風に身を晒し、《御釜湖》では、言い伝えを裏付ける怖い体験をしたのです。

じっさいに、網張温泉小屋に泊った翌日は、冷たい雨のそぼ降る中を下山したようですから(前nの文語詩〔青柳教諭を送る〕の「九月の雨」)、言い伝えの通りになったと14歳の賢治は思ったことでしょう。

ところで、『歌稿B』には、関係があると思われる・次のような歌も収録されています:

6a7 ひとびとに
  おくれてひとり
  たけたかき
  橘川先生野を過ぎりけり

6b7 追ひつきおじぎをすれば
  ふりむける
  先生の眼はヨハネのごとし

この2つは、歌稿に後から書き込まれているもので、1921年以後の作歌と思われます。

『歌稿B』の最初には「明治四十四年一月より」という章題があって、この↑2作も、その最初の章に記入されています。
つまり、1911年の場所に入れられていますから、「橘川先生」は、「青柳教諭」とは別人──ということも考えられますが、ごらんの通り、文語詩〔青柳教諭を送る〕に関わりの深い内容です。

後からの作歌の書き込みですから、賢治が年代を間違えていたこともありえますし、‥あるいは、「青柳教諭」と「橘川先生」という2人の人物に関する思い出を合体して、文語詩を創作したかもしれません。

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