ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.2.10


そんな自然の変容の中で、小岩井農場は、春になって雪の被いが取れれば、チェックもようのように、枯れた牧草地や、起き上がった小麦の苗でいっぱいの圃場、また、うっすらと生え出た燕麦の薄い絨毯などが、「いかにも確かに継起」するのです。

ここでは、異常気象や自然の予期しない変動に振り回されるのではなく、予め計画されたとおりに、牧場や耕地が変化し、交替していきます。

賢治が最大級の讃辞を惜しまないのは、不毛の火山灰地を見違えるように変貌させた小岩井農場の「奇蹟」に対してなのです★

★(注) 『賢治歩行詩考』,p.20.

しかし、
いま作者は、小岩井駅から歩き始めたばかりです。小岩井農場にはもちろん、まだ網張街道への合流点にも達していません。
それなのに、ここで早くも“農場讃歌”が出てきたのは、なぜでしょうか?

ギトンは、畑を馬で犁耕している人たちを見たからだと思うのです:

. 春と修羅・初版本

68そしてこここそ畑になつてゐる
69黒馬が二ひき汗でぬれ
70犁(プラウ)をひいて住つたりきたりする
   〔…〕
86はたけの馬は二ひき
87ひとはふたりで赤い
88雲に瀘された日光のために
89いよいよあかく灼やけてゐる

働いている農民の姿、しかも単にがむしゃらに労力を注ぎ込んでいるのではなく、小岩井農場の影響を受けたのか、プラウ耕◇によって広い畑地を効率的に処理しているのです。

◇(注) 「プラウ」というルビが振ってあることから、日本在来型の犁(すき)や、改良型の抱き持立て犁ではなく、西洋式の犁(プラウ)を用いているのではないでしょうか。

賢治は、汗に濡れた馬と、日に焼けた農夫たちを、まぶしく眺めながら、

これから訪問する小岩井農場も、決して自然にできあがったものではなく、人間のたえまない作業と工夫によって「奇蹟」を創り出してきたことを、思ったのではないでしょうか?‥




小岩井農場にある宮澤賢治詩碑

. 春と修羅・初版本

101ほんたうにこのみちをこの前行くときは
102空氣がひどく稠密で
103つめたくそしてあかる過ぎた

1月6日の農場訪問行を回想しています。
1月訪問時には、ここ、網張街道へ向かう路も、一面の雪に覆われていて、真後ろには、《七ツ森》の三手森(みてのもり)が、ぼおっと大きく光り、ときどき吹雪も立つかと思えば、虹のように陽が差し、幻想的な風景が展開していました。

「空氣がひどく稠密で」は、気温が低く湿った密度の高い空気の塊が、地表を覆っていた・という科学知識を援用していますが、また、作者の幻想的な《心象》の感覚でもあるのだと思います。

今は、まったく別種の感動を、作者は、行く手に対して、いだいています。

しかし、背後の《七ツ森》は、きょうはどうでしょうか?:⇒写真 (f)

. 春と修羅・初版本

104今日は七つ森はいちめんの枯草
105松木がおかしな緑褐に
106丘のうしろとふもとに生えて
107大へん陰欝にふるびて見える

雪がないので、冬の時のように幻想的に見えることはありません。そして、まだ一面の枯草に覆われています。
丘──三手森でしょうか‥──の稜線の背後と麓に、アカマツがちょろちょろ生えているのが見えます。

《七ツ森》は、藩政時代から、雫石村の入会地として利用されてきたので、山は禿げて疎林化しているのです◆

◆(注) しかし、賢治の時代以後、とくに第2次大戦後は、山の樹木を薪炭源として利用しなくなったために、↑写真でご覧のように、現在の《七ツ森》は、鬱蒼としたアカマツ林に被われています。《七ツ森》に限らず、国指定の「イーハトーブの風景地」を、賢治文学の“生誕の地”として訪れる場合には、こうした植生の変化には注意する必要があります。

107大へん陰欝にふるびて見える

賢治は、きょうはこの《七ツ森》に、
小岩井農場とは対照的に、旧来の因習に縛られて浮上することのできない・古い寒村の姿を見ているのだと思います。

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