ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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【25】 小岩井農場・パート2




3.3.1


. 春と修羅・初版本

01たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるし
02雨はけふはだいじやうぶふらない

「パート2」に入ります。

この「たむぼりん」(タンバリン)は、遠雷の音らしいのです。
遠雷は、にわか雨がある前兆、と思うのがふつうだと思うのですが、なぜか、「‥し」という順接で結ばれています。

「たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるが 雨はけふはだいじやうぶふらない」

ならば、よく解るのですが、‥

「鳴ってるし‥」だと、“遠雷が聞こえるから、雨は降らないだろう”と言っているようで、おかしな感じがします。

しかし、「近くの空ではないから、降らないだろう。」という意味なのでしょうか。

“遠くの空で鳴っている”というのは、岩手山ではない、という意味かもしれません。盛岡は広い盆地ですから、北上山地や、七時雨山の遠雷が、小岩井で聞こえるのかもしれません‥

あとのほうで、

10(山は青い雲でいつぱい 光つてゐるし

とも言っていますから、ともかく今すぐに降ってくる空模様ではないのです。



しかし、言表の通常の機能☆から、いちど離れてみると、

「たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるが
 雨はけふはだいじやうぶふらない」

では、詩にならないような気がします。

「たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるし
 雨はけふはだいじやうぶふらない」

であってこそ、宮沢賢治の“詩”と言えるのかもしれない‥という気がするのです。

☆(注) 「言表の通常の機能」とは、中原中也が「生活とは諸名辞間の交渉である」(「芸術論覚え書」第12項)と言う時の「生活」のための言語、彼の言う「『かせがねばならぬ』といふ意識」(同,第1項)による社会的コミュニケーションのための言語、説明するための言葉(「河上に呈する詩論」)。岡崎和夫『名づけえぬものへ 中原中也』,2005,新典社,pp.194-197,201.参照。

“遠くのそらで鳴っている たむぼりん”は、汽車からおりた時に「ぎらつとひかつた」雲や、「ずうつと遠くのくらいところで‥ごろごろ啼いてゐる‥透明な群青のうぐひす」と同じように、このスケッチされつつある「せわしい心象の明滅」「すみやかなすみやかな萬法流轉」の世界に顔を出した登場人物です。
この詩全体が管弦楽曲だとすれば、その中で、オーケストラのひとつのパート──Strings なり、木管なり、金管なり──が際立って奏でるフレーズにあたるものです。

だとすれば、“遠くのそらで鳴っている たむぼりん”に、むしろ作者は元気づけられて、「雨は‥だいじゃうぶふらない」という明るい見通しを得ているのではないでしょうか。

論理的にはおかしいのですが、むしろそう考えたほうがいいような気がします。
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