04/08の日記

14:44
【BL週記】ジャン・コクトー『白書』―――神と愛の狭間で(3)

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南仏トゥーロン、市街と港      







 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【BL週記】ジャン・コクトー『白書』―――神と愛の狭間で(2)からのつづきです。

 これまでの2回は、『書物の王国』所収の江口清・訳によっていましたが、これはあまりにも誤訳がひどい。とくに今回の【7】の部分では、江口訳では、コクトーの“相手の男”を取りちがえてしまうことになるので、使えません。

 今後は、おもに次のテクストを使用します:⇒ ジャン・コクトー,山上昌子・訳『白書』,1994,求龍堂.






 【7】《パ・ド・シャンス(ついてない男)》



 パリでのアルフレッドとローズのひと悶着から抜け出すやいなや、「ぼく」は再び南仏トゥーロンに赴くことになります。従妹の結婚で手が足りなくなった親戚の家では、「ぼく」の助けを必要としていたからです。

 しかし、当時のトゥーロンは、コクトーには、「愛する太陽の下で、音もなく落下するあのソドムの町」(江口訳)として後々思い出される経験を与える場所でした。南国の開放的なふんいきのなかで、海軍の水兵たちが屈強な体つきを見せびらかして徘徊し、それを目当ての男好きの男たちが、「世界の隅々から」集まっていたのです。



「ある晩、いやが上にもあまい空気で包まれていたとき、ナポリやヴェネチアと同じように、お祭り気分の群衆が、はなやかな商店や、ワッフル菓子売りの店や、露天商の並んでいる、噴水で飾られた広場を、歩きまわっていた。

 世界の隅々から男性美にあこがれて集まった男たちが、水兵を惚れぼれと眺めていた。水兵たちは、一人で、あるいは一団となって気ままにぶらつき、流し目には微笑をもって応え、愛の申し出をけっして拒まない。夜の潮風が、どれほど乱暴な徒刑囚でも、どれほど粗野なブルトン人でも、どれほど野生的なコルシカ人でも、花飾りをつけ肩や背をあらわに見せて腰をふりふり歩く立派な女に変身させる。彼女たち
〔「立派な女」に変身した水兵たち〕はダンスが好きで、相手の男を何の気兼ねもなしに、港のいかがわしいホテルへ連れこむ。」
江口清・訳「白書」, in:『書物の王国』第10巻『同性愛』,p.44; 山上昌子・訳『白書』,1994,求龍堂,pp.49-51.













 男と男の“逢引き”の場所となっていた、そうしたダンスのできるカフェのなかに1軒、以前は演芸喫茶(カフェ・コンセール)の歌手をしていたオネエ風の男が経営する店がありました。



「彼は声がまるで女で、以前は女装で出演していたのだ。今ではこれ見よがしにセーターを着て、指輪をいくつもしている。赤い玉総
(ふさ)のついた水兵帽の大男たちは彼を神さまのように崇拝しているが、彼の方はつれないあしらいだ。〔…〕

 この一風変わった人物の店を訪れたある晩、ドアを押し開けたところで私は釘付けになった。目に入ったのは、こちらに横顔を見せて自動ピアノにもたれているダルジュロス★の亡霊だった。水兵姿のダルジュロス。

 ダルジュロスに生き写しのこの水兵には、とりわけ、本物のダルジュロスの尊大さ、横柄で放心した物腰があった。」

ジャン・コクトー,山上昌子・訳『白書』,1994,求龍堂,pp.51-53.

★「ダルジュロス」:(1)【4】参照。



 その水兵は、「タパジューズ[tapageuse]号」と金文字の入った水兵帽を目深にかぶり、「首には黒いスカーフをきつく締め」、海軍では着用禁止になっている裾上げズボンを穿いていました。

 「タパジューズ[tapageuse]」は、「騒がしい女」という意味ですが、ここでは、この水兵が乗っている船の名前、あるいは、配属先に擬した冗談でしょう。この人物にはモデルがあって、コクトーは、この小説を書く半年前(1927年夏)にトゥーロンで出会っています。マルセル・セルヴェという水兵で、「タパジューズ[tapageuse]号」の水兵帽をかぶっていたといいます(山上訳,「訳者後書き」)。(フランス語では、船の名前は女性)

 「黒いスカーフ」を首に巻く格好は、当時日本でも、騎兵のあいだで流行っていました(例えば、宮沢賢治『税務署長の冒険』『谷』)。世界的に、兵士に流行のスタイルだったと思われます。

 裾上げズボンは、裾が開いて、たくし上げるのに便利にできた水兵用ズボンですが、極端にまくって腿まで露出してセックス・アピールをするのが男色者や「ひも」のあいだで流行ったので、この時点では禁止されていました。(SPEEDのSサイズとか、Tバックと同じことでしょう。ゲイは昔も今も変りませんねw)

 コクトーは、ほかの場所だったら、この「ダルジュロスに生き写し」の男の前に出て行く勇気は無かったでしょう。



「しかし、トゥーロンはさすがにトゥーロンだ。ダンスのおかげで前置きの気まずさは避けられ、見知らぬ者同士が互いの腕の中に身を投じる。ダンスは愛の下準備なのだ。」

山上昌子・訳『白書』,p.53.



 装飾音の多い柔媚な音楽に合わせて、二人はワルツを踊ります。



「反り身になった体は性器が密着し、厳かな横顔は目を伏せて、足より遅れて回転する。足の方は馬の蹄
(ひづめ)さながら、小刻みに激しく動くかと思えば時折立ち往生する。〔…〕春の眩暈(めまい)が肉体を興奮させる。そこには枝が生える。硬いものが押し合い、汗が混ざり合う。こうして一組のカップルが、丸いガラスの覆いに入った置き時計と羽根布団のある、ホテルの部屋へと向かうのだ。」
a.a.O.






 






 ホテルの部屋に入って二人だけになると、
「タパジューズは小心な動物になった。彼は、ある乱闘の際に水差しで殴られて、鼻が潰れていた。鼻筋が通っていたら味のない顔だったかもしれない。水差しがこの傑作に最後の仕上げをしたのだ。

 上半身裸になると、私には幸福の体現と思われたこの青年は、『パ・ド・シャンス(ついてない)』という文字を大文字で青く刺青
(いれずみ)していた。彼は私に身の上を語った。短い話だった。この嘆かわしい刺青がすべてを要約していた。彼は海軍の獄から出てきたところだった。エルネスト・ルナン号の暴動の後、ある同僚と間違われたのだ。それで彼は頭を丸刈りにされているのであった。」
山上昌子・訳『白書』,p.55.



 彼には坊主頭は「素晴らしくよく似合ってい」ると「私」(訳が変ったので、「ぼく」は「私」になります。)には思えるのだが、本人は、それも「不運」の結果として嘆いていた。



「『俺はついてないんだ
〔…〕これからもついてないに決まってる』

 私は彼の首にお守りの鎖をかけてやった。『これは君にやるんじゃないんだよ』と私は言った。そんなことしたら、どっちのお守りにもならないからね。でも今夜はつけてろよ』

 それから、私は万年筆で不吉な刺青に線を引いて消した。その下に星とハートを一つずつ描いた。彼は微笑した。自分が安全だということを、そして、いつもはエゴが満足するだけの手っ取り早い出会いに慣れているが、私たちの出会いはそれとは違うということを、彼は他のどこにも増して肌で理解したのだ」

山上昌子・訳『白書』,pp.55-57.



 このように、コクトーのほうは、この“初恋の相手”ダルジュロスに瓜二つの男に、すっかり惚れてしまったのですが、相手のほうはどうだったのか? 単なる一夜限りの・肉慾を満たすためだけの身体のつきあいではないということを、相手の男も「肌で理解した」とコクトーは思いこむのですが、その確信はまもなく失望に変ります。

 「パ・ド・シャンス(ついてない)」という刺青も、身の上話も、客の気を惹くための演出であったかもしれないのです。いや…それはコクトー自身にもわからない以上、読者としては判断不能です。ほんとうに自分の不運を嘆いている素朴な青年であったかもしれない。‥‥ともかく、読み進めましょう。



「ついてないって! そんなことがあり得ようか。この口、この歯、この目、この腹、この肩、この鉄の筋肉、この脚で! この神話の世界の海の草を持ちながら、ついてない、だって。枯れて、しわくちゃになり、苔の上に打ち上げられたそのちっぽけな草
〔この男の陰茎〕は、愛の元素を取り戻すや、しわが伸び、成長し、身をもたげ、遠くへ液を飛ばす。私は落ち着きを取り戻すことができなかった。

 そこで、この問題を解決するために、眠りに落ちたふりをした。」

山上昌子・訳『白書』,p.57;江口清・訳,『書物の王国』第10巻,p.45.



 ここで、コクトーがどうして狸寝入りを始めたのか、……「パ・ド・シャンス」の旺盛な性慾とプレイに付いていけなくなったのか?…それとも、疑わしい男の態度を観察しようとしてか?……よくわかりません。いずれにせよ、二人のあいだでは、コクトーが期待するほどには気持ちが通じ合っていないことは否定できないでしょう。

 (正直言って、この場面は私〔ギトン〕の想像を越えています。セックスの最中に寝たふりするなんて考えられないし、居眠りをするなら、射精した男のほうでしょう。相手の行動を探り合う自体が、男同士でやってしまおうと合意した状況と相容れません。

 「パ・ド・シャンス」のほうから見れば、相手の“愛の誓い”に感激して景気よく発射したら、なぜか相手はすやすや寝てしまった、という状況に、どう対処してよいかわからず、戸惑ったのではないでしょうか? コクトーは、そうは述べていませんが、↓この後の「パ・ド・シャンス」の行動は、そのように理解することもできそうです。どうも私には、コクトーは「アルフレッド」との軋轢のショックからまだ脱け出せないのか、疑ぐり深くなりすぎている気がするのです。)






 






「パ・ド・シャンスは私の隣でじっとしていた。やがて徐々に、私の肘の下になっている自分の腕を引き抜こうと、彼が微妙な策動にかかるのが感じられた。彼が悪いことを企んでいるとは、一瞬も気づかなかった。
〔…〕

 私は瞼
〔まぶた〕を薄く開けて彼を観察していた。まず、何度も繰り返し彼は鎖を吟味し、それに接吻し、刺青に擦りつけた。そしてそれから、賭博者がイカサマをする時によくする緩慢な手口で、私の眠りを試してみた。あくびをしたり、私にさわってみたり、息するのを聞いてみたりしてみて、ひらいた私の右手の上に自分の顔を、私のそば近くに寄せて、その頬を私の頬にそっと押し当てた。」
山上昌子・訳『白書』,pp.57-59;江口清・訳,『書物の王国』第10巻,p.46.



 「パ・ド・シャンス」の行動は、コクトーには、「大海原で自分のほうに近寄ってくる一つのブイを思わせる……不運な若者の試み」に見えました。コクトーは、ほんとうに寝入ってしまって意識を失わないように「大きな努力」をしつつ、また逆に「とつぜん目覚めたふりをして、自分を台無しにしないように」(江口訳,p.46)しながら、この「観察」をつづけたのです。

 もし完全に眠りこんでしまったら、この男は、「鎖」と、その他金目の物を盗んで、ずらかってしまうにちがいない、コクトーは、そう疑っているようにも思われます。

 しかし、もし「パ・ド・シャンス」の動きの鈍さがコクトーに疑念を抱かせたのだとしたら、それは、この男が「ウケ」だからではないでしょうか? はじめての相手――しかも身分の高そうな――とのセックスの最中に相手の男が動かなくなってしまったら、「ウケ」の男は、彼のようにするしかないのでは?



「夜がしらむころ、ぼくは立ち去った。ぼくの眼は、彼が感じ、しかもそれを口にだしていうことのできないその願望を、そのまま示している彼の眼を避けていた。彼は、ぼくに鎖を返した。ぼくは彼を抱擁し、彼に寄り添い、灯りを消した。」

江口清・訳「白書」, in:『書物の王国』第10巻『同性愛』,p.46.



 コクトーが自分のホテルに帰るために階下まで降りてきた時、部屋に手袋を忘れてきたことに気づきます。上に戻って部屋の前まで行くと、ドアの上の小窓が明るくなっています。自分がせっかく明かりを消してやったのに、彼はまた点けたのです。(コクトーは、なんと疑り深いのでしょう!)

 そこで、コクトーは、鍵穴から、中のようすを覗きます。



「私は鍵穴に目を当てずにはいられなかった。そのいびつな枠の中に小さな坊主頭が見えた。

 パ・ド・シャンスは私の手袋に顔を埋め、さめざめと泣いていた。

 10分もの間、私はこのドアの前でためらった。ついに開けようとしたその時、アルフレッドの顔が寸分違わずパ・ド・シャンスの顔に重なった。私は忍び足で階段を降りて門番に出口を開けてもらい、音を立ててドアを閉めた。」

山上昌子・訳『白書』,p.59.



 「パ・ド・シャンス」が泣いているのを見て胸がいっぱいになり、部屋に入って行って、「きみを疑ってすまなかった。」と言いながら彼を抱き締めたら、コクトーにとっては、新たな“愛”が始まったかもしれません。しかし、そうはならなかった。「アルフレッド」の記憶が、衝動のままに踏み出すことを阻んだのです。













「外では、ひとけのない広場で噴水が厳かに独白していた。『だめだ』と私は考えた。『私たちは同じ世界の者ではない。一輪の花、一本の樹、一頭の獣の心を動かすというだけでも話がうますぎる。一緒に暮らすなんて不可能だ』

 日が昇ろうとしていた。海に向かって雄鶏が時を作っていた。
〔…〕私は途方もない錘(おもり)を曳いて〔自分の〕ホテルに帰った。」
山上昌子・訳『白書』,pp.59-61.



 「アルフレッド」や「パ・ド・シャンス」のような男たちは、ごく安直に気持ちが通じ合ったようにふるまって、コクトーのようなパトロンの経済力をあてにしようとします。しかし、それは「話がうますぎる」。そんなにうまく行くわけがないのだ。コクトーは、そう考えて、“ダルジュロス”を自分のものにすることを断念するのです。

 ‥‥鍵穴から見えた「パ・ド・シャンス」の態度は、真情そのものだったと思うのですが。。。。






 【8】“サテュリコンの浴場”にて



「恋愛に嫌気がさし、奮起して何かするということもできず、私は脚も魂も、重く地に引きずっていた。内密な雰囲気の気晴らしを探し、その雰囲気をある公衆浴場に見出した。そこは『サテュリコン』★を思わせる場所だった。

 小さく仕切られた個室、中央に中庭、天井の低い部屋にはトルコ風の長椅子が備えられ、青年たちがそこでトランプをしている。主人の合図で彼らは立ち上がり、壁を背に整列する。主人は確かめるように彼らの腕の筋肉に触れ、ももを探り、彼らの秘所の魅惑を開帳し、売る。売り子が商品を扱うように。」

山上昌子・訳『白書』,p.61.

★「サテュリコン」:ネロ帝の廷臣ペトロニウスが書いた世界最古の小説。⇒:『サテュリコン』解説 ⇒:『サテュリコン』ダイジェスト版



 サウナの設備を備えた「売り専(せん)」――といったところでしょうか。客は、整列した男たちのなかから自分の好みの相手を“買い”、「個室」に連れて行って、(おそらく、定められた時間)そこで過ごします。多くの客はセックスをし、またSMプレイなどをする客もいます。客は、基本的に男性です。



「明確な要求をされることに慣れているこの青年たちにとって、私は謎だったに違いない。彼らは理解できずに私を見つめたものだ。というのも、私が行為よりもおしゃべりを好むからだ。

 私の内では心と官能とがあまりにも混交しているので、片方だけ用いてもう一方は置いておく、ということは困難に思える。そのせいで私は友情の域を出てしまうのである。また、行きずりの関係を恐れているのもそのせいで、私はそんな関係で恋患いに陥る危険があるのだ。

 美というものに漠然と苦しむこともなく、自分が何を求めているのかよくわかっていて、悪徳に磨きをかけ、金を払ってそれを満足させることのできる人が、私はしまいには羨ましくなった。」

山上昌子・訳『白書』,pp.61-63.






 






 コクトーによると、このトゥーロンの「売り専」にやって来る客(男たち)はみな、自分のしたいことがはっきりしていて――そりや安くない料金を払うんですから、そうでしょう――、セックスでなくても、「言葉攻め」をしてほしいとか、鎖で縛ってほしいとか――西洋では、縄ではなく鎖なんですね――、巨漢がネズミを焼き殺すのを見ながら射精したいとか――フランス人にはそういうフェチの人がいるんですね――、「自分の快楽の処方を正確に知ってい」ました。



「彼らの人生に込み入ったことは何もない。なぜなら、彼らが自分のために金で片づける面倒事は、決まった日に決まった値段で手に入れる、つまりは実にまっとうな、実にブルジョワ的なものだからだ。彼らの大多数は北フランスからやって来る裕福な工場経営者で、官能を解放してスッキリしたら、そのあと妻子と落ち合うのであった」

a.a.O.[一部改訳]



 ところが、コクトーはといえば、自分が目当ての男と何をしたいのか、いまだによくわからない。決まった時間に決まった行為をして性欲を処理してすっきりする、というような単純なことではなく、もっと形のない漠然とした要求を「オトコ」に対して向けているからです。それを「愛情」と呼ぶことも「性欲」と呼ぶこともできるでしょうけれども、どちらも彼が求めているものとは、遠からずして行き違っているのです。

 「浴場」の主人と青年たちから不審がられはじめたので、「私」は間を置いて行くようになりました。



「浴場の主人は
〔…〕ここでは人は客か商品か、どちらかなのだと仄めかした。両方というわけにはいかないのだ。」
山上昌子・訳『白書』,p.65.



 「浴場」の“ホスト”たちが客の愛顧を求めて媚びを売るように、“ホスト”に愛情を求めようとするコクトーの態度が、主人の不審を招いたのです。

 しかし、コクトーが、それでも「浴場」通いをやめられなかったのは、この施設が「売り専」とは別の、もうひとつの“無害な”プレイを提供していたからです。それは、浴室に仕掛けられたマジック・ミラーでした。

 「浴場」の主人は、(おそらくは、常連の客にだけ、内密に)特別料金を取って、このしくみを利用させていました。



「暗いボックスに落ちついて内扉を開ける。すると金網が現れ、そこから小さな浴室が見渡せる。向う側
〔浴室側〕から見ると、この金網は非常に映りのよい、滑らかな表面の鏡なので、そこに人の視線が満ちているとは気づきようもない。

 金を払って、私は日曜日をそこで過ごすことがあった。12の浴室の 12の鏡のうち、この仕掛になっているのは一つだけだった。主人が大金を投じてドイツから取り寄せたのである。従業員たちはこの観測所の存在を知らなかった。若い労働者たちが見世物がわりだった。

 皆が同じプログラムに従っていた。彼らは裸になり、
〔…〕浴槽の中に立って、彼らは自分の姿を(つまりは私を)見る。〔…〕片方の肩をこすり、石鹼を取って泡立てる。石鹸で洗っているうちにそれが愛撫に変わる。不意に彼らの目はこの世を離れ、頭はのけぞり、肉体は猛り立った獣のように唾を吐く〔射精する〕

 疲れ切って湯気の立つ浴槽に身を沈める者もあれば、同じ操作をまた始める者もある。浴槽をまたいで出て、向こうの方で、自分の盲目の茎が愛に向かって粗忽に放った液をタイルから拭き取ったりする者は、中でもとりわけ年若いのだとわかる。」

山上昌子・訳『白書』,pp.65-67.













 見世物にされている「若い労働者たち」は、鏡がマジック・ミラーになっていることを知らずに、浴室を利用していました。彼らは、「売り」に出ている“ホスト”ではなく、この「公衆浴場」を(「売り専」でなく)本来の目的で利用している一般客であったようです。主人は、体つきの良い男や、年若い男が来ると、12箇ある個室浴場のなかでマジック・ミラーになっている1室へ、案内していたのでしょう。

 この“覗き部屋”でコクトーがとりわけ興奮したのは、あるナルシストの男が浴室に来た時でした。その男は、



「鏡に口を寄せて押し当て、自分自身とのアヴァンチュールを最後まで
〔=射精するまで〕推し進めた。〔…〕ギリシャの神々のように姿の見えぬ私は、唇を彼の唇に重ね、彼の動作に倣った。彼が知ることは決してなかったが、この鏡は映していたのではなく、行動を起こしていたのである。鏡は生き物だった、そして彼を愛したのだ。」
山上昌子・訳『白書』,p.67.





【BL週記】ジャン・コクトー『白書』―――神と愛の狭間で(4) ―――につづく。   










ばいみ〜 ミ




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