仲忠は満座の中でほめたたえられながら、不意に独りぽつんと都の真中に取り残された気分になり、自分の歌った紅葉という言葉から、北山の紅葉を想像した。
仲忠は息苦しかった。歌の中の紅葉と北山の紅葉は違っていた。〔…〕誰一人あのような色とりどりの紅葉を実際に眼にした者はいないだろうと仲忠は思い、その時、その息苦しさに耐えられず、紅葉の中にある音、梢の中にある音にむかって琴を力いっぱいかき鳴らした。
〔…〕
仲忠は琴を奏でる。仲忠の体は空洞になり自分が北山で習い覚え一身に寄せ集めた物が空洞の中に徐々にたまり始めるのを感じる。それは物の中心にひそんだ音、物の霊の音だった。紅葉は詞としての紅葉ではなく、水を吸い日に赤く明るく輝いている幾つもの葉の赤。光が、琴に合わせて動き出し舞い出す。」
『宇津保物語』「北山のうつほ」, in:『中上健次全集』12卷,集英社,1996,pp.11-19.
吉野・北山の岩窟の中で、貴種流離の子として琴を習い覚えながら育てられた仲忠。海岸の洞窟に幽閉され、風と波の音を聞いて「うた」を唄うチャーナタ龍。両者は、たがいにごく近接するもののアレゴリーとなっているように思われます。「貴種」の誇り、「龍」としての矜持は、職業詩人ないし作家の自己意識とは異なります。何をなりわいとし、どんな暮らしをしていようと、“詩人”は“詩人”‥‥そうした意味での詩人の自覚ではないでしょうか。
チャーナタと仲忠の「洞窟」――「うつほ」は、「里の人々」から隔てられ、隔離されていることとともに、それがなにものでもない空洞だという点が重要です。仲忠は琴を弾きはじめると《空洞》となるがゆえに、そこに「物の霊」と音が集まってくる。龍は龍でありながらなにものでもないがゆえに、「うた」を唄いながら、
「雲であり風であ」
ることが可能になるのです。「洞窟」とは、この世界に充つる霊たちのあいだで、霊たちを受け容れて琴を弾き「うた」を唄う者のことです。
しかし、琴を奏でるのとは異なって、「うた」は《ことば》を伴います。「うた」が、一体としての歌舞音曲の一部であった仲忠の時代とは異なって、近代に近づくほど「うた」は《ことば》中心になります。「うた」の《ことば》がもっぱら音声言語で、文字はその不完全な記録にすぎなかった時代は、すでに遠く去っています。近代の「うた」は、まず文字言語として制作され、それが朗読や作曲という手段によってはじめて音声のものとなるのです。
《ことば》は、仲忠の琴のような楽器とは違います。心身の一部といってよいほど奏者に密着した楽器と比べれば、《ことば》のほうが、ある意味で“奏者”との距離が大きく、“奏者”から独立した客観的な――つまり「不透明」な――モノなのです。《ことば》の奏者は、琴をかき鳴らす代わりに、「雲と風のうた」を容れられるように、《ことば》というウツワを整えていかなければならないのです。人の社会での意思疎通の言語がそれに適しているとは言えないばかりでなく、和歌や芸術表現のために“洗練”された伝統的な言語もまた、自然の声を受けるウツワとして十分ではないのです。
風や雲となって共に「うたふ」こと―――それは、かならずしも天才的な閃きのみによってなされるわけではありません。少なくとも、それが《ことば》によってなされるのであれば、その《ことば》が、自然の「うた」を盛るウツワとして十分なものであるかどうかが、吟味されなければなりません。
「北山のうつほ」で、仲忠は、和歌の《ことば》の「息苦しさ」を感じていました。
↑引用の場面で、仲忠は、自分の詠み出した和歌に合わせて琴を弾き、その和歌と琴を聴いて感きわまった「左大将」は、立ち上がって舞いはじめます。宴席をみたす人びとの喝采が、彼らに向けられます。しかし、それでもなお、仲忠は「息苦しさ」を感じているのです。
仲忠の「息苦しさ」は、自分を含めた一座の人びとが、「空洞」ではなく、なにものかであろうとしている――「左大将」であろうとし、「右大将」の嫡男仲忠であろうとしている――ことによります。それは、《ことば》が、和歌の約束事に閉じこめられたままなにものかであろうとしつづけていることでもあります。
“自然”の「うた」を自分の「うた」とする、―――というチャーナタ龍の芸術観、いわば“自然詩人”の理想を実現するために、作者宮沢賢治が努めていたのは、自らの言語を、“自然”の「うた」を盛るウツワとして整えることでした。そのためには、《ことば》を、その生成の現場にさかのぼって、作り直す必要があったのだと思います。
「生成の現場にさかのぼる」とは、中原中也が、
「人性の中には、かの概念が、殆んど全く容喙出来ない世界があつて、宮澤賢治の一生は、その世界への間断なき恋慕であつたと云ふことが出来る。
〔…〕
一、『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が感じてゐられゝばよい。
一、名辞が早く脳裡に浮ぶといふことは、尠くも芸術家にとつては不幸だ。〔…〕」
中原中也「宮澤賢治の世界」(遺稿), in:『新編 中原中也全集』,第4巻・本文篇,pp.154-155.
と述べた「概念」以前の世界、「名辞」以前の世界へ遡ることです。中也は、宮沢賢治の詩について、また↓こうも述べています。(【関連記事】⇒:宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ 第3章(i))
「彼は想起される印象を、刻々新しい概念に、翻訳しつつあつたのです。彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考されるべきものでも、翫味されるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のまゝで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白出来さへすればよかつたのです。」
中原中也「宮澤賢治の詩」(1935年), in:『新編 中原中也全集』,第4巻,本文篇,p.64.
じっさいの賢治の詩作は、中也が想像しているような、思いつくままに書きつけてゆくような天才的なものではありませんでした。むしろそこには、ほかの詩人にはありえないほどの徹底した推敲の努力が見られるのです。
しかし、中也が、宮沢賢治は「想起される印象を、刻々新しい概念に、翻訳し」たと言っているのは、ある意味で当っています。賢治は、1918年12月ころに、アンデルセンの『絵のない絵本』(独語訳)を、日本語の連作短歌に翻訳することを試みています。
これは、口語的な詩(この“翻訳”の言葉遣いは文語ですが)の制作をめざした習作であったと思われます。使い古された口語、文語の言い回しに倣うのでなく、そこから一歩出るために、賢治は、「万人の共通」である“言葉以前の思念”にさかのぼり、そこから日本語への“翻訳”を試みたのだと思います。そうやって、あたらしい《ことば》を得て自らのものにしようとした。
「〔…〕アンデルゼンの物語を勉強しながら次の歌をうたひました。
『聞けよ。』又月は語りぬやさしくもアンデルゼンの月は語りぬ。
みなそこの黒き藻はみな月光にあやしき腕をさしのぶるなり。
ましろなるはねも融け行き白鳥は群をはなれて海に下りぬ
わだつみにねたみは起り青色きほのほの如く白鳥に寄す
あかつきの瑪瑙光ればしら\/とアンデルゼンの月は沈みぬ。
白鳥のつばさは張られかゞやける琥珀のそらにひたのぼり行く」
宮沢賢治書簡[95] 1918年12月16日付 保阪嘉内宛て より。
アンデルセンの独訳原書を「勉強しながら次の歌をうたひました。」と書いているように、もとのアンデルセン童話とは、かなり違う表現が見られます。「あやしき腕をさしのぶるなり」「わだつみにねたみは起り」など、原文には対応する表現がありません。
しかし、こうして“言葉以前の思念”にさかのぼろうとする努力の中で、《異界》の諸形象をとらえる《ことば》の開発が行われていったのだと考えられます。
「瑪瑙(めのう)」「琥珀」といった語も目につきますが、鉱物用語、化学用語などの、通常は短歌や詩に使われない語を多用する賢治の文体も、こうして整えられて行ったと思われます。
そして、最終的には《否定的‐統合的組成のレトリック》に至るわけですが、それには、すでに述べたように、詩人の“個”としての自覚が必要でした。ともかく、従来の詩人、歌人のものではなく、新しく独自に開発した文体でなければ、自然の「うた」を盛るには不十分であることが自覚されたのです。
* *
ふりかえって見れば、宮沢賢治の短歌は、中学生時代からすでに独自の異様な相貌をまとっていました:
水車の軸棒はひとばん泣きぬ凍りしそら微光みなぎりピチとひゞいり
凍りたる鋼の空の傷口にとられじとなくからすのむれか
不具(かたわ)となり月ほの青くのぼり来ればからす凍えからすらさめてなけり
『歌稿A』#53-55.
水車小屋の水車がギイギイと軋む神経質な音が、暗く氷結した明け方の空に響いて、亀裂が走る直覚。その天空の「傷口」を怖れて逃げまどうカラス、また、あおじろく欠けた「かたわ」の月が昇る。
※
龍王をまつる黄の旗紺の旗
行者火渡る日のはれぞらに。
※
楽手らのひるはさびしきひと瓶の
酒をわかちて 銀笛をふく。
※
たいまつの火に見るときは木のみどり
岩のさまさへたゞならずして。
※
そらいろのへびを見しこそかなしけれ
学校の春の遠足なりしが。
※
瞑すれば灰いろの家丘にたてり
さてもさびしき丘に木もなく。
『歌稿B』#11,13,14,15,17,19.
「火渡り」の行を披露する晴れやかな祭礼の風景を描いた歌の次の歌で、中学生賢治の眼は、そこに来ている旅の「楽手ら」の淋しそうな昼餉に注がれています。その場面を、「銀笛をふく」と書く感覚表現が、まことに特異です。
「たいまつの火」に火照る「木のみどり」や「岩」、「そらいろのへび」、立木のない「さびしき丘」の上の「家」など、賢治が注目する題材も特殊ですが、それ以上に表現が特異です。
しかし、こうした“異様さ”に対して、賢治は、はじめのうちは無自覚であったでしょう。高等農林で、小菅健吉、保阪嘉内らと出会うまで、自作の短歌を校内誌などに発表したことはいっさいありませんでした。発表すべき作品として短歌を作るという自覚は無かったのです。
高等農林時代には、そうした“異様さ”の能力、他の人に見えないものが見えてしまう特異性を自覚して、孤独を感じていました。
「大空の脚」と云ふものふと過ぎたりかなしからずや大ぞらのあし
夜のそらにふとあらはれてさびしきは、床屋のみせのだんだらの棒
『歌稿A』#391,541.
「私はふと空いっぱいの灰色はがねに大きな床屋のだんだら棒、あのオランダ伝来の葱の蕾(つぼみ)の形をした店飾りを見る。これも随分たよりないことだ。」
仲間と夜の盛岡市郊外を歩いていると、ふと見上げた夜空いっぱいに、床屋の赤・青・白の標識のような色模様が見えます。もちろん、ほかの仲間には、それは見えません。見えるということさえ、仲間には言えない。仲間といっしょにいながら、自分だけは、どこか、仲間から離れて遠くから眺めているような、ふしぎな孤独感が、この小文『秋田街道』の全体に瀰漫しています。
しかし、高等農林を卒業してからの賢治は、次第に、そうした特異性を自覚し、それを《ことば》の問題として、積極的に活用して、“見る者(ヴォワイヤン)”“書く者”としての道すじを拓いて行くことを始めました。そこに、当時の支配的な“内面指向”の観念を投影して、「心象」「ありのままのスケツチ」「心の深部において万人の共通」といった理論を組み立てることにより、彼は自己を、「洞窟」の孤独から開放して行ったのです。
青年賢治の文学は、自らを孤独から解放してゆく道すじでした。
『春と修羅』「序詩」にある
「ある程度まではみんなに共通いたします」
という控えめな言い方は、『注文の多い料理店・広告文』になると、
「必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。」
という、強い断定的・攻撃的な調子に変っていきます。“おれの書いたものが、おまえに解らないのは、おまえが卑怯なオトナだからだ、ほかに理由はない!”と言わんばかりです。
そして、1926年に講義した『農民芸術概論』では、「万人の共通」の延長上で、詩人、画家を含めた一切の職業芸術家と職業宗教家を、「真善若くは美を独占し販〔う〕るもの」と批判し、「一度亡びねばならぬ」と激しく否定するに至ります。
しかし、私たちが関心をもつのは、宮沢賢治が時折り見せた、そうした大げさな身振りでも、そこから醒めて、酔いの去ったスールダッタのように委縮した「雨ニモマケズ」のつぶやきでもないはずです。
賢治は、「あしたの世界」の「まことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる豫言者、/設計者」という目標を高く掲げただけでなく、その目標と実践のあいだを埋めていく努力を、死の直前に至るまで続けていたと思います。私たちの関心は、その遅々とした歩みのほうにこそ、向けられなければならないでしょう。
「〔…〕田園の風と光とはその余りに鈍重なる労働の辛苦によりて影を失ひ、農業は傍観して神聖に/自ら行ひて苦痛なる一の skimmed milk たるに過ぎず、
且つや北海道の風景、その配合の純 調和の単 容易に之を知り得べきに対し、郷土古き陸奥の景象の如何に複雑に理解に難きや、暗くして深き赤松の並木と林、樹神を祀れる多くの古杉、楊柳と赤楊との群落、大なる藁屋根 檜の垣根、その配合余りに暗くして錯綜せり。
而して之を救ふもの僅に各戸白樺の数幹、正形の独乙唐檜〔ドイツトウヒ〕、閃くやまならし 赤き鬼芥子〔おにげし〕の一群にて足れり。寔〔まこと〕に田園を平和にするもの樹に超ゆるなし。
岩見沢を過ぎて夕陽白樺と柏との彼方に没す。」
宮沢賢治『修学旅行復命書』より。
段落と「/」は、引用者。
【風と雲と波のうた】――終り。
ばいみ〜 ミ彡
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