08/13の日記

05:53
【宮沢賢治】“異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(2)

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宮沢賢治イーハトーブ館   









 こんばんは (º.-)☆ノ




“異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(1)

 からのつづきです。






 【2】 宮沢賢治における「生活の改善」――短歌から心象スケッチへ ――― 秋枝美保さん





 秋枝さんの研究発表は、イベントのテーマ“異世界”に絡めて言えば、啄木から賢治へと受け継がれた《異世界の心象》を発掘し、岩手地方文学史として論ずるものだったと思います。そのことは、岩手県文学史が、日本文学史の重要な一支脈を形成していた時代があったということであり、それは当時(明治末から大正時代)の日本文学史の主調であった自然主義、現実主義をはるかに超えて、現代詩につながって行くような先駆的な歩みであったと言えます。

 しかし、啄木はその《異世界》への開眼に触発された“新しい詩、短歌”の発見を、そのままの形で表明したのではなく、「食らふべき詩」という、やや横にシフトした自然主義的、現実主義的な言説によって、世間に問うたのでした。そして、作品自体も、庶民的な日常の哀歓あふれるものに組み替え、世間に理解されないような“深奥の世界”には蓋をして公表したのです。そこには、啄木の天才がかいま見た世界を受け入れるには、なお半世紀早すぎる当時の社会に対して、これを受け入れさせるために啄木が歩んだ、血のにじむような行跡を見ることができます。

 それにしても、ここには 謎があります。啄木の上手に整えられた公刊歌集の諸作や評論を通して、当時弱冠 13-14歳の賢治が、その深奥のモチーフにまで遡って摂取し承継することが、どうしてできたのだろうか?‥という謎です。この点については、のちほど賢治の伝記的事実に絡めて、ギトンの推測と着想を述べてみたいと思います。



 秋枝美保さんに関しては、↓こちらで博士論文から多数引用させていただいて、『春と修羅・第1集』の後半部分の読み込みを進めたことがありました。



∇関連記事⇒:
《ゆらぐ蜉蝣文字》8.1.12





 当時秋枝さんは、『春と修羅・第1集』と『注文の多い料理店』,「土神ときつね」など、賢治の生涯の時期としては、農学校教師時代の前半を主な対象にしておられました。現在では、そこに至る《心象スケッチ》の形成時期、――“文学揺籃期”から短歌・初期散文の時期を対象にしておられるようです。

 そして、例によって、“賢治圏”外の広汎な周辺資料――同時代の諸般論説、新聞、雑誌等を精査した論考によって、この時期についても前人未到の境地を拓きつつあります。

 秋枝さんは、すでに『宮沢賢治 Annual』Vol.25 に「宮沢賢治の短歌と岩手県の文学活動 ―― 心象スケッチへの道程』、『論攷 宮沢賢治』16号,2018年3月 に「『岩手毎日新聞』「文芸欄」および関連記事に見る文化伝播の諸相 その2 ―― 1910年代の文化動向、宮沢賢治の文学揺籃期と石川啄木に関する一考察』という論文を発表され、今年 6月2日には、『東京宮沢賢治研究会』の例会で、「啄木文学の到達点と賢治の心象スケッチ」という標題で研究発表をなさっています。今回の講演は、これら一連の研究報告を踏まえて、啄木から賢治短歌・散文詩への“深層”の流れを、さらに掘り下げて論じられたものと思います。

 本来は、少なくとも上記の2論文を読んだうえで、今回のご講演をまとめるべきなのですが、ふつつかながらギトンはまだこれらの論文を読んでおりません。そのため、以下のご紹介は、さぞかし多くの誤解や曲解をふくんでしまうだろうと予想されるのですがw、とりあえずの【速報】としてお読みいただければさいわいです。








イーハトーブ館下にて。






 まずは講演の大意を‥



 石川啄木が歌集『一握の砂』を発行したのが 1910年12月1日、宮沢賢治の『歌稿A』は、翌 1911年1月から始まっています。これは偶然の一致ではありません。賢治が啄木の短歌に刺激され、はじめはそれを模倣し、やがて独自の歌を作るようになったことは歴然としています。

 しかし、賢治は、啄木短歌から影響を受けただけでなく、啄木の評論からも文学論と思潮を摂取していたと思われます。

 啄木は、“表現したものが、生活を変えていかなければならない”と主張していました。これは、文学を実践とひとつながりのものとして見るという考え方になって、賢治に受け継がれたと言えます。

 また、啄木は、1909年11-12月発表の『食らふべき詩』で、



「詩は所謂詩であっては可けない。人間の感情生活
〔…〕の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。従って断片的でなければならぬ。」



 と書いています。宮沢賢治の有名な表明:



「前に私の自費で出した『春と修羅』も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とか完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の支度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。」

宮沢賢治書簡[200]1925.2.9.森佐一宛。


「わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して
〔…〕
宮沢賢治書簡[214a]1925.12.20.岩波茂雄宛。



 は、上の啄木の提唱に呼応するものでしょう。そのときどきに浮かんだ意識・感情とその変化の流れを「科学的」に「厳密」に「正直」に記載するということが、両者に共通する詩作の企図です。そして、啄木の場合には、そのときどきの断片的な感情を記録するのに適した短詩形として、短歌を重用しました。賢治の場合には、さらにそうした一瞬一瞬の感情をつないで、短歌の連作から自由詩の長詩形に移って行ったと言えます。

 賢治が、行の字下げや括弧付き行を多用したのも、そうした飛躍が多く錯綜した一瞬一瞬の感情の連なりを、できるかぎり「そのとほり科学的に記載」するための工夫だったのです。



 啄木の言う“生活の改善”とは、日々の生活のなかで鈍麻した感覚を再生させ、「驚嘆を思慕」する「新鮮なる心」を取り戻すことだったと言えます。1910年1月の『スバル』に掲載した評論『巻煙草』のなかで、啄木は次のように書いています:



「我々の理性は、此の近代生活の病処
〔自分の生活が「新鮮なる心」を失っているために「生命の疲労」が次第に迫る状態にあること―――秋枝注〕を研究し、解剖し、分析し、而して其病原をたづねて、先づ我々人間が抱いて来たところのあらゆる謬想を捨て、次で其謬想の誘因となり、結果となったところの我々の社会生活上のあらゆる欠陥と矛盾と背理とを洗除し、而して、少なくとも比較的満足を与へるところの新しい時代を作る為め、生活改善の努力を起こさしめるだけの用をなし得ぬものであろうか。」



 もっとも、啄木はここで、「我々の社会生活上のあらゆる欠陥と矛盾と背理とを洗除し」と言っており、社会の矛盾と戦うことへの関心が、彼の場合にはひじょうに強くあったことを想起させます。

 それに対して、宮沢賢治の場合にはどうだったのか? 上に引用した書簡を見る限りでは、社会的関心からは一歩退いて、人間心理の問題として探究することに主な関心があるようにも見えます。しかしその一方で、賢治もまた、文学を“実践とひとつながりのもの”として捉えていたと、秋枝さんは指摘されます。

 賢治は、啄木のように社会的関心をストレートに表明する人ではありませんでしたが、だからといって、それが無かったとも断定できません。この点は、のちほど岡村民雄さんのコメントを紹介する際に、再度考えてみたいと思います。






 






 啄木が「人間の感情生活の変化」と言い、賢治が「それぞれの心もち」と言うとき、その実際の内容は、かならずしも私たちの日常的な生活感情、いわば庶民的な生活の哀歓とイコールではありませんでした。両者ともに、その脳裡に去来する《心象》は、多分に《異世界》的なものが横溢していたと言えます。

 上で引用した岩波茂雄宛て賢治書簡の手前の部分には:


「六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。」


 と書かれているのです。この「おかしな感じよう」が、「それぞれの心もち」の内容にほかなりません。

 秋枝さんの今回の講演では、この点が必ずしも十分に論じられてはいなかったように感じました。以下では、会場で秋枝さんが配布された資料をもとに、ギトンのやや大胆かつ粗雑な推測もまじえて、上の点をもう少し書いてみたいと思います。






「啄木は 1908年4月、家族を置いて単身釧路から上京、新たな創作活動を企図して小説を発表し始めたもののそれが受け入れられず、貧窮にあえぐ中で再び短歌を書き始めた。『明星』廃刊の翌年、1909年1月に『スバル』を創刊、3月に東京朝日出版社の校正係の職につくことになったが、なかなか家族を呼び寄せることもできず、
〔…〕6月に漸く家族を迎えたが、10月2日、母との不和により妻節子が家出して実家に帰り、その後周囲の説得によって 10月26日に帰宅した。『食らふべき詩』は、それらの騒動の後から書かれたものである。」
秋枝美保:『論攷 宮沢賢治』16号より。



 石川啄木は、単身上京してまもなく、爆発的な勢いで短歌を作りはじめるのですが、1908年6月に書かれた自筆歌稿『暇ナ時』が遺されています。

 




「@石一つ落して聞きぬおもしろし轟と山を把る谷のとどろき
         〈千仞の谷轟々と鳴りて湧きわく谷の叫びを〉

 A人みなが怖れて覗く鉄門に我平然と馬駆りて入る

 Bつと来りつと去る誰ぞと問ふまなし黒き衣着る覆面の人

 C西方の山のかなたに億兆の入日埋めし墓あるを思ふ

 D半身に赤き痣して蛇をかむ人ゆめにみて病おもりぬ

 Eかぞへたる子なし一列驀地
(ましぐら)に北に走れる電柱の数

 F『いづら行く』『君と我が名を北極の氷の岩に刻まむとゆく』

 G今日もまた何処ゆくらむ我が心杖してひとり胸の戸を出づ

 H野にさそひ眠るをまちて南風に君をやかむと火の石をきる

 I青草の床ゆはるかに天空の日の蝕を見て我が雲雀病む

 J〈水晶の宮の如くにかずしれぬ玻璃盃をつみ爆弾を投ぐ〉

 K百万の屋根を一度に推しつぶす大いなる足頭上に来る

 L我時に天井にある節穴の目ににらまれて眠る能はず

 Mその時に雷の様なる哄笑を頭上に聞いて首をちぢめぬ

 Nわが友は北の浜辺の砂山の浜茄子の根に死にてありにき

 O九十九里つづける浜の白砂に一滴の血を印さむと行く」













 ↑秋枝さんが選び出された資料のなかから、さらに16首を選んでみました。丸付き数字は、説明の便宜のためにギトンが付けたものです。

 @〜B,Gは、自分の“無意識”の深層を覗きこもうとしている啄木の意識の反映と見ることができます。C以下は、そうして掘り起こしてきた深層の像‥‥すなわち《心象》のスケッチでしょう。Eの「一列驀地ましぐらに北に走れる電柱」は、賢治詩にもよく現れるモチーフです。たとえば:


「松がいきなり明るくなつて
 のはらがぱつとひらければ
 かぎりなくかぎりなくかれくさは日に燃え
 電信ばしらはやさしく白い碍子をつらね
 ベーリング市までつづくとおもはれる」

宮沢賢治『春と修羅』「一本木野」より。



 CD,Iは、自然の風景が怪異なすがたで表れています。啄木の場合、これらは深夜に寝床で詠んだと記されていますから、風景を見たり歩行したりしてスケッチしたものとは違いますが、それにもかかわらず、賢治短歌とひじょうによく似たふんいきを感じないでしょうか?

 F,H,NOは、特定の親しい人との対幻想を思わせます。親友か恋人かはわかりませんが、相手の人との境目を消滅させようとしているような、鬼気迫るものがあります。

 J〜Mは、啄木が感じていた社会の圧力、あるいは「強権」的権力の圧迫と、啄木の反逆心を思わせます。しかし、これらも《心象》の像として眼に映じたものにちがいありません。

 湯川秀樹さんは、1973年に、この『暇ナ時』を取り上げて、



「石川啄木の無意識の世界、深層心理みたなものが割合生な形で出ているものとしてとらえると、実におもしろいんですね。」



 と述べています。すぐれた科学者ならではの炯眼と言うべきでしょう。



 啄木自身、『スバル』(1910年1月)掲載の評論「巻煙草」で、「象徴詩」について↓つぎのように論じているのです:



「先づ、象徴すべき何物かがあつて、然る後に象徴といふ手段が用ひらるべきである。而してその『何物か』は、必ず其儘では言葉にも形にも表はし得ない、奥深く秘んでゐるところの意味
〔…〕我々は或意味を感得するに当つて、理性の上に享受する場合もあれば、感情に摂取する場合もある)でなければならぬ。

 若しも象徴といふ事が、単に形を変へ、言葉を変へて表はすといふ事に過ぎなかつたら、それは無用の手段である。言葉の遊戯である。まやかしである。」




 賢治の少年時代の短歌や、その後の《心象スケッチ》にひじょうに近い、これらの即興短歌の一部は、公刊された『一握の砂』の冒頭に置かれた「砂山十首」にも採られていますが、大部分は割愛され、《異世界》を覗いたようなおどろおどろしいものは、そこでは公表されなかったのです。日常意識に近いものだけが採用されたと言ってよいと思います。

 もっとも、『暇ナ時』と『一握の砂』のあいだに、雑誌『明星』に「石破集」として掲載されたものがあって、そこには深層心理的なものも多数採用されています。

 そこで、ひとつ疑問に思うのは、『一握の砂』刊行時に 14歳の中学2年生だった賢治が、どのようにして啄木の“深層短歌”の影響を受けることができたのか‥ということです。






「 4 冬となりて梢
(うれ)みな黒む山上に夕陽をあびて白き家建てり

 17 そらいろのへびを見しこそかなしけれ学校の春の遠足なりしが

 19 瞑すれば灰色の家丘にたてりさてもさびしき丘に木もなし

 21 やうやくに漆赤らむ丘の辺に奇しき服つけし人にあひけり

 22 あはれ見よ月光うつる山の雪は若き貴人の死蝋に似ずや」

宮沢賢治『歌稿A』〔初期形〕より。



 これらはみな、1911年(14-15歳)の作なのです。表現にまだ拙い点もありますが、若年にして早くも深層意識に分け入っているさまが窺えます。あざやかな「そらいろのへび」を見たのが悲しいのは、級友は誰も眼にしていない、賢治だけが見えたと言ったので嘲笑われたということでしょう。



 1912-13年になると、↓つぎのように、もう啄木を超えて、賢治独自の境域を現わしてきているように見えます:






 






「26 白きそらは一すぢごとにわが髪をひくこゝちにてせまり来りぬ

 28 せとものゝひゞわれのごとくほそえだは淋しく白きそらをわかちぬ

 32 黒板は赤き傷うけ雲たれてうすくらき日をすゝりなくなり

 37 泣きながら北にはせゆく塔などのあるべき空のけはひならずや

 38 今日もまた宿場はづれの顔赤きをんなはひとりめしをくらへる

 39 深み行きてはては底なき淵となる夕暮ぞらの顫ひかなしも

 49 わが爪に魔が入りてふりそゝぎたる月光にむらさきにかゞやけり

 52 鉛などとかしてふくむ月光の重きにひたる墓山の木々

 53 軸棒はひとばん泣きぬ凍りしそらピチとひゞいらん微光の下に

 54 凍りたるはがねの空の傷口にとられじとなくよるのからすか
 
 68 こぜわしく鼻うごかして西ぞらの黄の一つ目をいからして見ぬ

 69 西ぞらのきんの一つ目うらめしくわれをながめてつとしづむなり

 70 寒行の声門たちよ鈴の音にかゞやきいづる星もありけり

 71 厚朴の芽は封蝋をもて固められ氷のかけら青ぞらを馳す
 
 72 粉薬は脳の奥までしみとほり痛み黄色の波をつくれり

 73 屋根に来てそらに息せんうごかざるアルカリ色の雲よかなしも

 74 巨なる人のかばねを見んけはひ谷はまくろく刻まれにけり」

『歌稿A』〔初期形〕より。






 中学低学年の賢治が、『一握の砂』以前から、雑誌『明星』や『スバル』を通じて啄木に親しんでいたとは考えにくいでしょう。そうすると、啄木と賢治の間で、いわば“橋渡し”をした人物がいたのではないか‥‥ということが考えられてくると思います。

 しかし当時、盛岡の“詩壇”には、このような短歌を評価するふんいきは無かったようなのです。秋枝さんが紹介された『岩手毎日新聞』の文芸欄(1912年)では、自然の風景をそのまま詠んだ短歌は、作者の恋愛感情の寓意を読み取れるものであっても、酷評されていました。そうすると、賢治が、学校の先輩や地元の歌人から、この種の“深層短歌”の手ほどきを受けたとは思えないのです。

 そこで、“橋渡し”として注目されるのが、“青柳教諭”です。

 青柳亮は、1910年に東京外国語学校を卒業後、同年4月に賢治のいた盛岡中学校に英語の嘱託講師として赴任しましたが、兵役のために同年11月退職して、故郷の島根県に戻っています。

 兵役の徴集がまもなくあることは、(通常は)卒業時の徴兵検査によって予め判っていたはずですから、本人に縁故のない岩手県の盛岡中学に約半年間だけ赴任したことは、とても奇妙なことに思われるのです。そこで、憶測になりますが、青柳は啄木にあこがれる“文学青年”で、啄木の母校・盛岡中学校で兵役前の一時期を過ごすために盛岡に来たのではないかと考えられるのです。

 青柳は、兵役を終えた後、京都帝大で法学などを学びなおし、その後の人生は台湾、満洲へと、終戦までを外地で過ごしたようです。終戦時は南満州鉄道株式会社の常務取締役でしたが、未亡人の追憶によると、たいへん趣味の広い人で、また平和主義者だったと言います。青年時に啄木に傾倒したことも考えられる人ではないでしょうか。


∇ 関連記事(青柳教諭を送る)⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 3.6.24.




「   青柳教諭を送る
   

 秋雨にしとゞうちぬれ
 きよらかに頬瘠せ青み
 師はいましこの草原の
 たゞひとりおくり来ませり

 羊さへけふは群れゐず
 玉蜀黍
〔きみ〕つけし車も来ねば
 このみちの一すじ遠く
 ひたすらに雨は草うつ

 友よさは師をな呼び給ひそ
 愛しませるかの女を捨て
 おもは[ざ]る軍
〔いくさ〕に行かん
 師のきみの頬のうれふるを」

宮沢賢治『文語詩未定稿』より〔下書稿(一)〕



 ↑これは晩年の詩ですが、青柳に対する崇拝に近い追想が、20年以上のちまで賢治の脳裏には焼き付いていたのでしょう。

 この作は、賢治の同級生と上級生数人に“青柳教諭”も加えて、やや悪天候の岩手山へ登山した時の思い出がもとになっています。生徒たちの泊りがけ登山に同行したということは、生徒たちの間に入って親しく交わった考えられますし、賢治とも親しかったでしょう。「友よさは師をな呼び給ひそ」と賢治が思うくらい、むしろ、傲慢な上級生たちには舐められていたとさえ思えます。

 青柳亮が盛岡を去った1910年11月といえば、『一握の砂』が出版される前の月でした。青柳が賢治に、啄木についてなにか話したとすれば、『明星』『スバル』に発表された短歌、小説、評論を通じて知った啄木であったことになります。そのなかには、『暇ナ時』も含まれていたと考えられます。

 青柳が啄木と賢治の間の“橋渡し”をしたという直接の証拠や記述資料は何もないのですが、ギトンには、たいへんありうることのように思われるのです。






 さて、秋枝さんのお話は、岩手出身の彫刻家・萬鉄五郎にも及んで、地方文学・芸術史のなかに宮沢賢治を位置づけるスケールで展開されたのですが、そこまでご紹介する余裕がありませんでした。



 次回は、初日の3人目、信時哲郎さんの講演をまとめ、できれば初日のコメンテーター岡村民夫さんのコメントまで扱えればと思います。












   こちらへつづく↓

 “異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(3)






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カテゴリ: 宮沢賢治

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