ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.12


関東大震災による社会思潮への影響については、第1次大戦の戦時・戦後好況に支えられた大正デモクラシーの時代が終焉し、震災時の無政府主義者大杉栄虐殺事件に象徴されるように、社会全体が反動的な戦時的方向へ向かって行ったと言われるのがふつうです。

しかし、宮澤賢治の受けとめ方は、そうした社会一般の思潮方向とは異なっていたように思われます。というのは、賢治の周辺環境では、『国柱会』と田中智学の旧時代的な狂信的ナショナリズムが凋落し、震災をきっかけに人心を惹き付け得なくなったという流れがあるからです。

1921年東京に出奔した頃の熱狂は醒め、賢治は、「日蓮主義」の絶対的信仰からも、過激なナショナリズムからも距離を置き始めた──それが、賢治における“震災”の受けとめ方であり、『春と修羅』の構想に現れた《熱い》情念から《冷たい》精神への移行にも深く関わっていることを、このあと、秋枝氏の議論を整理しつつ示して行きたいと思います。

ともかく、「雲とはんのき」で、作者が向かっているのは、震災で混乱している日本の中枢たる人々の真っ只中であり、作者は、そこへ、「一挺のかなづち」だけを携えた徒手空拳の姿で踊り込み、新たな価値を探し出そうとしているのだと思います。

 4 秋枝美保

『春と修羅(第1集)』収録の心象スケッチは、各作品に
「付された日付だけでなく、その中に描かれた過去の時間をも含めると、第一次世界大戦後から関東大震災後に至る1910年代末から1924年1月までの6、7年」にわたっている。「それは大きな時代の転換期であり、国柱会を主軸とするナショナリズムのうねりと、一方マルクシズムや、アインシュタイン相対性理論などヨーロッパの新しい思想の流入などがあいついで起こった動揺の時代であった。」

その中で、宮沢賢治の信仰と思想は、盛岡高農を卒業した1918年から、『春と修羅』「序」の書かれた1924年1月にかけて、生涯で最も大きな変動を見せたのである★

☆(注) たとえば、イギリスの史家ホブズボームは、第1次世界大戦までを「長い19世紀」すなわち「帝国の時代」、終戦期以後を「短い20世紀」すなわち「極端な時代」と呼んでいる(E・J・ホブズボーム『帝国の時代 1,2』,みすず書房,1998. エリック・ホブズボーム『二〇世紀の歴史 上,下』,三省堂,1996)。一般相対性理論が日食観測によって確認され、西欧人の日常的生活世界(ユークリッド-ニュートンの世界)に衝撃を与えた1919年の前後は、ヨーロッパでは、2つの時代に挟まれた混沌とした移行期であり、日本もまた、数年遅れて、1921年のアインシュタイン来日を契機にその渦中に入った(佐藤文隆『孤独になったアインシュタイン』,岩波書店,2004,pp.8-12.)

★(注) 秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想』,2004,pp.9-10.

このような「まえがき」で始まる秋枝氏の近著(博士論文を拡充したもの)は、細かい意味不明語句の詮索や、作者の生涯の瑣末事の後追いに終始しがちな賢治研究界に新風を送りこむものです。

『春と修羅』「序詩」は、秋枝氏の言う1918-24年の思想・信仰変動のいわば結論を示すものですが、秋枝氏の「序詩」の理解は、ギトンの読み(⇒『ゆらぐ蜉蝣文字』「序説」 《いんとろ》【1】序詩について)に近いものであることが確認できます。

ギトンは、当時ヨーロッパで隆盛していたフッサール現象学を参考に「序詩」を読み解いたのでしたが◇、秋枝氏は、ドイツの仏教受容の流れに影響を受けた当時の日本仏教学の思潮の中に『春と修羅』を置くことによって、「序詩」の同時代的解釈を行なっています。そして、当時ドイツの仏教受容は、キリスト教や伝統的な西洋哲学に対する信頼崩壊の中で、現象学的思潮を基盤として起こっていたのでした。

◇(注) 宮澤賢治が読んでいたという雑誌『改造』には、現象学関連の記事がしばしば掲載されただけでなく、フッサール自身も論文を寄稿したことがあります。したがって、賢治は現象学について、日本の知識人一般のレベルの知識は持っていたことになります。

それは、きわめて簡略化して言えば、@絶対的な《本体》観念(「実在」「本仏」)の否定(「畢竟こころのひとつの風物です」)、A科学的知見・法則の相対化(「これから二千年もたつたころは/それ相当のちがつた地質学が流用され〔…〕」)、B《他者》に対し開かれた「複合体」としての自我観(「わたくしといふ現象は〔…〕あらゆる透明な幽霊の複合体」)、の3つを柱とするものです◆

◆(注) 秋枝,op.cit.,p.389.
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