08/08の日記

04:39
【宮沢賢治】“異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(1)

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箱ヶ森と紫波山塊(滝沢市篠木から)  









 こんばんは (º.-)☆ノ






 そろそろ解禁かな? と思うので、ご報告を始めたいと思いますw



 さる 7月28,29日の両日、新花巻の《宮沢賢治イーハトーブ館》で、宮沢賢治学会主催のセミナー:



 心象スケッチを知っていますか? 第3回

 心象スケッチと異空間



 がありました。
 
 【公式記事】⇒:《宮沢賢治学会イーハトーブセンター》



 今回はシリーズの第3回だそうで、タイトルは一般向け入門セミナーのように見えるのですが、講師の陣容を見てビックリ!! 賢治詩に関するかぎり、研究の最先端にいる錚々たるお名前が並んでいるではありませんか!! 予告されている講演内容も、なにやら専門的です。

 《ゆらぐ蜉蝣文字》 《宮沢賢治のいきいきとした現在へ》 ←こちらで何度も引用させていただいた秋枝美保さん、平澤信一さん、栗原敦さんはじめ、賢治詩研究の最高峰が一堂に会した観のあるこのイベントに参加しないと、きっと後悔する。。。

 というわけで、例によって直前に出くわしたいろいろな障碍を乗り越えて、今回は万難を排して聴講して来ました!!!w



 講演開始時に会場で、スマホで撮影や録音をしてツイッターやらに出すのは控えるように、とのお達しがありました。最近は、諸種イベントの1時間後にはインターネットで内容が言いふらされているということで、とくに人物の顔のアップなどはゼッタイにやめてほしいとのことでした。

 しかし、その後の講演の内容を聴けば、これは決して防衛でも勘繰りでもないことがわかりました。一般の誰でも自由に出入りできるこのセミナーで、お話の内容は、第一線の研究者が現在執筆中の論文の内容を述べたり、著書には書かれないような“先端問題”の微妙なお話があったりと、‥これをそのままシロウトに公表されたら、さまざまな誤解を生んで、研究に支障を生じないでもなかろう。。。 と、こちらがはらはらしたくらいでした。

 そういうわけで、今回は会場の写真は1枚も撮しておりません。

 また、このあと各講演の内容に言及して行きますが、内容はすべてギトンがとった不完全なノートによるものです。講演者の意図をつくしているとはとうてい思えませんし、適宜ギトン自身の考えや我田引水を遠慮なくぶちこんでいますので、どこまでも、ギトンの書いたものとしてお読みくださいますよう...



 なお、以下では、敬称をすべて「〜さん」に統一させていただきます。







津軽峠から望む白神連山






 【1】基調報告 ――― 平澤信一さん



 平澤信一さんは、論文集『宮沢賢治 《遷移》の詩学』(2008年,蒼丘書林刊)で、実証的な手堅い学風による賢治詩と短歌の研究を公にされています。この本は、ギトンにとっては、賢治詩の意図と内容の読解に眼を開いてくれた恩のある著作なのです。

 いま出版年代を見ると、ちょうど 10年前だったのですね。当時は、この『《遷移》の詩学』と、小沢さんの『薄明穹を行く』が、賢治詩を読むためのバイブルのようなものでした。

 しかし、今回、セミナーの予告を見て、冒頭の基調報告に平澤さんが立たれると知って、何よりもビックリしたのでした。上記に収録された論文を見るにつけ、どこまでも慎重で手堅い学風の平澤さんが、“宮沢賢治と《異世界》”などというアブナいテーマで、いったいどんなお話をなさるのだろう?‥という期待で、いっぱいになったのでした。



 さて、講演は期待にたがわず、このテーマの研究史を手堅くまとめる内容でした。

 この世ならぬ異形の世界を目睹し、それを描いた詩人として宮沢賢治を評価する方向をはじめて提示したのは、栗谷川虹
(こう)さんが 1976年に出版した『気圏オペラ』においてでした。栗谷川さんは広島県の在野の研究者で、この本も中央の名の通った出版社ではなく、福山から出版されたので、当時一般の販路に乗ることもなく、注目もされませんでした。

 しかし、まもなく入沢康夫さんの紹介(1977年8月、読売新聞)で、栗谷川さんの研究は“賢治研究圏”にも知られるようになりました。その後、《異世界》あるいは《異界》を見る者として宮沢賢治を語る評論が続々と出るようになって、“宮沢賢治と《異世界》”は、まぁ一種のブームになったと言ってもよいと思います。

 それでも、研究の進展という点で評価すれば、今日でもその到達点は、栗谷川さんが論じ、入沢さんが紹介した当時からまったく先に進んではいない――と、平澤さんはまとめられました。



 入沢さんの上記『読売新聞』の記事は、他の人の宮沢賢治論を紹介した文の中で、栗谷川さんにもかんたんに触れただけだったのですが、1980年には、『別冊 国文学』6『宮沢賢治必携』の中で、1章をさいて栗谷川さんの著書を紹介し、



「この栗谷川氏の著書の全体から、私は強烈な『真実への肉迫』の感覚を嗅ぎとる。賢治の『心象スケッチ』の実体が、これほど身近から、生々しく見据えられたことはなかったのではないかという気さえする。この書物が広島県福山市の双人社書店から出ていて、あまり一般に知られていないことを、残念に思う。」



 と、入沢さんにしては珍しく(そんなことないか‥)、ほとんど絶賛に近い高い評価を与えておられるのです。






 
  夕刻の新花巻駅(釜石線ホーム)








 栗谷川さんの議論の核心は、


 フランスの天才詩人ランボーと同じく、宮沢賢治もまた、人間の意識の深奥に分け入って、常人の知覚の達しえない《異界》を透視した《見者(ヴォワイヤン)》であった。賢治の《心象スケッチ》とは、彼が見た《異界》の実相を、忠実に文字にしたものにほかならない。


 と云うに尽きます。



「ここに、きわめてよく似た二つの詩句があります。


  俺は、架空のオペラとなった――ランボオ


  私は気圏オペラの役者です――宮沢賢治


 ランボオと賢治。ともにそれぞれの文学史からまったく孤立した特異な詩人たち。あるいは、奇蹟的な意識の冒険者たちは、私たちには知覚し得ない意識の深奥を探るという危険な彷徨のはて、二人ながら、この世のものとも思えない、あるいは、宇宙そのものを舞台としたような、壮大、神秘的な、観客のないオペラを演じていると観じたのです。

 これは、断片的な詩句の、偶然の一致に過ぎないでしょうか。私には、意識の深奥に存在の秘儀を垣間見た見者
(ヴォワイヤン)たちが強いられた、異様な孤独と陶酔を見る思いがします。

 
〔…〕この『四次元世界』のスケッチ家、賢治と、『あらゆる錯乱を定著』した言葉の錬金術師、ランボオの像とは、ある面でピッタリ重なり合うように思えます。たしかに、彼らは〔…〕彼らの踏み込んだ領域、ランボオのいう『この世の果、シンメリイの果、旋風と影の国』、賢治のいう『四次元』『異空間』においては、〔…〕冒頭の詩句のごとく、きわめて接近しています。〔…〕

 思うに、人間の意識の深奥は、私たちが漠然と想像するように、不可知の混沌たる暗雲の中に消え去るのではなく、その暗雲を突き抜けた虚空で、もう一つの明晰な世界を持っているのではないか。ランボーと賢治は、そこまで登りつめて、そこで、架空の、気圏のオペラを演じた、と私には思えます。
〔…〕

 『春と修羅』の難解さは、詩としての難解さではない。賢治の体験そのものの難解さなのです。賢治独特の新奇な語法も、イメージの突然の飛躍も、教養や性癖、あるいはレトリックの卓絶や、思考の迅速厳正からくるのではない。賢治の心象体験そのものが、私たちにとって『未知なるもの』であることにあります。
〔…〕賢治は『春と修羅』で、私たちの意識では捉え得ないある奇怪な風景を、ちょうど薄紙をあてて、複雑な紋様を写すように、スケッチしてみせた。これは文字通りスケッチなのであって、賢治は自分が見通したある謎を、出来る限り正確にひき写してみせました。言葉は当然その謎に密着し、社会の連帯性を失う。私たちの前にあるのは、晦渋な思想や技法ではなく、その未知の風景なのです。〔…〕

 賢治は、むき出しの謎を突き付けた――賢治の純粋視覚の実験に私たちを立ち合わせ、その奇怪な現象を記録してみせた。詩人
〔著者が名を挙げているのは、中原中也と山本太郎―――ギトン注〕はこれを惚れ惚れと眺めた。が、私たちは、その紋様の鋭い描線をたどろうともせず、その中に隠されていると思い込んでいる、〔…〕論理的に分析し、説明し得る思想や、日常的な感情を探ろうとします。賢治の、『春と修羅』の難解さはここにあります。〔…〕『詩集・春と修羅』に、詩的観念を探ろうとして、人は、ある未知なるものにぶつかり、そして呟く、難解である、と。

 
〔…〕賢治は最初から『心象スケッチは……そのとほりの記録』だと明言しているのですが、この言葉は少しも信用されませんでした。〔…〕

 『春と修羅』の「序」を一読して、すぐに気付くことは、
〔…〕繰り返し繰り返し、『春と修羅』が、知覚されたままの風景の、正確なスケッチであることを強調していることです。おそらく賢治がここで一番いいたかったのは、そしていうことができたのは、これだけでした。私はこの通り間違いなく見たのだ。そしてそれを正確に描写したのだ、と。」
栗谷川虹『宮沢賢治 異界を見た人』,1997,角川書店,pp.36-38,47-50.



 ここで栗谷川さんが述べていることは、結局こういうことになるでしょう。

 宮沢賢治の詩は難解だと言われるけれども、決して難解ではない。私たちが見たこともないような、それこそ“難解”きわまりない風景を、可能な限り平易に写しとって書いているにすぎない。“難解”だと思うのは、それを“詩”だと思って読むからだ。世間一般に流布する詩のような日常的な感情や思想を、そこに読みとろうとして、あれこれムチャな当て推量や“解釈”をしようとするからだ。賢治は、そんなものを書き込んではいない。

 そこに書かれているとおりの風景と世界が存在することを確信して、ありのままに読めば、これほど解りやすい詩は無いし、これほど「惚れ惚れ」とする世界を描いた作品もないのだ‥







ランボー「愛なんて存在しないよ!」






 平澤さんによれば、《異世界》を見た賢治の体験に注目した人は、栗谷川さん以前にもいました。そのひとりは小沢俊郎さんでした。小沢さんは、『春と修羅・第2集』収録の「河原坊」(#374,1925.8.11.)で、賢治が半覚半睡の状態で、「二人のはだしの逞ましい若い坊さん」が「南無阿弥陀仏!」と叫ぶように唱える幻覚を見た体験について、


「この詩では、想像という語がまったくあてはまらぬほどはっきりと、現実的体験そのものであるかの如くに、幻覚が描かれている。」

「この時の賢治の感じた神秘はまさしく実感として迫ってくるのである。」



 と書いています(『薄明穹を行く』)。栗谷川さんは、この小沢さんの文章を引いて、「私の言いたいのも、まさにこのこと」だと述べているのです。

 この“はだしの足”は、賢治の“幻覚”にはしばしば登場する要素であったらしく、童話『ひかりの素足』や、「小岩井農場・パート4」の「キンナラの子供ら」、また「パート9」の「ユリアとペムペル」が想起されます。これらの光景は、賢治の想像やフィクションではなく、じっさいに「現実的体験そのものであるかの」ような「幻覚」として、眼にしていたと思われるのです。



 童話『ポラーノの広場』では、レオーノ・キューストと2人の少年が、野原の奥にあると云われる伝説の「ポラーノの広場」を探しにでかけます。そして、3人が、真夜中の野原に聞こえる不思議な音と、「つめくさの花のあかり」を手がかりに探していると、「トローンボーンかバス」のような音が遠くからひびいてくる場面があります:



「そのときでした。野原のずうっと西北の方で、ぼお、とたしかにトローンボーンかバスの音がきこえました。わたくしはきっとそっちを向きました。するとまた西の方でもきこえるのです。わたくしはおもわず身ぶるいしました。野原ぜんたいに誰か魔術でもかけているか、そうでなければ昔からの云い伝え通り、ひるには何もない野原のまんなかに不思議に楽しいポラーノの広場ができるのか、わたくしは却ってひるの間役所で標本に札をつけたり書類を所長のところへ持って行ったりしていたことが、別の世界のことのように思われてきました。」

『ポラーノの広場』より。
(原文は旧仮名遣い)  






 「わたくしはおもわず身ぶるいしました。……わたくしは却ってひるの間役所で標本に札をつけたり書類を所長のところへ持って行ったりしていたことが、別の世界のことのように思われてきました。」という「わたくし」(レオーノ・キュースト)の叙述に、《異世界》へ入りこんでゆく感覚が表れています。

 キューストらは、この夜には、けっきょく「ポラーノの広場」にはたどりつかずに帰って来るのですが、5日後には、どうやら「ポラーノの広場」らしい場所にたどり着くのです。しかし、そこに着いてみると、すでに先客がいて、町で悪い評判のある「山猫博士」が、給仕をしたがえて、宴会の真最中だったのです。

 『ポラーノの広場』では、キューストらは、けっきょく本物の《異世界》には到達していないように、ギトンには感じられます。賢治は、その場面を、



「いよいよ近くなってわたくしは、これこそはもうほんもののポラーノの広場だと思ってしまいました。」



 と書いています。「思ってしまいました」ということは、じつは「ポラーノの広場」だと思ったのは間違いで、本物の「ポラーノの広場」は、そこではなかった‥‥ともとれる書き方です。



 『風の又三郎』では、《異世界》の存在が何度かほのめかされるだけで、嘉助たち「谷川の小学校」の生徒が、そこに入って行くことはできません。「高田三郎」は、はたして《異世界》から来たのか、東京から転校してきたのか、嘉助たちには判断がつかないまま、「三郎」は去って行き、この童話は終っています。



 しかし、『銀河鉄道の夜』では、列車は当たり前のように《異空間》を走っています。ジョバンニは、現実世界と《異空間》の間を往き来するのです。この童話の最初期形は 1924年に書かれたと推定されていますが、ジョバンニらの生活する“川辺の町”が現実感を持って描かれたのは、賢治死去の直前に書かれたと思われる第4次稿においてです。つまり、《異空間》と現実世界が並び立って描かれ、両世界の間の往復が実現するのは、まさに作者自身が死を迎えた最晩年になってだったと言えます。

 しかも、「銀河」の列車が走る《異空間》は、死者が最終的に赴く世界ではありません。列車から降りてゆくタイタニック号の難船者たち、またカムパネルラが消えて行った先が、どんな世界なのかは、依然として謎に包まれているのです。

 《異空間》ないし《異世界》を、死者の赴く冥界をふくむものとして考えた場合、賢治は、そう簡単に《異世界》を見られたわけではないと、ギトンは思うのです。



 以上は、平澤さんの講演内容に、ギトンが自己流の考察をかなり付け加えました。平澤さんのお話の趣旨とは違う点があることをお断りしておきます。






 






 基調報告の内容は、のちほどセンターの刊行物に掲載されるでしょうから、とりあえずのご紹介は、このくらいにして、以下、ギトンが感じた疑問点をいくつか記しておきたいと思います。



 まず、ひとつは、栗谷川さんのもともとの議論(↑上に、最初の著書『気圏オペラ』のはじめの部分を――改訂版からですが――引用しました)では、ランボーと賢治が“見た”もの、スケッチした世界は、あくまでも人間の意識の深奥だということです。ランボーと賢治は、自己の“無意識”の深奥に分け入ったときにそれを見たのであって、それはおそらくは万人に共通の“無意識”の内容なのです。ユングが考察した“集合的無意識”に近いものかもしれません。

 栗谷川さんは、最初の2著では「異界」という言葉を使っていません。3冊目の改訂著書に、『異界を見た人』という副題を付けたのは、出版社(角川書店)の薦めによるものであって、「異界」は、栗谷川さん自身の発想ではないのです。

 宮沢賢治の《心象スケッチ》を、なにか、この世とは別にある《異世界》を透視する“霊能力者”の秘儀のように見るのは、1980-90年代に日本を席巻した“霊能力ブーム”に影響された面が大きいのではないかと思います。栗谷川さん自身、のちの論文、著書になるほど、逆にブームに影響されてしまって、そうした“霊能力者”的な秘蹟として、賢治の詩や散文を見る傾向が強まっているように思われます。

 今回のセミナーのタイトルには逆らうことになるのですが、《心象スケッチ》を最初から“霊界の透視”のように見てしまうと、なにかとんでもない誤った方向へ行ってしまうような気がしています。このあと紹介する講演で、秋枝さんも言っておられましたが、宮沢賢治の作品を、なにか特異な霊能力者の秘儀のように見てしまうと、それは栗谷川さん以前の、境忠一さんや谷川徹三さんのように、賢治を凡人たる読者とは隔絶した“聖人”、あるいは特異な精神能力者にしてしまい、真実を覆い隠してしまうように感じます。



 第2の点は、それと関連するのですが、賢治が見た“異世界”、つまり無意識の深奥は、亡くなったトシ子や、他の死者たちが移って行ったとされる“他界”と、どういう関係にあるのかということです。

 というのは、栗谷川さんが主な考察対象としている詩篇は、『春と修羅』と云ってもそのはじめ3分の1くらいの部分、「序」から「東岩手火山」までの部分なのです。「東岩手火山」で、賢治は“気圏オペラ”の舞台から降りて、観客の間に入り、農業実践などの新たな活動に向かったとされます。

 つまり、栗谷川さんの議論は、「永訣の朝」以後の、トシ子の死をふまえた詩作品を対象とするものではないことになります。「無声慟哭」の章から「青森挽歌」「宗谷海峡」などを経て、平澤さんが重要視される「鳥の遷移」や「業の花びら」へとつづいてゆく、死者の霊と他界に関わる諸篇は、考察外になってしまうのです。

 栗谷川さんが剔抉された、人間の無意識の深層としての「異界」と、宗教的な意味での「他界」「異界」とは、どういう関係にあるのか?‥ギトンは、↓こちらで「春と修羅』の諸篇を検討した際に、そのあたりがどうにもわからなくて、たいへんに頭を悩ましました。


∇関連記事⇒:
《ゆらぐ蜉蝣文字》6.1.24



 そこで、↑こちらで「永訣の朝」の考察を書いた時に、いちおうの結論としたのは、次のようなアウトラインでした:



 〇 賢治は、トシ子という肉親の死と遭遇するまでは、自分のスケッチしている「異界」と、死者の世界との関係について、あまり深く考えてはいなかった。ただ漠然と、両方は同じものだと思い、自分は死者の世界を見ることができ、死んでゆく者とともに、その世界へ出入りすることさえできると思っていた。

 〇 ところが、トシの死を契機として、そのような自信は、まったく根拠のないものであることを知った。死者とともに「異界」へ交通することはおろか、死者からの「通信」を受け取ることさえ、ままならないのであった。

 〇 この経験は、賢治にとって大きな転換点であった。この経験を反芻することによって、彼はそれまでの独我論的な観念を脱して “他者”の存在を受け入れる方向に向かった。



 しかし、この見方で本当によいのかどうか、じっさいのところ今もってよくわかってはいません。



 さて、第3の点は、栗谷川さんが援用しているランボーにかかわることです。栗谷川さんは、もっぱら小林秀雄の翻訳と解説を通じてランボーに接しておられるようです。入沢さんによれば、栗谷川さんが引いている文章には、重要な点で小林秀雄の誤訳や誤解が含まれているとのことです。

 そこで、それらの点を直したうえで、宮沢賢治との比較を再度論じてほしいと入沢さんは注文しているのですが、栗谷川さんは、最近出された新しい著書でも、この点にはまったく言及しておられません。

 ‥ということは、栗谷川さんの頭の中にあるのは、ランボーその人よりも、小林秀雄による“ランボー像”なのではないか? 宮沢賢治に関する栗谷川さんの議論を掘り下げてゆくには、ランボーを参照するよりも、小林秀雄の議論を見るべきではないか? ――ということが考えられてきます。

 小林秀雄を下敷きにしながら宮沢賢治について考察した議論というのは、栗谷川さんのものを別にすれば、ギトンはまったく見たことがありません。しかし、これは、賢治詩に近づくためには必要な階梯のひとつなのかもしれません。














 次回は、初日の二人目の講演者、秋枝美保さんのお話をご紹介する予定です。秋枝さんは、目下執筆中の‥‥かなりの規模になりそうな‥‥論文の内容をふまえて、日本近代文学史、のみならず美術史にまで射程を置いた広いスケールで語られました。啄木との関係など、ちょっとこれまでの通論では耳にしなかったような斬新なお話が聞けたと思います。

 ご研究の中途の内容ですので、それを詳しく書いてしまうことは控えなければなりませんが、支障にならない程度にご紹介したうえで、ギトンの感想など書いてみたいと思います。







ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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