04/16の日記

20:20
【ユーラシア】ジャン・ジュネ―――『薔薇の奇跡』を読む

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メトレー少年院(Mettray institution in 1844)     

ルソー主義に基づく“塀のない更生施設”として 1840年に開所された。








 こんばんは。(º.-)☆ノ









 ジャン・ジュネ(Jean Genet, 1910年 - 1986年)は、自ら同性愛者であり、同性愛が作品の重要なモメントになっている作家のなかでは、世界でもっとも有名になった人と言ってよいでしょう。



 ジュネは、
「1910年12月19日、売春婦であった母、カミーユ・ガブリエル・ジュネのもとにパリに生まれた。父の名前はフレデリック・ブラン。生後7ヶ月で母に捨てられ、田舎(アリニィ・アン・モルヴァン村)に住む木こりの夫婦(シャルル&ウージェニー・レニエ夫妻)の養子となった。ジュネは学校の成績はよかったものの、犯罪を繰り返すようになった。」
Wikipedia 日本語版


 母は、ジャンの出生証明書には「家政婦」と記されており、「売春婦」だったかどうかはわかりません。ともかく、生後7か月で養護施設に預けられ、まもなくアリニー村の夫婦に引き取られます。養父は「木こり」ではなく指物師、養母は小さな煙草店を営んでいました。(光文社文庫版『薔薇の軌跡』収録の年譜による。以下、これを主な資料とします)

 「彼の里親の家は、情愛と思いやりにみちていた。」
(wikipedia 英語版) ジャンは、小学校では成績優秀でしたが、しばしばエスケープとささいな盗みの非行が目立ったと言います。

 1923年、ジャンは、村いちばんの成績で小学校を卒業。翌年、成績優秀により、パリ近郊にある、児童養護施設と一体の職業訓練校に移り、印刷工のコースに入りますが、1か月後にはそこを脱走、放浪先のニースで警察に保護されます。

 1925年(14歳)盲目の作曲家ルネ・ド・ブクソイユに引き取られ、助手となる。「この頃から読書を好み、習作も書いていたと言われる。」
(光文社文庫・年譜)しかし、半年後には、作曲家から預かった金を横領して訴えられ、精神鑑定を受けたあと更生施設(少年院)に送られる。

 1926年(15歳)2月、施設から脱走し、マルセイユで保護される。その後も脱走と無賃乗車・放浪を繰り返したため、トゥール近郊メトレーにある少年院 Mettray Penal Colony に入れられ、1929までここで過ごす。自伝的作品『薔薇の奇跡』は、ここでの体験が中心となっている。

 1929年(18歳)3月メトレーから出所し、外国人部隊 Foreign Legion に志願入隊し、翌年シリアに配属される。1936年までのあいだ、何度か契約更新して入隊し、モロッコなどに配属され、また除隊期間中にスペインなどを放浪する。

 1936年(25歳)軍隊から脱走し、偽造パスポートで、中東欧、イタリア、ドイツ、ベルギーなどを放浪。その間の生活ぶりは『泥棒日記』に描かれる。「窃盗や乞食、男娼、わいせつ、麻薬密売といった犯罪を繰り返していた。」
(wikipedia 日本語版)

「何度か猥褻行為(同性愛行為が発覚)のために不名誉除隊の処分を受け、コソ泥兼売春夫としてヨーロッパじゅうを放浪した。それを彼は、『泥棒日記』で詳しく物語っている。」
(wikipedia 英語版)

 1937年(26歳)パリで、盗みなどで逮捕され 5か月の実刑。その後も出所、再犯、逮捕を繰り返し、1943年までに 13回の有罪判決を受け、監獄にいた期間は合計約3年。

 1942年(31歳)重罪犯・常習犯を収容する『中央刑務所』に投獄される。獄中で小説『花のノートルダム』の執筆を開始、詩集『死刑囚』を自費出版する。翌年、『死刑囚』がジャン・コクトー(彼も同性愛者だったと言われます)の目に止まり、1944年にはコクトーの推薦で、文芸誌「アルバレート」に小説『花のノートルダム』の抜粋が掲載される(これが公に発表されたジュネの最初の作品となる)。

 しかし、この間もジュネの盗癖は止まず、1942年、詩人ヴェルレーヌから高価本を盗んで逮捕され、常習のために無期懲役となるはずだったところを、コクトーの口添えで3か月に減刑される。出所後すぐにまた書籍を盗んで逮捕、ナチ占領下だったため、刑期が終っても、予防拘禁が続いて出所できず。

 1944年(33歳)ナチ占領下で終身禁固刑を求刑され、強制収容所送りになるはずだったが、コクトーら友人たちのはたらきかけで釈放される。文芸誌「アルバレート」に小説『花のノートルダム』の抜粋が掲載された。自伝的小説『薔薇の奇蹟』を執筆。

 このように、微罪をくりかえしては、そのたび数か月の刑で監獄に送られ、著名作家たちと交友するようになってからも、盗癖やまない“懲りない”ジュネでしたが、この釈放を機に泥棒生活から完全に足を洗い、以後は作家・反体制活動家としての後半生を歩むことになります。

 印税収入で生活が安定したこともあるでしょうけれども、多くの友人に手を差し伸べられて九死に一生を得た体験(ナチスの強制収容所に送られていれば、帰って来られたかどうか疑問です)が、いかに彼の世界観を変えたかがわかります。








ジャン・ジュネ監督映画『愛の歌(Un Chant D'Amour)』(1950)より







 1946年(35歳)『薔薇の奇跡』刊行。1947年(36歳)小説『ブレストの乱暴者』刊行、戯曲『女中たち』初演。1949年、『泥棒日記』刊行。コクトー、サルトル、パブロ・ピカソらの請願により、大統領の恩赦を獲得。

 1952年(41歳)サルトルのジュネ論『聖ジュネ』が発表され、ジャン・ジュネを世界的に有名にしましたが、ジュネ自身は、サルトルによるこの“聖人化”が不本意であったらしく、以後数年にわたって筆を折ってしまいます。1956年から戯曲の執筆を再開しますが、小説は以後まったく書かなくなってしまいました。

 1961年、大作『屏風』刊行。フランスのアルジェリア戦争を批判するこの戯曲は、60年代後半、右翼のデモと妨害の中で上演されることになります。この年、ジュネの戯曲『黒んぼたち』がニューヨークで上演され、公演回数 1408回を記録。この上演は、アメリカの黒人解放運動に影響を与えたと言われています。

 1967年、仏伊国境で自殺未遂。その後、日本に旅行。

 1968年、パリ《5月革命》を論評で支持。アメリカでヴェトナム反戦運動を支援する。前年からこの年にかけての行動が、作家から社会活動家への大きな転換点になったようです。日本旅行は、どんな意味があったのでしょうか?興味深いところです。

 1970年、在フランス移民労働者を守る運動に参加。黒人解放運動団体ブラック・パンサーの招きで、アメリカ各地で講演。PLOの招きで、ヨルダンのパレスチナ人キャンプを訪れ、半年間滞在。

 1977年、『ル・モンド』誌発表の論説で、76-77年にかけて検事総長、高裁判事、経営者連盟会長、銀行会長ら西ドイツ要人の暗殺とハイジャックを惹き起こしていたドイツ赤軍を支持し、物議をかもす。

 1982年(71歳)、モロッコに移住。PLOのリーダーとともに、ベイルートのパレスチナ人難民キャンプを訪れ、虐殺直後の状況をエッセーとして発表。

 1985年、パレスチナ旅行をふまえて、長大な散文『恋する虜』を完成。86年、その校正中に、パリのホテルで死んでいるのを発見される。




◇    ◇







「ジュネはしばしば読者にむかって『あなた方』(vous)と呼びかけるのだが、これは彼自身と『あなた方』をはっきり〈区別〉し、彼自身を〈よそもの〉として〈差別〉し、敵対させる代名詞でもある。
〔…〕ジュネは、この作品の書き手は、『あなた方』の世界には属さず、『あなた方』の世界の外で書いたことを、いつもはっきり示すのだ。

 サルトルはジュネのそのような文学の〈外部性〉を、孤独と反抗を、十分深く理解しながらも、巧みに世界と和解させようとしたのだ。ところが『聖ジュネ』が書かれたあとのジュネの足跡をたどってみるなら、ついにジュネはこの世界と和解したようには思えないのだ。」

宇野邦一「解説」, in:『薔薇の奇跡』,2016,光文社文庫,pp.545-546.


 



 







「懲罰室の一日はつらく、行進でへとへとになった。しかし輪を描く歩みの魔術的な力のおかげで、落ち着きをとりもどした。というのも、
〔…〕僕たちは頭を小刻みに揺すりながら、無意識のうちに、荘厳なダンスの中で互に溶け合う幸福を感じていたのだ。〔…〕僕たちの体は、40人の筋肉の力のおかげで強くなっていた。実に深く実に暗いトンネルを抜けて、僕はアルカモーヌに出会っていた。しかしまた次の夜にも、彼の人生と一体になり閉じた監獄の扉のところに、自分が立つであろうと僕は確信していた。

 
〔…〕

 夜になると、僕は疲労のあまり、前に書いたようにディヴェールの腕に倒れこんだ。僕の男根が彼の口につながっていっしょになると、僕の疲労はふっとんだ。朝に剃ったばかりの丸刈りの頭を僕は撫でた。僕の手のあいだ、腿の上にある、その玉は大きく感じられた。その玉を乱暴に引っ張り、その重さに抗って僕の口までもってこようとすると、彼の口が僕の口を嚙むのだった。

 僕はディヴェールに『リトン』とささやいた。その名前を口にすると、アルカモーヌは遠くなった。

 ディヴェールは自分の体を僕の体にぴったりつけた。二人とも粗布の囚人服を着たままだった。僕のほうが二人とも裸になることを思いついた。寒かった。彼は躊躇った。

 しかし僕は彼に、もっとぴったりくっついていたかった。ふけていく夜の中で孤立し弱っているせいで危険にさらされたくなかった。危険がせまっているのを感じていたのだ。

 
〔…〕そして二度快楽を味わってから、ディヴェールはぼくを抱きしめ、僕の腕の中で眠ってしまった。僕の恐れていたことが起きた。僕は一人ぼっちになった。

 
〔…〕ディヴェールがいるにもかかわらず、彼のいない別の夜と同じくらい勤勉に(それが最後だったが)、僕は見者と苦行者の活動を再開した。突然、薔薇の香りが僕の鼻をかすめた。そして目は、メトレーの藤の光景でいっぱいになった。〔…〕藤の幹は太く、苦しみに歪んでいた。鉄線を入り組ませて、壁につなぎとめてあったのだ。〔…〕薔薇は錆びた釘で壁にうちつけてあった。その葉叢は輝いて、花々は肉のように生々しかった。ブラシ製造所から出たとき、〔…〕作業所長のベルトゥー氏が僕たちを待たせるのは、しばしば藤と薔薇がきらびやかに咲いているところだった。薔薇の匂いが僕たちの鼻腔にいやというほど降り注いだ。この花々の思い出に包まれると、たちまち僕の精神の目に、これから語る光景がおしよせてきた。

 アルカモーヌの独房の扉が開けられた。彼は仰向けに眠っていた。まず4人の男が夢の中に飛び込んできて、彼は目を覚ました。
〔…〕黒装束の男たちを見て、彼は理解した。しかも、実に素早く気づいたのだ。眠りながら死ぬためには、彼がまだ振り払っていないこの夢の状態を粉砕してはならない、破壊してはならないということを。彼は夢を持続させることにした。〔…〕彼は自分自身に『はい』と言い、微笑する必要を感じた。それは他人がほとんど気づかない内面の微笑で、その効果は彼の内的存在にしか伝わらないはずだし、自分をどんな瞬間よりも、強くするための微笑だった。この微笑は彼の孤立に由来する莫大な悲しみを乗り越え遠ざけるはずだったからだ。〔…〕だから彼は微笑した。この軽やかな微笑を、彼は死ぬまで絶やさなかった。彼がギロチンより他のものを念頭においていたと思ってはならない。彼はそれを見据えていた。ただ彼は英雄的な、つまり喜ばしい十分間を生きようと決心したのだ。〔…〕

 彼は立ち上がった。そして独房の真ん中に直立したとき、彼の頭、首、次いで体全体が、レースと絹に包まれて現れた。それは世界を支配する悪魔たちだけが、最悪の瞬間に身につけるもので、彼は突然それを身に纏っていた。

 形は微塵も変わることなく彼は巨大になり、独房よりも大きくなってこれを破壊し、宇宙をみたしたので、4人の黒装束の男たちは小さくなって、4匹の虱くらいのものになってしまった。アルカモーヌは威厳に包まれ、高貴な存在になって、彼の衣装さえも絹や錦に変わったことがわかった。彼はエナメルの革の長靴を履き、柔かい青の絹の半ズボン、ブロンドレースのシャツを身につけていた。シャツの襟は堂々たる首の下で開き、そこには金羊毛の首飾りがかかっていた。まちがいなく、彼は一直線に、ガレー船の船長の股ぐらから、天国の道を通ってやってきたのだ。
〔…〕

 彼は地面に右の膝をついた。4人の小人たちは素早く、彼の足、そして腿の斜面を這い上がろうと、この機会を利用した。彼の体をよじ登っていくのは容易ではなかった。絹が滑った。腿の真ん中のところにある、近づきがたい剣呑なズボンの前開きを敬遠していると、アルカモーヌの手がそこに触るのにでくわした。彼等はひたすらよじ登った。
〔…〕

 判事と弁護士は耳の中に入り、司祭は死刑執行人といっしょに、なんと口の中に入りこんだ。彼らは下唇の端を少し進むと、深淵の中に落ちていった。ほぼ喉元をすぎたところに並木道があり、おだやかで、ほとんど甘美な下り坂になっていた。
〔…〕最も彼らを驚かせたのは静寂だった。」
『薔薇の奇跡』,光文社文庫,pp.520-525.














 美少年の死刑囚アルカモーヌが処刑の朝を迎えた場面ですが、彼を処刑場へ連れてゆく人々の姿を目にした瞬間、アルカモーヌの姿は「威厳に包まれ、高貴な存在になって、彼の衣装さえも絹や錦に変わっ」てしまうのです。そして彼は、独房も施設の建物も吹き飛んでしまう巨大な存在となります。

 黄色い字で強調しておいた「一直線に、ガレー船の船長の股ぐらから、天国の道を通ってやってきた」という部分ですが、これは、

 少女を強姦殺害し、看守を殺害した、神そのもののように冷酷な「至高の存在」アルカモーヌの精神にも、「世界を支配する悪魔」として成長してきた“歴史”があることを、語っているように思われます。

 彼を囲繞する大人たちの冷酷で自分勝手な扱いを受けなければ、“悪魔”は決して成長しなかった。しかし、それらの理不尽な扱い――“受難”を糧として、彼は至高の存在に成長した。。。 ここには、吉本隆明が宮沢賢治の作品に視ている一種のルサンチマンに近いものがあるように感じます。⇒:【吉本隆明】の宮沢賢治論――選ばれた者のユートピアか?(3) 【吉本隆明】の宮沢賢治論――選ばれた者のユートピアか?(4)



 彼を迎えに来た4人の「黒装束の男たち」は、「シラミのように」小さくなって、アルカモーヌの身体の中へ入って行こうとします。それは4人それぞれが、弁護士、判事、司祭、死刑執行人として、死刑囚の精神の中に分け入ろうとして、やってきた仕事にほかならないのです。アルカモーヌの「高貴」な精神は、そうした彼らを決して寄せつけはしなかったのですが、いま、語り手ジュネの「特権」的なまなざしに援護されて、4人は、現実にはなしとげられなかった「至高の存在」の体内への探索行を開始しようとしているのです。



 それにしても、男の同性愛者にとって、ノンケのイケメンは、いつも至高の憧れの対象なのでしょうかね?w






「アルカモーヌの内部には終わりがなかった。そこは黒一色だった。王が暗殺されたばかりの首都よりももっと黒ずくめだった。コーラスの歌声が語った。『心は悲嘆にくれる』と。最後に彼らは恐怖に襲われた。海のそよ風のような恐怖に、彼らははちきれそうだった。
〔…〕眩暈のする断崖がすきまなく続いた。鷲のとぶ姿はなかった。どこも絶壁だらけになった。アルカモーヌの非人間的な地帯に近づいていたのだ。

 
〔…〕僕はまだ自分に許された特権のあったことに驚いている。おかげで僕はアルカモーヌの内面の生活を目撃し、4人の黒ずくめの男たちのひそかな冒険の見えない観察者になることができた。〔…〕4人の声が同時に不安そうな声で尋ねあった。ほとんど息がとまりそうになっていた。

 『心臓ですよ、心臓を見つけましたか?』

 そして4人のうち誰も心臓を見つけていないことに気づいて、彼らは例の廊下を進みながら鏡を調べた。彼らはゆっくり進み、片手を耳たぶにあて、耳をたびたび壁にはりつけた。最初に鼓動を聞いたのは、死刑執行人だった。
〔…〕鼓動はますます速くなり、間隔が狭くなった。ついに4人の男は鏡の前にやってきたのだが、そこには見たところ、矢に刺しぬかれた心臓が、指輪についたダイヤで描かれ刻まれていたのだ。そこはおそらく心臓の入り口だった。死刑執行人がどんな振る舞いをしたのか、それはうまく言えないが、この振る舞いは心臓を開かせ、

 僕たちは最初の部屋に入った。そこはむき出しで、白く冷たく、開口部はなかった。ただひとり、この空虚の真ん中にある木の台の上に、16歳の鼓手がまっすぐに立っていた。凍りついた彼の非情なまなざしは何も見てはいなかった。彼のしなやかな手が太鼓を叩いた。宙に上げた撥はくっきりと正確に下ろされた。その音はアルカモーヌの至高の生を刻んでいた。彼には僕たちが見えただろうか。開いた、踏みにじられた心臓が見えただろうか。
〔…〕

 しかし4人のうちに一人が、彼らはまだ心臓の中心に達してはいないと気づくと、別の扉がひとりでに開き、僕たちは赤い薔薇の正面にいた。それはとてつもなく大きく美しかった。

 『神秘の薔薇』

 と司祭はささやいた。

 4人の男は、その壮麗さにうちのめされた。薔薇の光輝がまず彼らの目を眩ませた。しかし彼らはすぐに立ち直った。
〔…〕感動から覚めて跳びかかり、彼らは酔っぱらった手で花びらを押しのけ、しわくちゃにしてしまった。〔…〕彼らは冒涜の喜びにひたっていた。こめかみは動悸をうち、ひたいに汗を流し、彼らは薔薇の心臓にたどり着いた。

 それは暗黒の深淵のようなものだった。この眼球のように黒く深い穴の縁に、彼らは身をかがめ、得体のしれない眩暈に襲われた。彼らは4人とも平衡を失ったような動作をし、その深いまなざしの中に落ちていった。」

ジャン・ジュネ,宇野邦一・訳『薔薇の奇跡』,2016,光文社文庫,pp.526-529.





 





 語り手が(この小説の)現在、居るのは、大人の重罪犯を収容するフォントヴロー中央刑務所なのですが、語り手を含む囚人たちが、かつてメトレー少年院にいた時、そこからほど近いフォントヴローの監獄は、非行少年たちにとって、運命の行き先であるとともに「憧れの場所」だったのです。逆に、語り手の回想の中では、メトレー少年院の日々は、過ぎ去った楽園のように甘美によみがえります。

 そういう関係から、メトレーとフォントヴローは、向きあった2つの鏡のように、互いを映しあう関係にあり、しばしば場面は跳び、フォントヴローで起きているできごとは、メトレーのできごととして、メトレーの人物たちはフォントヴローの人物として、あえて混同されたように描かれるのです。



「死刑囚アルカモーヌがついに処刑されるまでの切迫した日々は、幻想小説のようにめまぐるしく展開されて『薔薇の奇跡』の大団円となる。少女を強姦し殺した罪で施設に入れられたアルカモーヌは、メトレーでは美しく内気な少年だったのだが、やがて終身刑になったことに絶望し、監獄内で看守を殺し、死刑台への道を歩むのである。

 『薔薇の奇跡』の物語は、それぞれメトレーを体験したアルカモーヌ、ビュルカン、ディヴェールという美しいトリオをめぐって綴られるが、その中心はジュネ(僕=話者)が決して近づくことも触れることもできない『奇跡』の主人公アルカモーヌである。」

『薔薇の奇跡』,光文社文庫,「解説」,pp.548-549.






「処刑された囚人を小墓地に連れて行く車を引く馬の足音を、僕は聞いた。アルカモーヌは、ビュルカンが銃殺されてから、11日後に処刑された。ディヴェールはまだ眠っていた。
〔…〕僕はディヴェールの腕を振りほどこうとはしなかった。

 夜が明けたばかりだった。独房から監獄の玄関まで、音がしないように広げた絨毯の上を、黙って荘重にアルカモーヌが歩くのを想像した。彼は付き添いに囲まれていたにちがいない。死刑執行人が前を歩いていた。弁護士、判事、所長、看守たちが続いた……
〔…〕

 朝の鐘に目を覚ましたとき、ディヴェールは伸びをして僕を抱いた。僕は彼に何も言わなかった。同じ日の朝、扉が開けられ、懲罰室に連れて行かれるとき、僕はディヴェールに合流した。彼の目があわてていた。彼は看守たちの顔に、また便所に行こうとして廊下で列になっている囚人たちの顔に、昨夜の悲劇をかぎつけたのだ。僕たちは
〔…〕たがいに近くを通りながら、少し立ち止まり、無意識のうちに、頭を自然に傾けた。唇をあわせようとして、鼻が邪魔にならないようにキスするときのように。〔…〕

 ディヴェールは僕に言った。

 『ジャノー、今朝、聞いたか』

 僕は何も言わずに頷いた。夜明けのルーが僕たちに合流した。笑いを含んだ調子で彼はディヴェールに言った。

 『それで、ごろつき君、調子はどうだい?』

 
〔…〕それから彼は付け加えた。

 『同志諸君よ、一巻の終わりだ。美貌の男は真っ二つにされた! こんどは誰の番だ?』

 彼は胸を張り、両手を腹において立っていた。ディヴェールと僕にとって、それは運命のときがそのまま偶像になったようなものだった。彼は夜明けであり曙光だった。」

『薔薇の奇跡』,光文社文庫,pp.530-533.













 ところで、ギトンがちょっと気になっているのは、アルカモーヌに関する幻想がはじまる少し前のところで、語り手が、


「しかし僕は彼
〔ディヴェール―――ギトン注〕に、もっとぴったりくっついていたかった。ふけていく夜の中で孤立し弱っているせいで危険にさらされたくなかった。危険がせまっているのを感じていたのだ。」


 と書いていることです。この「危険」とは、何なのでしょうか?同僚の囚人が処刑されるかもしれないという単なる“不安”ではないでしょう。「危険」と「不安」は違います。

 語り手にとって「至高の存在」であるアルカモーヌの幻想に引き込まれてゆくことの「危険」は、アルカモーヌの“悪魔の精神”に取り憑かれてしまうという恐れなのではないでしょうか?

 ジュネもまた、重罪犯刑務所に収容される犯罪者ですが、つねに微罪の常習犯にとどまり、強姦(同性愛者だからありえないとしても)、強盗、殺人といった強行犯には一度も関わっていないところを見ると、アルカモーヌの“至高の悪”に抗いがたく惹かれつつも、同時に恐れを抱いて遠ざかっていたとも考えられるのです。

 それゆえに、ジュネもまた単独では、アルカモーヌの“体内”に入ってゆくことはできなかったのであり、「4人の男たち」の“仕事”を見とどける“背後からの視線”として、日常のジュネ(ディヴェールと抱き合って性交しているジュネ)そのものよりも一段高い位置から眺める“視線”となってはじめて、「至高の存在」の中心部を覗くことができた―――そう考えられると思います。

 吉本隆明は、宮沢賢治作品の・このような「無限遠からの作者の視線」について、「<如来>の一切種智の視線」だと言っていますが、それはむしろ、神でも「如来」でもなく、また一人の人間の視線でもないなにものかだという気がします。⇒:【吉本隆明】の宮沢賢治論――選ばれた者のユートピアか?(6)





 以上、吉本隆明の宮沢賢治論を扱ったあとなので、まったく無関係なジャン・ジュネを、日本の童話作家に引き寄せて読んでしまったかもしれません‥‥

 しかし、宮沢も、ジュネと同じく同性愛者であり、二人の感覚に共通する点があってもおかしくはありません。たとえば、ジュネは、アルカモーヌに関する幻視(幻想)を始めるにあたって、


「僕は見者と苦行者の活動を再開した。」


 と書いています。この「見者(ヴォワイヤン)」とは、アルチュール・ランボーがそうであったような・幻視する者の意味であれば、それは宮沢賢治に通じます。「苦行者」は、おそらくヨガ行者の意味であり、賢治も行なった座禅による瞑想に近いものを指します。⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 0.4.2〜 ⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 5.3.3




 ともあれ、今回はあくまでジャン・ジュネへの最初のアプローチ……とっかかりということで、これから少しずつ、この巨大でまた特異な作家の世界に切りこんで行けたらと思います。









ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: ユーラシア

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