ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.7.22


帰路での基調は、‘天上への飛翔’とは対極にある‘自我の深みへの下降’ではないかと思います。

. 春と修羅・初版本

08こヽはぐちやぐちやした青い湿地で
09もうせんごけも生えてゐる

と、「パート7」の最初に現れた「堰」のところの沼地を、作者は、皇帝ナポレオンの配下の・そのまた部下の騎兵の馬のように、

13泥に一尺ぐらゐ踏みこんで
14すぱすぱ渉つて〔…〕」

耕地のスロープを上がって行こうとします。

しかし、スカイラインの上の雨空は、激しく動きながら銀色に輝き、丘の線の向こうの「蒼鉛の労働」を案じさせます。

空からは、「すきとほる雨のつぶ」が、休みなく落ちていますし、

「赤いきれをかぶ」った「Miss Robin」──二人の少女は、「トツパースの雨の高みから」、降り落ちるように「まつすぐにいそでやつてくる」のです。

. 「小岩井農場」【清書稿】

「息たえだえに気圏のはてを
 祈ってのぼって行くものは
 いま私から 影を潜め」

という【清書稿】での加筆部分(第6綴)から認められるのは、かつて童話『よだかの星』☆に書いていたような:

☆(注) 童話『よだかの星』は、生前発表されたことはありませんでしたが、「山男の四月」「かしはばやしの夜」の各初期形と同じ用紙に書かれています。この用紙(10-20 草色罫)は、1918年に読んで聞かせられたという清六氏の証言(『兄のトランク』,ちくま文庫,p.251)のある「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」の用紙(10 20 (イ))より後と推定されているので、1919-20年頃かと思われます。ともかく、1921年の“家出上京”より前に書いていたのは確実と思われます。なお、『よだかの星』の原稿の題名は、後年の筆で『ぶとしぎ』に変更されています。

「夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。〔…〕よだかはのぼってのぼって行きました。」

という‘昇天’の衝動は、衰え、代って、自我の深層にある陥穽へ向かって、どこまでも堕ちて行こうとする衝動のほうを感じるのです。

「パート7」では、また、遠くの高みから空を急降下しながら、爆音を発する「ぶどしぎ」が、何疋も滑空していました:

. 春と修羅・初版本

90大きく口をあいてビール瓶のやうに鳴り
91灰いろの咽喉の粘膜に風をあて
92めざましく雨を飛んでゐる

99 (ぼとしぎのつめたい發動機は……)
100ぼとしぎはぶうぶう鳴り

131ぼとしぎどもは鳴らす鳴らす」

「ぶどしぎ」の「めざましく雨を飛」ぶ降下のもとでは、銃をかまえた「射手」の脅威も:

101いつたいなにを射たうといふのだ」

と言われるほど、色あせてしまいます。

もちろん、‘自我の深みへの下降’も、作者にとって決して容易なことではありません。

「パート3」では、

社会的生の覊束を抜け出そうとするように、ひとりで動き出してしまった老馬「ヘングスト」の傍で、

白いペンキを塗られた「蜂の函」──忘却の象徴が、その内部を覗かれることを拒むかのように、じっと冷たく光っていました:春と修羅・初版本「パート3」

「パート7」の老農夫は、スロープの湾曲に遮られて見えない・耕地の向こう側を、理由もなく恐れています:

49この爺さんはなにか向ふを畏れてゐる
50ひじやうに恐ろしくひどいことが
51そつちにあるとおもつてゐる

自我の暗い深淵に降りて行き、そこから何がしかのものを掬い取って来ようとすることは、

ばらばらに引き裂かれて《忘却》の淵に沈んだ身体のパーツを、拾い集めて縫い合わせることにほかなりません。

それは、ちょうど、あのギリシャの《オルフェウス伝説》が象徴的に説いているとおりなのです:

「オルフェウスは、毒蛇に咬まれて死んだ恋人エウリディケーを、冥界(死者の世界)から連れ戻そうとして、生きたまま冥界に下降した。

 オルフェウスは、特技の竪琴を演奏して冥王を陶酔させ、『後ろを振り返って見ない』ことを条件に、地上にエウリディケーを連れて帰ることを許可される。

 オルフェウスは、エウリディケーを後ろに引き連れて人界に向かう。」

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