04/14の日記

16:32
【BL週記】ジャン・コクトー『白書』―――神と愛の狭間で(5)

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 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【BL週記】ジャン・コクトー『白書』―――神と愛の狭間で(4)からのつづきです。



 おもに@のテクストを使用し、場合によってAで補います:

  @⇒ ジャン・コクトー,山上昌子・訳『白書』,1994,求龍堂.

  A⇒ ジャン・コクトー,江口清・訳「白書」, in:『書物の王国』第10巻『同性愛』,1999,国書刊行会,pp.33-59.






 【11】]神父,「H」



 「H」とは、人里離れた海岸で知り合い、夢のように幸福なひと夏を過ごしたのですが、知り合いの多いパリに戻ってからつづけようとした・その恋人関係は多難でした。

 まず、「H」は、(おそらく複数の)女と情交関係をもっていました。そのうちのひとつ、X夫人との関係を知った「私」に迫られ、「H」は、「女たちとは関係を断つ」と誓います。



「彼
〔=「H」〕はX夫人に別れの手紙を書いた。彼女は睡眠薬を一瓶のんで狂言自殺を図った。私たちは誰にも行先を知らせずに、田舎で3週間暮らした。2か月が過ぎた。私は幸福だった。」
山上昌子・訳『白書』,p.83.



 知り合って最初にT海岸で過ごした日々のように、顔見知りの人間から隔絶された“ふたりだけ”の環境に身を置けば、もとのように幸福な関係に戻れるにちがいない。――そう考えたコクトーの見込みは、とりあえず当たりました。「田舎」での3週間のあと、パリに戻ってからも、「H」との幸福は、しばらくつづきます。



 そうしたある日、コクトーは、ひさしぶりに教会へ行って、]神父に会う機会をもちます。]神父も、コクトーが来るのを待ちかねていたようでした。



「私はドアのところですぐ、告解に来たのではなく、ただ話したいのだとことわった。それに悲しいかな、いかなる御審判かは最初からわかっているのです、とも言った。

 『神父様、私を愛して下さいますか』と私は尋ねた。『愛しておりますとも』――『やっと私が幸福を感じているとわかれば嬉しくお思いでしょうか』――『大変嬉しいですね』――『では申しますが、私は幸福です。ただ、教会にも世間の人にも非難される類の幸福なのです。というのは、私を幸福にしてくれるのは友情で、友情とは私にとってはいかなる限界も持たないものだからです』神父は私を遮った。『良心の咎めに苦しんでいるようですね』――『神父様、私は教会がうまく立ち回るとか、ごまかしをするとか、そんな教会を侮辱するようなことは考えません。「過度の友情」という言い逃れの手は知っています。でも誰が騙されるでしょう。神が私を御覧です。この坂をどこまで下れば罪なのか、1センチ単位で測れるものでしょうか』」

山上昌子・訳『白書』,p.85.



 コクトーは、あなたは「過度の友情」にとらえられている、という言い方で寛容に教え諭されることを好まないと言っているのです。許されない罪だということはわかっている。そのことと、自分がいま至上の幸福を感じていることとの、どうにも折り合いのつかない矛盾、越えがたい深淵を前にして、いったいどうしたらよいのか? と問いかけ、しかも、答えが得られない――「告解」にならない――ことは分かっている、と言うのです。













 神父の反応は、ある意味でコクトーの予想どおりでした。



「『我が子よ』と神父は玄関で言った。『天国の私の場を危うくするだけのことなら大したことではありません。神の慈愛は人の想像を超えるものと信じておりますのでね。しかし、地上の私の場というものがあるのです。イエズス会の人たちが私の言動にずいぶん注意しているですよ』

 私たちは抱擁を交わして別れた。家に帰る時、塀越しに庭の香りがこぼれてくる道を辿りながら、私は、神の切り盛りは何と素晴らしいのだろうと考えた。愛を欠いている時には神の愛が与えられる。そして、すでに愛を得ている者には、心情の無駄な重複を避けて、神の愛は拒絶されるのだ。」

山上昌子・訳『白書』,p.85;江口清・訳,『書物の王国』第10巻,p.53.



 “あなたの《同性愛》の幸福を正面から肯定して、神父である自分が天国に入れなくなったとしても、そんなことは何でもない。それほど私はあなたのためを思っている。しかし、地上の教会での地位を失うわけにはいかないのだ。”――神父は、そう率直に言って、同意を拒否しました。

 コクトーが尊敬するだけのことはある・すばらしい聖職者――と言わなければなりません。それでもコクトーは、帰る道すがら、教会全体から愛を拒否されたような・そこはかとない悲しみを感じて沈みます。それは、敬虔で義(ただ)しい人たちのサークルから疎外された寂しさでした。






 






「ある朝、私は
〔「H」からの〕電報を受け取った。

 『心配無用。マルセルと旅。帰りは後日打電』

 私は啞然とした。前日には旅の話など何も出ていなかったのである。マルセルというのは友達の一人で、人を騙し討ちにするような男ではなかったが、大いに無分別なのはわかっていた。思いつきで急に旅行を決めたりして、同行する相手がどれほど体が弱いか、不意に出奔したりすればどれほど危険なことになり得るか、考えてもみなかったのだ。」

山上昌子・訳『白書』,pp.85-86.



 「私」が「H」の急な旅行にいだいた心配は、山上訳によれば、向う見ずな友人との無理な旅が、持病の結核を悪化させないかということであり、江口訳によれば、無分別なマルセルと、誘惑に「弱い」「H」との二人旅が、浮気旅行になってしまわないかということです。おそらく、コクトーの原文は、どちらにもとれる言い方なのでしょう。

 しかし、「私」の当初の心配がどちらであったとしても、まもなく後者を疑わなければならない事態が発生します。「ミスR」という女の友人が、「私」の家――父の館――におしかけて来て、いきなり「私」に向かって怒鳴り散らします。(「ミスR」は、原文でも「マドモアゼル」ではなく「ミス」になっていて、英米系の人を思わせます。)



「入ってきたミス・Rは、髪を振り乱し、すさまじい顔で叫んでいた。『マルセルが私たちからあの人を盗った! 何とかしなくちゃ! さあ! ぼんやり突っ立って、一体何しているんですか。何とかしてよ! 急いで! 仇を取ってちょうだい! ろくでなし!』彼女は身悶えして部屋を大股に歩き回り、洟
(はな)をかみ、落ちかかる髪をかき上げ、家具に引っ掛かって裂けた服の端をひきちぎった。」
山上昌子・訳『白書』,p.86.


 
 「私」はR嬢の言うことが、すぐには理解できませんでしたが、「不意に真相に思い至った」。R嬢は「H」の情婦のひとりで、しかも、「H」が「私」とマルセルに同性愛の二股をかけている――ということを知っている。R嬢の激怒が邪推でないとすれば、そうなのでした。

 しかし、「私」は、父がR嬢の大声を聞きつけて、「私」と「H」の関係を知ってしまうことを恐れたので、動揺を抑えて、自分と「H」「との間にあるのはただ友情だけだ」と言ってシラを切り、



「その狂ったような女を控えの間の方に押しやった。

 『何ですって』と彼女は声を限りにわめき続けた。『あなたはあの子が私に夢中で、毎晩私のところに来ているのを知らないっていうんですか。ヴェルサイユ★から出てきて、夜明け前にまた帰っていくんですよ! 私はものすごい手術も受けたんですから! お腹は疵
(きず)だらけ! そう、疵といえば、いいですか、あの人はその疵にキスして、そこに頬を押しつけて眠るのよ』

 この女の来訪で私がどれほどの不安に陥ったかは記すまでもない。」

山上昌子・訳『白書』,pp.86-87.

★「ヴェルサイユ」:「H」は、ヴェルサイユにある母親の家に住んでいる。






 






 「H」からは、マルセイユに到着し、地中海を渡ってチュニスに行くという電報が、つぎつぎと送られて来ました。そして、‥‥



 「H」がマルセルを伴って
「帰ってきた日はひどいことになった。Hは、悪ふざけをした子供のように叱られるものと思っていた。

 私はマルセルにHと二人だけにしてくれるように頼み、Hに真向からミス・Rのことを突きつけた。彼は否認した。私は言い募った。彼は否認した。私は邪険になった。彼は否認した。そしてついに、彼はすべてを認め、私は彼を、いやというほど殴りつけた。苦悩が私を酔わせていた。けだもののようになって私は殴った。彼の耳をつかんで、頭を壁に打ちつけた。その口の端から血が一筋流れた。一瞬にして酔いが醒めた。どっと涙が溢れ、私はこの哀れな傷ついた顔に接吻したいと思った。しかし、私がぶつかったのは青い閃光だけだった★。その上に瞼が痛そうに閉じた。

 私は部屋の隅にがっくりと膝をついた。こんな諍いをすれば精魂尽き果てる。人は操り人形のように糸が切れて壊れる。

 不意に、私は肩に手が置かれるのを感じた。顔を上げると、私の乱暴の犠牲者が私を見つめていた。彼は床にずり落ち、息を詰まらせて『ごめん、ごめんよ。ぼくは君の奴隷だ。好きなようにしてくれ』とうめきながら、私の指に、膝に接吻していた。」

山上昌子・訳『白書』,pp.87-90.

★「私がぶつかったのは青い閃光」:「H」が反撃に出て、コクトーにパンチを食らわしたのである。「瞼(まぶた)」は、もちろんコクトーのまぶた。



 殴り合いになってしまったわけですが、おかげで“男同士の仲直り”がしやすくなったかもしれません。しかし、これで万事解決したのでしょうか? 2度あることは3度ある。コクトーのほうでは、「H」に対する疑いの気持が、いよいよ大きくなってしまうのをどうすることもできません。「休戦」↓という言い方に、それが表れています。

 コクトーが疑い深すぎるのでしょうか? ふたりとも、T海岸で出会った時の“初心”に返って、たがいに信頼し合えば、何もかもうまくいくのでしょうか? そう思っていいかどうかは、読者にも出題された難問かもしれません。



「1か月の休戦となった。嵐の後の、疲れはてた甘美な休戦。私たちは水浸しになってかしいでいる、あのダリアの花に似ていた。Hは顔色が悪かった。すっかり蒼ざめて、ヴェルサイユから出てこられないこともよくあった。」

山上昌子・訳『白書』,p.90.













 「H」の顔色が悪いのは、持病の結核が悪化したためでしょうか? コクトーが最初に心配したように、マルセルとの無謀な旅行が「H」の身体の抵抗力を弱め、帰還後のコクトーとの暴力沙汰と軋轢が拍車をかけて、結核を進行させてしまったのでしょうか?

 もしそうだとしたら、コクトーはもっと反省して、「H」を労わってやるべきだったかもしれません。しかし、そうするにはほど遠い兆候が「H」には多すぎたのです。(顔色が悪くなった本当の原因は、次章で、2か月ほどたってから突然、明らかになります)

 「H」は、棒でつつけば、どこから蛇が跳び出すかわからない藪のようなものです。何が出てくるかわからない。彼には秘密が多すぎます。コクトーは、極度の猜疑と警戒心に苦しめられるかと思えば、他方で「H」に対する心配と甘美な愛情に溺れ、両極端のあいだを揺れ動く日々を送るのです。





【BL週記】ジャン・コクトー『白書』―――神と愛の狭間で(6) ―――につづく。   










ばいみ〜 ミ




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