04/17の日記

14:47
【BL週記】ジャン・コクトー『白書』―――神と愛の狭間で(6)

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『白書』の表紙絵と挿絵(ジャン・コクトー筆)       







 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【BL週記】ジャン・コクトー『白書』―――神と愛の狭間で(5)からのつづきです。



 おもに@のテクストを使用し、場合によってAで補います:

  @⇒ ジャン・コクトー,山上昌子・訳『白書』,1994,求龍堂.

  A⇒ ジャン・コクトー,江口清・訳「白書」, in:『書物の王国』第10巻『同性愛』,1999,国書刊行会,pp.33-59.






 【12】「H」と“3人目の女”



 コクトーが、「H」との「休戦」と呼ぶ期間になめた「拷問のような苦しみ」を、彼は書きたくないと告白しています。まるで人が変ったような狂った態度で過ごした期間を描くことは、「一種の羞恥心」が押しとどめるのです。



「愛は私を荒廃させる。
〔「H」との生活が――ギトン註〕平穏な時でも、私はこの平穏が失われはせぬかとびくびくし、その不安のせいで、喜びなど少しも味わうことができない。どんな些細な支障でも、それですべてがだめになる、最悪の事態を考えずにはいられない。ただちょっとよろめいただけなのに、もう私の足は水底に届かない。待つことは責苦である。手中のものを失う不安のゆえに、所有することもまた、責苦である。

 疑念で眠れぬ夜々は、縦横に歩き回り、床に横たわって、床がこのまま沈んで、永久に沈んでいってくれればいいのにと思って過ごした。

 私は自分の懸念を口にしない決心をしていた。それなのに、Hを前にすると途端に辛辣な言葉や質問を浴びせているのだった。彼は黙っていた。黙られると私は憤怒にかられるか涙にくれるかのどちらかだった。私を憎んでいるだろう、死ねばいいと思っているんだろう、と彼を責めた。答えても無駄で、翌日にはまた同じことの繰り返しだと、彼にはわかりすぎるほどよくわかっていたのである。

 それが9月のことだった。11月12日は私が一生忘れられない日である。」

山上昌子・訳『白書』,pp.90-91.



 11月12日、「H」との逢引きのために部屋を借りている・パリのいつものホテルへ行ってみると、ホテルの主人が困惑のていで、「私たち〔「H」と「私」〕の部屋に警察の手入れがあって、大きなスーツケース一つが押収され、Hも麻薬風俗取締班の警視と私服警官の乗った車で警視庁に連行された」と告げます。「H」は、取調べを受けた後、夜には釈放されて帰って来ますが、すでに麻薬中毒〔アヘンのようです――ギトン註〕になっていることを、コクトーに告白します。いや‥彼の「裏切り」は、それだけではありませんでした。







Henri Levy : Sarpedon






「彼は私を裏切って、あるロシア人の女と関係を持ち、この女が彼を麻薬づけにしていたのだ。」

山上昌子・訳『白書』,p.83.



 彼女は、警察の手入れがあることを知って、手持ちの「吸引用具と散薬」を「H」に預け、「H」は、「私」との逢引きのホテルに、それを隠したのです。ところが、「H」は、路上で拾った「チンピラ」の男と性交するためにホテルの部屋に連れこんだのが、その男は警察に雇われた情報屋だったので、薬物を密告され、警察が家宅捜索に来たのでした。



「こうして私は下劣な裏切りを二つ
〔ロシア女と「チンピラ」男〕一遍に知らされた。彼のすっかり稍気(しょげ)た様子に、私は怒るに怒れなくなった。〔…〕私は〔…〕どうか麻薬はやめてくれと懇願した。彼は、そうしたいのだがもう中毒が進みすぎていて後戻りはできないと答えた。

 翌日、ヴェルサイユ
〔「H」の自宅――ギトン註〕から電話があり、Hが喀血して、急遽B通りの療養所に運ばれたと知らされた。」
a.a.O.



 「H」の「顔色が悪」くなって「すっかり蒼ざめて」いたのは、旅行や「私」との諍いで持病が悪化したのではなく、薬物のせいでした。もちろん、薬物を常用すれば、結核も悪化するにきまっていますけれども。

 「私」が療養所の病室に入って行くと、



「彼はこちらに顔を向けるのが精一杯だった。
〔…〕打ち沈んだ目で、彼は透けて見えるような自分の両手をじっと見つめていた。〔…〕二人だけになると彼は言った。『ぼくの中には女と男がいた。女は君に従順だった。男のほうはこの従順さに反発していた。ぼくは好きでもないのに女たちを追い回した。ぼく自身を騙して、自分は自由なんだと納得するためにね。ぼくの中の自惚(うぬぼ)れた愚かな男が、ぼくたちの愛の敵だった。後悔してる。愛してるのは君だけだ。治ったら、その後は別人のようになるよ。素直に君の言う通りにする。そしてせっせと罪滅ぼしをするよ』」
山上昌子・訳『白書』,pp.93-94.



 ↑この一節を得ただけでも、苦労してここまで読んできた甲斐があるというものです。






 






 人間の性別は、単に生物学的なオス・メスの区別ではなく、社会的なものです。人は人間の社会に生れ落ちると、育児と教育によって「社会的性別」を刷り込まれます。この小説の最初に示されたフランス語の慣用表現にもあるように、男は「強い性」「支配する性」であり、女は「美しい性」「従う性」です。

 “社会的刷り込み”によって「H」の中に形成された男性の人格は、何者にも服従することなく、自由に生きることを至上とします。他方、「H」が「ぼくの中には女と男がい」ると告白した事情は、彼と同じくゲイであるコクトーにも当てはまります。

 しかし、コクトーの中の男性人格は、自由を求めるだけでなく、それ以上に責任を自覚し、社会に対して責任を果たそうとします。責任の対象は、コクトーと「H」からなる“カップル”という単位(ユニット)です。同性愛者という、社会的に公認されない単位であっても、いや‥そうであればなおさら、世間から非難されない行動をとらなければなりません。単位に責任を負うコクトーの男性人格は、“カップル”の相手を支配する必要があるのです。「H」の行動が信用できないこと、しばしばコクトーの眼を隠れて逸脱に走ることは、コクトーを疑心暗鬼にします。“カップル”の相手の行動を支配できなければ、“責任を果たす”という男性原理に反するからです。

 ただ、コクトーにしろ「H」にしろ、同性愛者の中の男性人格は、“正常な”異性愛者ほどには確固としていません。多分に無理な“社会的刷り込み”の結果だったりします。その・あやふやさを補って、通常の男性に劣らないことを示すためには、しばしば男性原理の表現は過剰になりがちです。「H」が、「好きでもない」女性関係を異常に多数持とうとしたこと、また、コクトーが、執拗なまでの猜疑心を持って苦しんだことは、そのためだったと説明できるでしょう。

 なお、現在の日本のゲイについてもしばしば指摘される特性:@カップルの相手に対する嫉妬心が異常に強く、しばしば暴力沙汰になる、A言うことが信用できない、噓を平気で言う、‥‥なども、同様に、男性人格のあやふやさを補償するための過剰反応として説明できます。@,Aのような特性が目立つのは、ゲイのなかでも一部の人びとですが、それにしても、生得的性格などではなく、社会的な圧力に対する、ねじれた反作用の結果なのです。

 以上はあくまでも試論です。みなさんは、どうお考えでしょうか?






 






 さて、「H」を結核療養所に見舞った夜、コクトーは、よく眠れませんでした。明け方に、浅い眠りの中で夢を見ました。「H」とふたりでサーカスを見ていると、サーカス会場は小さなレストランに変り、ピアノに向った歌手が、↓つぎのような奇妙なシャンソンを唄います:



「パリのサラダ菜
 パリをお散歩
 チコリ★さんまで いらっしゃる
 誓ってほんと
 パリのチコリさん」

山上昌子・訳『白書』,p.94.

★「チコリ」:チコリ―、和名キクヂシャ。西洋ではよく使われる葉野菜で、育て方によって、小さな白菜のようにも、フリルレタスのようにもなる。特有の苦みがある。



 コクトーが創作したナンセンスなシャンソンですが、山上訳の注釈によると、唄いこまれた野菜は、着飾った高級娼婦をイメージしているそうです。そして「野菜の水切り籠」には、「囚人護送車」の派生義があるので、監獄に連れて行かれる着飾った娼婦たち、というイメージです。

 ともかく、ナンセンスそのものの可笑しな夢を見たので、深刻な事態は起きないだろうとホッとした気持ちで結核療養所へ行ってみると、「H」は病室にはおらず、息を引き取って霊安所に安置されていました。



「何と静かなのか、かつて私が殴ったこの愛しい顔は!
〔…〕彼はもはや、母親も、女たちも、私も、誰も愛してはいないのだ。死者の気を惹くのは、ただ死のみなのだから。」
山上昌子・訳『白書』,p.95.







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