08/13の日記

07:20
【シベリア派兵史】派兵過程――田中大隊全滅とイワノフカ村襲撃

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イワノフカ村に立つ   
犠牲者追悼記念碑    






 こんにちは。(º.-)☆ノ











(2)1918年8月から1920年3月まで〔つづき〕




 《派兵》開始から 20年3月の《尼港事件》までのこの時期について、前回すでに概略をまとめましたが、ここでは 1919年中に起きた日本軍の住民虐殺事件、そして 20年はじめまでの戦闘の経過を追い、次回扱う《尼港事件》に至るいくつかの“すじ”を浮かび上がらせたいと思います。

 というのは、《尼港事件》は、それだけを切り離して視たのでは、事実認識も評価も大きく誤ることになると思うからです。

 《尼港事件》の事実関係は、現在も闇に包まれた部分が大きいのです。生存者が少ないことや、ロシア側の記録が少ないことを考えると、今後も闇の部分が具体的に解明されることはないのかもしれません。

 このような場合、私たちが私たちなりに客観的な認識をもつためには、できごとの時間的な流れや、同じ時期の他の事象との関連を重視することが有効だと思います。

 資料のない部分を想像で補うようなことは、できるだけ避けなければなりませんが、“流れ”を重視することによって、なにゆえにこのような悲惨な事件が生じたのか?‥‥という疑問に、ある程度の答えを見いだすことができると思います。また、資料が無いために不明な事実関係についても、単なる想像を超えた客観的な評価を下すことができるかもしれません。

 そこで重要なのは、事件の前年、1919年における《派兵》の過程、とくに日本軍と現地パルチザンとの戦闘の状況だと思います。日本軍とパルチザン、この2つの対立する勢力が、《尼港事件》の動因をなしていることはまちがえないからです。









 (i) パルチザン戦争





「シベリアに駐留した兵士たちを悩ませたのは、寒さと、食料や日用品の欠乏、それに、抵抗する非正規パルチザンの襲撃であった。
〔…〕

 第3師団に従軍して、ザバイカル州のチタに入った記者は、菓子の販売に殺到し、故郷への便りを書く紙すら足りない兵士たちの様子について記している。」

麻田雅文『シベリア出兵』,pp.95-96.



 食料・日用品の不足は、補給が不備なためですが、もともと日本軍はこれらの物資は“現地調達”を基本にしていました。“現地調達”とは、じっさいには多くの場合に無償の“徴発”であり、奪取でした。進んで“兵隊さん”に物資を差し出す従順な国民ばかりの内地ならいざしらず、同じことを海外の派遣地でやろうとすれば、必然的に強盗か詐欺になります。その状況は、黒島伝二の小説に活写されています。⇒:【シベリア派兵史】派兵と住民と若者たち


 “物資調達”を、日本軍の手先として遂行していたのは、軍とともにやって来た日本民間人でした:





「親爺のペーターは、御用商人の話に容易に応じようとはしなかった。

   
〔…〕

 商人は、ペーターが持っている二台の橇を聯隊の用に使おうとしているのであった。金はいくらでも出す、そう彼は持ちかけた。

 ペーターは、日本軍に好意を持っていなかった。のみならず、憎悪と反感とを抱いていた。
〔…〕畑は荒された。いつ自分達の傍で戦争をして、流れだまがとんで来るかしれなかった。彼は用事もないのに、わざわざシベリアへやって来た日本人を呪っていた。

 商人は、聯隊からの命令で、百姓の家へ用たしに行くたびに、彼等が抱いている日本人への反感を、些細な行為の上にも見てとった。
〔…〕彼は戦争をすることなどは全然秘密にしていた。

   
〔…〕

 日本人への反感と、彼
〔日本人の「御用商人」―――ギトン注〕の腕と金とが行くさきざきで闘争をした。そして彼の腕と金はいつも相手をまるめこんだ。」
黒島伝治『』(1927年)より。







 さらに、日本軍人の間の性病の蔓延も深刻でした。主に梅毒ですが、性病は“不名誉”とされたために申告しない将兵も多く、統計上はわずかで、実数は不明です。黒島伝二によれば、頻繁に売娼を利用して性病にかかったのは小隊長以上で、一般の兵士は性病にかかるカネの余裕もなかったと言います。

 統計的に性病よりはるかに多い病名は、「急性胃腸炎」ほか「栄養器病」で
(麻田,p.239)、これは大部分が栄養失調によるものと考えられます。のちの日中戦争では、多くの兵士が「胃腸炎」という病名の栄養失調で死亡しています(藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』,2001,青木書店)。補給の不足が、派遣された兵士たちの状況を苛酷なものにしていました。










ザバイカル州チタ







 《シベリア派兵》における戦闘は、“パルチザン戦闘”という、日本軍がかつて経験したことのないものでした。日清、日露、第1次大戦、みな正規軍どうしの戦闘でした。しかし、シベリアでは正規軍との衝突はほとんどなく、ふだんは住民の間に隠れていて、隙を見ては奇襲攻撃をかけて来、損害を与えるとすぐまた隠れてしまう神出鬼没のパルチザンが相手でした。

 





「外相だった後藤新平は、
〔…〕財界のシベリア進出を促すため」に、財界のリーダーを集めて『委員会』を組織させ、「シベリア出兵は『単に討伐侵略を事とするものとは全然其の性質を異にする』『新しき救世軍』であると説明した。〔…〕

 しかし多くのロシア人にとって、日本軍の到来は災厄にすぎなかった。

 1919年に入ると、日本軍と反革命派のコサックによる、パルチザン討伐の共同作戦が本格化する。日本軍が上陸した 1918年8月から、革命家たちは正面から闘うことを避け、各地に潜伏しながら闘う道を選んだ。彼らをまとめてパルチザンと呼ぶ。外国軍による占領に憤った住民たちも協力し、シベリアの被占領地域では、ひそかにパルチザンの根拠地の建設が進められた。」

麻田,pp.96-97.



 パルチザンは、装備と兵力では、日本軍ほか各国駐留軍に劣っていましたが、住民を味方にしており、シベリアの極寒の気候風土に慣れており、しかも現地の地形を熟知していました。




「パルチザンは、
〔…〕日本軍や外国軍が占領する都市部や、警備の手厚いシベリア鉄道沿線からは離れた森や村落に潜んで、ゲリラ戦を挑んだ。そこで、パルチザンの根拠地と見られた農村を日本軍が襲撃し、その報復としてパルチザンが日本軍を襲撃する、負の連鎖が生まれた。」
麻田,p.97.




 こうした東シベリアの状況をひとことで言えば、日本軍は鉄道沿線の“点と線”を支配しているだけ。それ以外の広大な“面”はすべてパルチザンの支配地だったと言ってもよいのです。もちろん、すべての村落がパルチザンと意志を通じているわけではありませんが、心情的には、すべての住民が日本軍を快く思わず、日本軍の報復を恐れながらもパルチザンに同情的だったと思われるのです。

 日本軍の疑い深い眼で見れば、すべての村が、パルチザンの根拠地に見えたことでしょう。





「なかでも、パルチザンと日本軍の戦闘がもっとも激しかったのが、シベリア東部のアムール州である。たとえば、アムール州マザノーヴォ村では、1919年1月10日に日本軍守備隊がパルチザンに襲撃され、壊滅した。応援の日本軍は村を奪還した。その際、マザーノヴォ村を襲撃したパルチザンの根拠地はソハチノ村であると見当をつけ、『膺懲の為過激派に関係せし同村の民家を焼夷』した。パルチザンに関係している村をこらしめようと、民家を焼いたのである
(『西伯利出兵史』上巻)
麻田,p.97.




 ↑ここで資料とされている『西伯利出兵史』は参謀本部が編集した記録ですが、部隊が襲撃した「ソハチノ」村がパルチザンの根拠地だという「見当」も、焼いた民家が「過激派に関係」したという想定も、「膺懲」に逸り、“桃太郎の鬼退治”の空想に凝り固まった現地の部隊が、勝手に想像したことでしかありません。この種の作戦は、記録に残されなかったものを含めて《派兵》中に多数行われたでしょうけれども、その大部分は無垢の住民に対する焼打ちと虐殺だったと見なければなりません。

 というのは、前線の司令官が、誰が「過激派」で誰が「非過激派」か区別できないから、村ごと「焼打シテ殲滅スベシ」と布告している資料があるからです:



「最近州内各地ニ於テ過激派赤衛団ハ
〔…〕向背常ナク我軍隊ニシテ其何レガ過激派ニシテ何レガ非過激派ナルカノ識別ニ苦マシメ秩序回復ヲ不可能ナラシメツヽアル〔…〕

 一、各村落ニ於テ過激派赤衛団ヲ発見シタル時ハ広狭ト人口ノ多寡ニ拘ラズ之ヲ焼打シテ殲滅スベシ」

歩兵第12旅団長山田少将の告示文:原暉之『シベリア出兵――革命と干渉』,p.475.



 そして、上の「焼打シテ殲滅」が、村をまるごと焼打ちして、村民を「過激派」か否かの区別なく殺戮するという意味であることは、

 沿海州・アムール州担当の第12師団長大井成元が、《イワノフカ村事件》のあと(4月10日)各部隊に与えた↓つぎの「注意」からも裏付けられます:

 

「たとえ武装する『過激派』でも、将校の許可なく殺戮してはならない。人家はやむをえない場合を除いて、絶対に焼いてはならない。『過激派』すなわちボリシェヴィキは『敵』でも、彼らの徴兵された農民などは『第二の敵』である。
〔…〕(『西伯利出兵史』上巻)

 こうした訓示に、どこまで効果があったのかは疑わしい。」

麻田,p.102.



 この訓示は、前線部隊の無差別な殺戮と焼打ちのひどさに、師団司令部も放置しておくことができなくなったことを物語っています。




「ソ連の歴史家はアムール州内で 1919年3月に焼討ちを蒙った村落として、クルーグラヤ、ラズリフカ、チェルノフスカヤ、クラースヌイ・ヤール、パーヴロフカ、アンドレーエフカ、ヴァシリエフカ、イヴァノフカの各村、ロジェストヴェンスカヤ郷のすべての村を挙げている。」

原,p.475.






 
   バイカル湖とシベリア鉄道





 《派兵》軍にとって“パルチザン戦争”のやっかいな点は、「秩序正しい」反革命の「ロシア白軍」だと思っていた部隊が、いきなりパルチザンになって日本軍を襲撃したり、逆に、日本軍を悩ませていたパルチザン部隊が、急に反革命軍に変って日本軍の行動を支援したりするのは、日常茶飯事だったことです。じっさい、《10月革命》後の内戦の全過程において、パルチザンの多くは赤軍と反革命政権の中間にいて、情勢次第ではどちらにでも寝返る状態でした。


 1920年3月に、前線の一等鍛工長が書いた『シベリ便り』には、↓つぎのようにあります
(『青森県史・資料編・近現代3』)


「若干の秩序あると見た露軍隊は直ぐに又過激化して我の敵になり、過激派と目されて居たものが今度は我が軍に和して共同動作を取ったり千変万化である。」

麻田,p.102.




 日本軍を悩ませたパルチザンの行動は、襲撃だけではありませんでした。むしろ、パルチザンは、直接の戦闘を避けて、鉄道や電信施設を破壊し、日本軍の補給・連絡手段に打撃を与えると、すぐにまた引き揚げてしまうので、捕捉できないことが多かったのです。


















 (ii) イワノフカ村の虐殺





「日本軍は、ウラジオストクからハルビンを経てチタへと至る中東鉄道とシベリア鉄道
〔支線―――ギトン注〕沿いに、兵力を重点的に配置していた。これに対し、沿海州を北上して、アムール川を横断し、ザバイカル州へと至るシベリア鉄道本線(ウスリー線とアムール線)については、その価値を低く見ていた。そのため、第12師団のみで、アムール州と沿海州の広大な領域を担当することになった。

 さらに、第12師団は原内閣の減兵に伴い
〔…〕兵力が半減していた。」
麻田,p.99.



 パルチザンは、地の利を得ていますから、広大なシベリア平原を縦横に移動し、警備兵力の手薄な場所に集結して、虚を突いてきます。とくにアムール州(シベリア鉄道本線沿い)は、少数の兵力で広大な地域を守備しなければなりませんから、日本軍はどうしても隙を突かれることになります。ところが、第12師団は、積極的に「過激派」を「討伐」する方針に出ていたために、前線部隊は、周囲にパルチザンの大軍が潜んでいることも知らずに深追いし、逆に罠にはまって、掃討に行った部隊が全滅することもありました:




「その代表例が田中大隊の全滅である。
〔…〕

 事件は、アムール州を横断するシベリア鉄道のユフタ駅付近で、パルチザンを討伐中に起こった。

 まず
〔ギトン注―――1919年〕2月25日の夕方に、香田〔…〕少尉の指揮する小隊が偵察に送り込まれる。少数の敵が見えたので、ある村に突入したが、罠だった。村に潜んでいた大軍に包囲されて、44名が戦死、4名が負傷して全滅した。香田小隊の救援に向かった大隊の主力は、翌朝に包囲され、負傷して自刃した田中少佐を含め 150名が戦死した。

 その翌日、田中大隊の捜索に向かっていた西川大尉の率いる中隊と、森山中尉の小隊も包囲されて、107名が戦死、負傷者 5名を出した。
〔…〕応援にかけつけた部隊が次々に包囲殲滅される、負の連鎖だった。」
麻田,p.98.



 他国の領土に無断で踏み込んでいるのに、「膺懲」「討伐」などという独善的な名分を掲げること自体、そもそもどうかしているのです。アメリカはじめ諸国の派遣軍は“内政不干渉”をたてまえにしていましたから、日本軍のように自ら打って出て「過激派」を「討伐」するなどという行動はとりませんでした。“革命干渉”をするにしても、ロシアの反革命「白軍」や反革命政権の行動を支援するのが限度だったのです。その限度を越えて、“桃太郎の鬼退治”よろしく、自ら他国の内戦の一方の側になって戦闘を展開している日本軍は、諸外国には“狂った軍隊”にしか見えなかったでしょう。

 しかし、いま、ことの理非を度外視しても、「膺懲」「討伐」ということが空想でなく言えるのは、「討伐」する側が圧倒的な権力を保持している場合に限ります。敵味方が実力の優劣を競い合っている戦場で、「膺懲」「討伐」を掲げることは、無謀な“戦術なき突進”を正当化することにしかなりません。それ自体が、住民を巻き添えにしつつ敢行される自殺行為なのです。

 師団司令部の積極「討伐」の方針が、前線部隊の損害を拡大させたことは明らかでしたが、大井師団長は、この“全滅事件”の後で元老山県に送った手紙の中で、「兵は力至って薄弱」などとこぼしています。敗北の原因を、“兵隊が弱いからだ”としか考えることができず、そこからいかなる教訓も汲み取ることができない日本陸軍の致命的な体質が、ここにも現れています。

 《シベリア派兵》全過程を通じて、日本軍司令部は戦術の誤りに、けっして気づくことはありませんでした。そのことが、こののち日中戦争から敗戦に至るまで、日本軍兵士に多大な犠牲をもたらすこととなったのです。









イワノフカ村










 それはともかく、この事件から何らの教訓も得ようとしなかった日本の政府と軍部のもとで、第12師団は“名誉の回復”にやっきになり、パルチザンと住民の区別なく敵視して掃討する方向へ向います:




「原内閣はパルチザンを討伐する方針を変えなかった。

 ひとり、内田外相
〔派兵慎重論者―――ギトン注〕はこのような方針に異議を唱え、討伐はなるべくロシアの反革命軍に任せるよう提案書を書いたが、田中陸相に見せただけで、閣議への提出を控えた。〔…〕

 田中大隊の全滅後、第12師団は名誉回復のため、師団をあげた『大討伐』に乗り出す。

 日本軍は、パルチザンと住民を明確に区別できず、住民すべてを敵視しがちとなっていた。そのため『大討伐』は、パルチザンではない住民たちにとっても苛酷なものとなる。」

麻田,p.100.



「かくて『村落焼棄』を実施して構わぬとの方針が打ち出された。
〔ギトン注―――1919年〕2月中旬の頃、歩兵第12旅団長山田四郎少将は『師団長ノ指令ニ基キ』大要次のようなビラを武市〔アムール州都ブラゴヴェシチェンスク―――ギトン注〕付近に散布させた。

 『第一 
〔…〕今後村落中ノ人民ニシテ猥リニ日露軍兵ニ敵対スルモノアルトキハ日露軍ハ容赦ナク該村人民ノ過激派軍ニ加担スルモノト認メ其村落ヲ焼棄スベシ』」
原暉之『シベリア出兵――革命と干渉』,1989,筑摩書房,pp.474-475.



「3月22日、日本軍による大規模な『討伐』が行われた。この日『討伐』されたのは、
〔ギトン注―――アムール州都〕ブラゴヴェシチェンスク近郊のアムール州イワノフカ村である。日本軍は女性や子どもらを含む村民を襲撃した。」

 
翌日には「アムール川対岸の中国領を守備する黒河守備隊(第7師団)も」イワノフカ村に向かい、「『23日午前「イワノフカ」村を包囲し、過激派27名を射殺し、附近の敵を全く掃蕩』した(第7師団参謀部『戦時旬報』)

「2日続けて、イワノフカ村周辺は容赦なく『討伐』された。ここまで徹底したのは、見せしめである。」

麻田,p.101.






 派遣軍政務部の調査団↓の報告によると、イワノフカ村は、州都近郊の人口 8000人を越える大村で、
「州内其比ヲ見ナイ」豊かな村であり、随所で「アメリカ式ノ農具」を見かけたと言います。




「事件のほぼ半年後、浦鹽派遣軍政務部は民間人
〔…〕の調査団をアムール州に特派し、事件を調査させている。」

 その報告書は、
「村長はじめ村民からの聴き取りを含む点で貴重な史料である。〔…〕

 『本村ガ日本軍ニ包囲サレタノハ 3月22日午前10時デアル 其日村民ハ平和ニ家業ヲ仕テ居タ 
〔…〕 間モナク日本兵ト「コサック」兵トガ現ワレ枯草ヲ軒下ニ積ミ石油ヲ注ギ放火シ初メタ 〔…〕 男子ハ多ク殺サレ或ハ捕ヘラレ或者等ハ一列ニ列ベラレテ一斉射撃ノ下ニ斃レタ 絶命セザルモノ等ハ一々銃剣テ刺シ殺サレタ 最モ残酷ナノハ廿五名ノ村民ガ一棟ノ物置小屋ニ押シ込メラレ外カラ火ヲ放タレテ生キナガラ焼ケ死ンダ事デアル 〔…〕

 『殺サレタ者ノ内ニハ過激派デ無イ者ガ多ク焼カレタ家ハ全然過激派ノ家デハナイ 寧ロ反過激派トモ称スベキ資産家許リ』だったと」
報告書は記している。

「『此ノ事アッテ以来村民ノ大部分ハ極度ニ日本軍ヲ恨ンダ ソシテ自然過激派ニ変ズルモノモ少ナクナカッタ』」

原,pp.476-477.



 ところが‥‥

「『討伐』の直後、第12師団・歩兵第12旅団長
〔…〕は、イワノフカ村が『過激派』の『巣窟』であったとの宣言を出した。日本軍に敵対しようとする村落は、ことごとくイワノフカ村と同じ運命にあうことを覚悟せよ、と脅している。」
麻田,p.101.





 犠牲者(村民の死亡者)数については、アムール州都ブラゴヴェシチェンスクの新聞『アムールスカヤ・プラウダ』の編集者が翌20年にまとめた『赤いゴルゴタ――殉教者列伝』に、犠牲者 291名の氏名が記載されています
(原,pp.476-477)

 他方、1924年になってから日本陸軍が正式に認めた犠牲者数は、23日に 100名、翌日に 10名にすぎません。しかし、この数字は『戦時旬報』の数字と合いません。↑前記の派遣軍政務部派遣の調査団報告書には、
「殺サレタ者ガ当村ニ籍ノアル者ノミデ 216名」と記されています。陸軍が過小に述べていることは明らかでしょう。



「いずれにせよ、イワノフカ村の『討伐』は、村民を巻き込んだ大規模なものであった。現在、イワノフカ村には、この事件の犠牲者と、日本人のシベリア抑留者をともに慰める記念碑が建立されている。」

麻田,p.102.


 【参考】⇒:『ロシアの声』2012.8.12.イワノフカ村に日本から追悼訪問団

 【参考】⇒:『Amur-Info』2012.8.27.日本からイワノフカ村追悼訪問団[ロシア語]









 (iii) 国民には、どう知らされたか?




 さて、以上に述べたシベリアでの戦闘状況―――日本軍による「討伐」と日本軍「討伐」部隊の全滅、「討伐」部隊による報復的な村民の殺戮‥、といった事態は、日本国内では、どのように報道されていたのでしょうか?

 《シベリア派兵》全過程を通じて、おおむね言えることは、日本側に犠牲が出た場合には、日本側の犠牲だけが粉飾して伝えられ、ロシア側の犠牲についてはほとんど伝えられない。ロシア側の住民・非戦闘員に対する殺戮は、厳重に秘密にされたと言ってよいかと思います。




 まず、《田中大隊全滅事件》については、「忠勇美談」として内地に伝えられたようです。大正天皇は、参謀次長が上奏する事件の経緯を、熱心に聴き取っていたと言います
(麻田,pp.99-100)。天皇に上奏があったことは、おそらく新聞報道されているでしょう。内容について、どの程度国民に知らされたかは不明ですが。

 そのすぐ後で、3月20日、衆議院で、「憲政会」の議員が「討伐」の行き過ぎについて政府を追求します:



「『強て過激派の如き者を討伐し、或は又過激派に非ざる者も過激派として、強て討伐して居ると云うことが今日の実際であります。
〔…〕哥薩克(コサック)に非ざる者は、総て過激派の如く解釈を致して居るのである。』」
麻田,pp.100-101.





 この議員は、今日から見ても重要な点を指摘したと言えますが、これに対して与党「民政党」の議員から、「明確な証拠を示せ」と激しく迫られ、「憲政会」の議員は発言の撤回に追い込まれています。

 発言の根拠資料を示せなかったことから推測しますと、少なくとも「討伐」の実態までは、日本国内では報道されていなかったと思われます。議員は、派遣軍の兵士や現地の民間人から、秘かに伝わってくる噂を聞いて、実態を憶測したのではないでしょうか。

 帝国議会ですら、発言の撤回に追い込まれる状況ですから、「討伐」の具体的な状況を新聞などが報道することは、とてもできなかったと考えられます。








 
アムール川    









 ちなみに、《派兵》開始にあたって、政府は厳重な報道管制を布くことを忘れていません。18年8月3日の「出兵宣言」を目前にした7月30日、内務省は、出兵反対論を展開していた『大阪朝日新聞』を発売禁止にするとともに、各新聞の出兵関係記事を差し止めています。

 8月25日、関西の新聞各社が「言論擁護内閣弾劾大会」を開いた翌日、大阪府警察部が『大阪朝日』を弾圧した《白虹事件》が起き、社長、編集局長ほか幹部が辞職を余儀なくされました。『中央公論』8月号も、事前検閲で、東京帝大教授・吉野作造以外の出兵関係論文はすべて削られ、吉野論文も伏字だらけにされています。
(麻田,p.66)

 《派兵》開始後に、民間の派兵反対論が息をひそめ、異常な膨張論、侵略論ばかりが一世を風靡したのは、政府による言論弾圧の効果だったと言うことができます。




 このような状況でしたから、《イワノフカ村事件》は、国内では全く報道されなかったのではないかと思います。帝国議会でも、とりあげる勇気のある議員はいなかったようです。

 わずかに、日本軍の完全撤兵も近づいた 1924年になって、「軍備縮小同志会」という平和団体が、陸軍にイワノフカ村の死者数について照会し、陸軍がこれに回答しています。2日間に 110名という過小な虚偽回答は、↑(ii) で紹介したとおりです。










 (iv) “撤兵のための増兵”




 前回、コルチャーク政権のところで述べたように、1919年後半になると内乱の情勢は急転回し、ボルシェヴィキ赤軍は、コルチャーク軍を押し返して、またたくまに反革命政権の首都オムスクを占領します。

 白軍と言っても大部分はパルチザンであり、どちらか優勢なほうに付こうとしていつも様子をうかがっているのですから、いったん赤軍が勢いを持つと、行く先々の“敵”が赤軍に寝返ってゆきます。赤軍は、東へ進めば進むほど、兵士の数も、戦利品の戦車・重火器も膨れ上がって行きました。

 他方、《チェコ軍団》も、このころになると、すでに独立を達成した祖国へ早く帰還したい一心でした。フランスの派遣軍は、まだしばらく《軍団》をシベリアにとどめて、反革命政権の警備に利用したい意向だったのですが、19年9月には《チェコ軍団》は列国軍に反旗を翻して、シベリア撤退を宣言します。そして、20年1月には、護衛していたコルチャークを逆に逮捕して、赤軍に引き渡してしまいます。これも、前回述べたとおりです。

 こうして、1920年初めには、内乱の情勢は、大きく赤軍有利に展開し、各国は、反革命政権の支援をあきらめて、続々と撤退を進めてゆくことになるのです。

 20年1月にアメリカ政府から撤兵の通告を受けると、日本政府部内でも撤兵が議題にならざるをえませんでした。要は、“いかにして、しりぞくか”です。もはや、客観的に見れば撤退以外に選択肢がない状況でしたが、“退くに退けない”状況を、どうしたら打開して退くことができるのか?w

 いきなり“負けいくさだ。戻って来い”などと言ったら、前線の将兵の不満は爆発するでしょう。いったい何のために、極寒の風土に堪えて、やっかいなパルチザンを相手に我慢してきたのかわからない、という声が起きるのは必至です。内地の国民も、順調に派兵が進んでいると思わされてきたのですから、“あきらめて撤退する”などと聞いたら、何が起きるか分かりません。民本主義の出発点になった《日比谷焼打ち事件》――ポーツマス講和反対の騒乱(⇒:【シベリア派兵史】日露戦争から満州事変へ(1))を、原首相は忘れていなかったはずです。

 日本の軍民のこのような体質は、諸外国(中国、ロシアも含めて)には無いことかもしれません。情勢を客観的に見て合理的な判断を下す能力など、将校も兵士も持ち合わせてはいないのです。それが、日本の軍隊が諸外国の軍隊と異なる点でもあります。それというのも、日本では明治以来、将校の兵学校教育でも、徴兵された兵士の兵営教育でも、そうした合理的思考力を奪い去ること―――近代的個人の思考を捨てて天皇に絶対服従すること―――にすべてが向けられていたのですから、この体質は必然の結果だったのです。
(藤原彰『餓死した英霊』参照)

 そこで、原敬が考え出したのは、“大規模な撤退と小規模な増派を同時進行させる”という方法でした。まず、内地から援軍を少し送る。送ったら、現地の部隊に「ご苦労さまでした」と言って、より多くの兵力を引き揚げさせる。現地で兵力が減ったのに気づいて不満が出かかるころ、また援軍を少し送る。そして、より多くの兵員を引き揚げさせる‥‥その繰り返しで、味方をだましだまししながら、現地の兵員を減らしてゆくことをもくろんだのです。

 そして、2月3日の閣議で、原首相と田中陸相は、チェコ軍団の救出が完了次第、シベリアから撤兵する方針を閣僚に告げますが、その際、撤兵方針は「絶対秘密」にするよう閣僚たちに注意しています。陸軍部内・参謀本部に撤兵方針が知れると、強力な抵抗が起きると予想されたためでした。

















 しかも、原自身、この段階で完全な撤兵を決意したわけではありませんでした。



「アメリカの撤兵を知らされた 1920年1月9日、原首相は田中陸相だけに、率直に今後の戦略を語った。

 
〔…〕よい機会があったら、『居留民を集めて奇麗に撤兵し』、ウラジオストク、さらに中国と一緒に中東鉄道を守備するだけにして、この局面を打開しよう。もし『過激派』が攻撃するか、共産主義の宣伝をしてきたら反撃して、適当な土地を占領しよう。占領後はここに『露国相当の政府』すなわち傀儡政権を立てて撤退するか、領土とするかはどちらでもよい。

     
〔…〕

 原内閣は、
〔…〕出兵の範囲を大幅に縮小し、沿海州ならびに中東鉄道沿線に軍を駐留し続けることを、3月2日に正式に閣議決定した。これらの地域に『過激派』の影響が及ぶのは、『自衛上黙視し難き』という理由である。日本が自衛したいのは、『帝国と一衣帯水』のウラジオストク、『接壌地』の朝鮮、北満州である。

 こうしてシベリア出兵の大義名分は、チェコ軍団の救出から、日本の『自衛』に変更された。3月31日に政府は同じ趣旨の声明を出し、出兵を続けることを国際社会へ宣言した。

 
〔…〕『自衛』への大義名分の変更は、国内のみならず英米の新聞でも批判的に報じられた。」
麻田,pp.132-135.




 原が20年1月段階で田中陸相に語っていた「『過激派』が攻撃」してきたら「反撃して、適当な土地を占領」したいという希望は、“膨張”を諦めきれない胸の内を吐露したものと言えるでしょう。原自身の心情も、“領土の膨張”に片足を置いた矛盾したものだったことがわかります。

 それでも、3月末の閣議決定と出兵継続宣言は、「沿海州」等に「駐留」を続けるというだけで、内政に介入したり、パルチザンや赤軍を掃討して、この地域を支配するというものではありませんでした。原自身は、@内政不干渉、A「過激派」との戦闘は回避する、という方針を、追って現地の派遣軍司令官に内訓する心づもりだったようです。
(麻田,p.140)

 ところが、現地の派遣軍は、機会をとらえて「反撃して、適当な土地を占領」するという部分を、より強く望んでいました。赤軍のオムスク制圧の勢いは、シベリア東部にも次第に及んできました。ウラジオストクなど沿海州でも、アムール州でも、北満州でも、パルチザンの勢力が増して、反革命政権が次々に倒れてゆくのを、日本軍は手をこまねいて見ているわけにいかない‥‥という思いが、派遣軍の中で膨らんできたのです。

 大井ウラジオ派遣軍司令官――(前回説明したように、「ウラジオ」は目くらましの呼称で、事実はシベリア派遣軍全体の司令官)――は、アメリカ軍が撤退したら、
「大いに過激派を叩いて摩擦の根源を一掃せねばならぬと意を決していた。」のちに書いた回想録の中で、そう語っています。(麻田,pp.138-139)

 アメリカ軍がいる間は、“過激派”――赤軍とパルチザン――を自由に攻撃できなかったので、アメリカ軍がいなくなったら、彼らを制圧して日本軍の占領地支配を確立しよう、ということです。そして、20年4月1日、アメリカ軍が撤兵を完了すると、沿海州の日本軍は、武力で鉄道沿線と都市部を制圧し、パルチザンやロシア艦船を武装解除します。

 この武力制圧は、ウラジオストクの日本軍が、たまたま聞いた銃声を、パルチザンの攻撃と勘違いしたことがきっかけで全・沿海州規模の戦闘行動となったものです。しかし、諸外国の派遣軍もチェコ軍団もいなくなって、日本軍単独となったいま、日本軍は、いよいよ内乱に介入してシベリアを半植民地にしようとしている―――という推測を、パルチザンにも住民にも、この戦闘は、強く印象づけることになったと思われます。

 そして、前年の《イワノフカ村の虐殺》は、日本では機密とされましたが、シベリア現地では公然たる事実です。アムール州都の新聞が事件を記録した本を出版したのは、 州ソヴィエトのもとで秩序が回復しはじめた 1920年ですが
(原,p.476)、それ以前から噂は広がっていたはずです。

 このような状況では、かりに現地の日本軍部隊が、上から指示された“内政不干渉”のたてまえを忠実に守ったとしても、パルチザンはもちろん、ロシア人住民からも市政当局者からも信用されないでしょう。



 じっさいのところ、前線の日本軍将兵の立場は、どうだったのでしょうか?‥原内閣の“撤兵と増派を同時進行させる”という方針は、前線に混乱を持ち込まなかったでしょうか?

 一方では、派遣軍司令部は、アメリカ軍の撤退を奇貨として「大いに過激派を叩」いて諸悪の根源を一掃しよう……などと考えており、その意向は、米軍撤退以前から、さまざまな形で前線にも伝わってくるでしょう。しかし他方で、そのあいまを縫うように、撤兵指令や不干渉のたてまえが方針として伝えられて来ます。いったい、増派・強行なのか?‥撤兵・内政不干渉なのか?‥現地の日本軍下士官の頭の中は、上から伝えられて来る矛盾した方針のあいだで、混乱したのではないでしょうか?



 1920年3月、アムール州最北端、アムール河口の《ニコライェフスク》で、日本・ロシア双方の軍民に多大な犠牲者を出した《尼港事件》は、こうした状況のなかで起きたのでした。










ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: 日本近現代史

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