10/25の日記

08:42
【シベリア派兵史】派兵と住民と若者たち

---------------
.




  
ウラジオストック     










 こんにちは。(º.-)☆ノ






(3)


 《シベリア派兵》―――日本史の事件としては通常、「シベリア出兵」と呼ばれます。英語では、Siberian Intervenion シベリア干渉。



 本格的に派兵が開始されたのは1918年夏でしたが、日本軍は、それ以前からウラジオストックに軍艦を派遣し上陸していました。

 派兵の規模は、日本が兵力7万2400人(北サハリン進駐を除く。細谷,pp.304-305;原,p.424)。日本以外は、アメリカ7950人、カナダ4192人、中国2000人、イギリス、フランス、イタリア各1500人以下 原,p.372.―――の小規模の派遣。

 したがって、シベリア派兵は、圧倒的に日本軍を中心とする軍事行動であったのです。




細谷千博『シベリア出兵の史的研究』,2005[原1955],岩波現代文庫.

原暉之『シベリア出兵』,1989,筑摩書房.            

麻田雅文『シベリア出兵』,2016,中公新書.           






 《派兵》の誘因

 @第1次大戦の連合国、とくに英仏の要請。ロシア帝国の倒壊による空白から、東部戦線を再構築するため。したがって、第1次大戦の終結(1918.11.)により理由は無くなる。

 A日本国内の“出兵論”。その動機は、日清戦争以来の日本の膨張主義。

 Bシベリアのチェコ・スロヴァキア軍団。白軍と非ボルシェヴィキ勢力:セミョーノフ、ホルヴァート、デルペル。ただし、後者は、日本が派兵を正当化するために利用した口実‥‥そもそも、派兵の“ために”(!) 日本軍が利益誘導して“決起”させた面がある。細谷,pp.90-117.

  1920.4.6.成立したシベリアの局地政権『極東共和国』は、日本軍に対して撤退を要求した。原, pp.544, 566f.








 《派兵》の過程

 @ 派兵の前蹤 1918.1-8.

 1917.11.24.米軍艦ブルックリン、ウラジオストック入港、臨時政府(自由主義・エスエル派)要人と接触。原, pp.151-152.
 1917.11.ウラジオストックで居留日本陸軍軍人による武装自警団を組織、ブラゴヴェシチェンスク(アムール州州都)でも。原, pp.152-154.
 1918.1月初め、イギリス軍艦、1.12.,18.日本軍艦のウラジオストック入港、3.1.米軍艦ブルックリンも再来、停泊。原,pp.209-210.
    4.5-4.6.ウラジオストック市内に陸戦隊上陸(日本500名,英国50名)原, pp.175,217-218.

 1918.3.25.-5.19. 日華協定とそれに基く2通の軍事協定(1921.1.28.廃止。原,p.565)。細谷,pp.90-94 →北満州への日本陸軍進駐。

 セミョーノフ軍(1918.5.15.ザ・バイカル州臨時政府布告)を援助。ハルビンのホルヴァートにシベリア政権設立を慫慂(日本陸軍,満鉄)。1918.6.-ウラジオストックのデルペルの政権樹立を援助(日本海軍)細谷,pp.100-117.




 A“共同派兵” 1918.8.-1920.1.

 1918年8月2-3日に、日本・米国両政府は、“共同出兵宣言”を公表。8月12日に日本陸軍、19日に米陸軍がウラジオストック上陸、《シベリア派兵》開始。(細谷,pp,197-198)

 “日米共同宣言”(原,pp.365-366)は派遣対象地域をウラジオストックに限定。日米の合意した派遣規模は、米軍 7000名、日本軍 12000名以下だった。しかし、日本軍は当初からこれを無視、9月初めまでにハバロフスクとザ・バイカル州チタを占領、同月中にアムール州都ブラゴヴェシチェンスク占領、「極東3州を平定」した。10月末までに日本が北満州・シベリアに送り込んだ兵員は 7万2千名。細谷,pp.187-210. 原,pp.402-407.

 11月11日、ドイツが連合国に降伏。連合国は旧ロシア領土に派兵を続ける理由がなくなり、翌1919年から日本以外は撤兵を開始した。しかし、日本軍は駐留と戦闘を継続し、たびたび増派した。

 1919年2月カナダは宗主国イギリスに撤兵の承諾を取り、4月21日ウラジオストックから撤兵開始、6月5日大部分の撤兵を完了。

 1919年9月フランス撤兵開始、20年8月撤兵完了。

 1919年10月末イギリス、大部分の撤兵を完了。(麻田,pp.125-129)

 1920.1.5.アメリカ、撤兵を決定、10日ころ開始、4月1日撤兵完了(麻田,pp.131,139;原,p.508)

 中国1918.11.〜派兵、露中国境付近で警備、1920.4.までに撤兵(藤田昌雄『日本の装甲列車』,2013,潮書房光人社)中国艦隊は、1920.3.《尼港事件》に関与(麻田,p.158)

 1920.6.日本以外の連合国はウラジオストックから撤退した(英語版wiki)




 B 単独派兵 1920.1.-1922.10.25.

 日本軍のシベリアにおける対パルチザン戦闘、シベリア住民に対する掃討・虐殺、パルチザン側による虐殺などの多くが、日本以外は撤退中・撤退後のこの時期に起こっている。


 1922年6月23日、閣議で撤兵を決定。原,p.568.

    10月25日、大陸地域から撤兵を完了。原,p.570.

 1925年5月15日 北サハリンから撤兵完了。原,p.570. 






 C 北サハリン占領 1920.8.-1925.5.15.

 1920年3-6月におきた《ニコライェフスク事件(尼港事件)》(パルチザンによる日本軍守備隊全滅、それに続く日本人居留民・捕虜の虐殺。原,pp.518f,536f 麻田,pp.154-162)に対する報復として、7月3日、日本政府は、北サハリンの“保証占領”(ニコライェフスク事件の落し前がつくまでは担保として占領するということ)を宣言、北サハリン駐留軍を増派した。原,p.550.

 なお:⇒:wiki:ニコライェフスク・ナ・アムーレ ←《尼港事件》では、日本人捕虜・居留民のほか、数千人のロシア人市民も「赤軍テロル」の犠牲となったことが書かれています。しかし、市内に恐怖政治を敷いて白軍や市民を殺害し、抵抗する日本軍守備隊を全滅させ捕虜・居留民を殺戮した・このパルチザン・グループは、正規の「赤軍」ではなく、中国艦隊(北洋軍閥?)から武器援助を受けていた。麻田,pp.154-162;原,pp.539-544.

 また、↓この写真は、パルチザンが市街を焼き払って出て行った後のものですが、パルチザンと日本軍の間の重火器戦闘(市街戦)も相当に激しかったようです。市民の犠牲の一部は戦闘の巻き添えでしょう。







焦土となったニコライェフスク(1920年)








 日本の《シベリア出兵》の動機として、一般によく言われるのは、ソヴィエトの社会主義と天皇制イデオロギーとは相容れない以上、日本としては「共産主義が日本を含めた同地域に波及することをなんとしても阻止する必要があった」(wikipedia)と言うのです。

 しかし、ギトンは、(2)にもちょっと書きましたが、↑この歴史観には疑問を持っています。

 《派兵》が開始された1918年前後の段階では、日本ではまだ“社会主義”も“共産主義”もよくわかっていなかったと思うのです。1910年《大逆事件》などで明治政府が激しい弾圧の対象とした幸徳秋水らの社会主義は、レーニンやソヴィエトの社会主義とは、かなり違うものです。

 《シベリア派兵》の段階では、日本国内の社会主義者は、それ以前の《大逆事件》直後の時期、および後の1920年代と比べれば、かなり自由な言論を許されていました。民本主義者による《大正デモクラシー》の高揚が、相対的に自由な言論空間を広げていたのだと思います。むしろ、当局の警戒の対象となったのは、雑誌『白樺』などの平和主義や、労働者と結びついた『友愛会』、賀川豊彦などのキリスト教的実践活動だったように思われます。

 1921年『日本労働総同盟』成立(『友愛会』が左翼化して改称)、1922年3月の『全国水平社』結成、同年7月の第1次共産党(秘密結社)結成を経て、当局の弾圧方向も左翼方面に集中するようになり、1928年の《3・15共産党弾圧》で頂点に達するのではないでしょうか。



 ともかく、ギトンが今もっているイメージでは、《シベリア派兵》を日本が行なった最大にしてほとんど唯一の動機は、イデオロギーでもヒューマニズムでもなく、支配と権益を求めての大陸進出だった―――ということです。







  
     ウラジオストック






(4)

 
 《シベリア派兵》に関わった作家といえば、黒島伝治の存在を忘れることはできません。

 宮沢賢治を同時代の文脈の中に位置づけるためには、賢治とまったく異なる立場でこの戦争を体験した黒島との比較は不可欠です。

 その作業にはまだ手が付いていないのですが、とりあえず、黒島の↓こんな叙述が目についています:





「ペーターは、日本軍に好意を持っていなかった。のみならず、憎悪と反感とを抱いていた。彼は、日本人のために理由なしに家宅捜索をせられたことがあった。また、金は払うと云いつつ、当然のように、仔をはらんでいる豚を徴発して行かれたことがあった。畑は荒された。いつ自分達の傍で戦争をして、流れだまがとんで来るかしれなかった。彼は用事もないのに、わざわざシベリアへやって来た日本人を呪っていた。

 
〔…〕日本人への反感と、彼〔日本人の「御用商人」―――ギトン注〕の腕と金とが行くさきざきで闘争をした。そして彼の腕と金はいつも相手をまるめこんだ。

     
〔…〕

 将校の銃のさきから、パッと煙が出た。すると、色の浅黒い男は、丸太を倒すようにパタリと雪の上に倒れた。それと同時に、豆をはぜらすような音がイワンの耳にはいって来た。

 再び、将校の銃先から、煙が出た。今度は弱々しそうな頬骨の尖っている、血痰を咯いている男が倒れた。

     
〔…〕

 イワンは、恐ろしく、肌が慄えるのを感じた。
〔…〕

 どうして、あんなに易々と人間を殺し得るのだろう! どうして、あの男が殺されなければならないのだろう! そんなにまでしてロシア人と戦争をしなければならないのか!

     
〔…〕

 『日本人って奴は、まるで狂犬だ。馬鹿な奴だ!』

     
〔…〕

 兵士達は、銃殺を恐れて自分の意見を引っこめてしまった。近松少佐は思うままにすべての部下を威嚇した。兵卒は無い力まで搾って遮二無二にロシア人をめがけて突撃した。――ロシア人を殺しに行くか、自分が×××[殺され]るか、その二つしか彼等には道はないのだ! けれども、そのため、彼等の疲労は、一層はげしくなったばかりだった。

     
〔…〕

 銃も、靴も、そして身体も重かった。兵士は、雪の上を倒れそうになりながら、あてもなく、ふらふら歩いた。彼等は自分の死を自覚した。恐らく橇
〔そり〕を持って助けに来る者はないだろう。

 どうして、彼等は雪の上で死ななければならないか。どうして、ロシア人を殺しにこんな雪の曠野にまで乗り出して来なければならなかったか? ロシア人を撃退したところで自分達には何等の利益もありはしないのだ。

 彼等は、たまらなく憂欝になった。彼等をシベリアへよこした者は、彼等がこういう風に雪の上で死ぬことを知りつつ見す見すよこしたのだ。炬たつに、ぬくぬくと寝そべって、いい雪だなあ、と云っているだろう。彼等が死んだことを聞いたところで、『あ、そうか。』と云うだけだ。そして、それっきりだ。

     
〔…〕

 雪の曠野は、大洋のようにはてしなかった。」

黒島伝治『橇』(1927年)⇒:青空文庫



 兵役で
「姫路の歩兵第10連隊に入隊し、除隊を目前にしながら、1921年にシベリアのウラジオストクに送られた黒島伝治は、日記(1920年4月22日)に『この日記を書くのも、もうこれでやめる』といい、友人の壷井繁治に対し、『生きて帰れるか、帰れないか、分らぬ。死んだならば、必ずこの日記を世の中に出してくれ』と書き付けた。」
『大正デモクラシー』,岩波新書,p.79.


 黒島は、1921年5月1日に姫路を出発、ウラジオストックを経て、5月9日ニコライェフスクに赴任しています。翌年3月に病気で入院、日本に戻されて除隊となったあと、小説を書き始めています。

 ニコライェフスクといえば、1920年3-5月に、日本軍守備隊がパルチザンとの戦闘で全滅し、日本人居留民・捕虜が殺害される《尼港事件》が起きています。黒島の↑日記は、そのニュースに接して書いたものでしょうけれども、予感は的中して、自ら虐殺の地に送られることになったのでした。



 しかし、戦争を描く黒島の眼は確かで、パルチザンによる日本人の虐殺が発生した背景として、日本軍による理由のない戦闘・残虐行為があったことを、誤りなく把握しています。(しかし、黒島の反戦小説の本領は、日本軍内での兵卒に対する虐待のおぞましさを、兵卒の“敵”との人間的交感と、対比して描くことにあります)






ウラジオストック 駅と港






 黒島の場合には、“シベリア行き”を命ぜられる前からすでに死を覚悟していたのも、《尼港事件》という情報があってのことでしたが、

 その2年前、まだ《シベリア派兵》が決定される前の 1918年2月に↓こう書いている宮沢賢治の場合は、どうなのでしょうか?






「今晩等も日露国交危胎等と折角評判有之定めし御心痛の御事と奉察候へども
〔…〕万事は十界百界の依て起る根源妙法蓮華経に御任せ下され度候。誠に幾分なりとも皆人の役にも立ち候身ならば空しく病痾にも侵されず義理なき戦に弾丸に当る事も有之間敷と奉存候。

 若し又前生の業今生の業に依り、来年昨来年弾丸に死すべき身に候はゞ只に今に至りて嘆くとも何の甲斐か候べき。

 義ある戦ならば勿論の事にて御座候。

     
〔…〕

 戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候その戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候 起是法性起滅是法性滅といふ様の事たとへ(先日も屠殺場に参りて見申し候)、牛が頭を割られ咽喉を切られて苦しみ候へどもこの牛は元来少しも悩みなく喜びなく又輝き又消え全く不可思議なる様の事感じ申し候 それが別段に何の役にたつかは存じ申さず候へども只然くのみ思はれ候)
〔…〕

 この上は先づ五月に兵役に採らるゝ事仕事の少しく遅るゝ事殊によれば戦争に出づる事を御覚悟下され何卒御安心下され度く操り返し御願申し上げ候。」

宮沢賢治書簡[46] 宮澤政次郎宛て 1918.2.23.




 ミヤケンは、この年(1918年)高等農林卒業後は研究生兼助手として学校に残ることが決まっていたので、徴兵猶予を願い出れば簡単に許される立場だったにもかかわらず、あえて猶予申請せずに徴兵検査を受けると言って、父と衝突していました。

 その際の父宛て手紙のうちの1通なのですが、わざわざ屠殺場へ行って牛が殺されるところを見てきたと言うのです。その上で、「戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候」「殊によれば戦争に出づる事を御覚悟下され」などと書いています。

 「今晩等も日露国交危胎等と折角評判有之定めし御心痛の御事と奉察候へども」と書いていますから、この「戦争」とは、単に一般的に“もし戦争になったら”などということではなく、目下“出兵論”と“慎重論”が新聞雑誌を賑わせている《シベリア派兵》を指していることはあきらかです。

 つまり、↑上で見た黒島伝治の場合とは、立場は異なっていても、この戦争は「義理なき戦」“生きて帰れない戦争”と思っていたふしがある点は共通しています。


「黒島の日記(1920年4月22日)には、『兵隊に取られたとき、自分は悲観した』『現在の、日本の制度を呪った、日本の国民たることをお断りしたくなった。併し、どうしても仕方がないのを知った、あきらめるまでは苦るしい』と記されている。」
『大正デモクラシー』,岩波新書,p.80.



 
 「義理なき戦」であるがゆえに、“生きて帰れない戦争”と感じられるのでしょうか。正義に反することをしに行くのであれば、神も仏も護ってはくれないでしょう。当時の日本人は、現在よりもずっと信心深く迷信深かったでしょうから、そのように考えたかもしれません。

 そこで、宮沢賢治のように、ある程度宗教の素養がある人は、“法性
(ほっしょう)”という論理に逃げ込んだのではないでしょうか?

 先日は、この問題について西谷修氏の議論を引用しましたが(⇒:【ユーラシア】シベリア出兵)、戦争は避けられないもの、「やってきたらそこに巻き込まれるほかない現象」、生物界の弱肉強食と同じレベルの現象だと、賢治が考えていたというのは‥

 はたしてそれが宮沢賢治の最終的な思想‥ ないし確定した信念だったのかどうか、……ギトンは疑問に思わざるを得ません。

 むしろ、↑上の書簡を見る限り、この時期の《シベリア派兵》という“正義なき戦争”に接して―――もちろん、すべての戦争は“正義なき戦争”なのですが―――、やむをえず逃げ込んだ論理ではなかったか?‥ そんなふうにも思われるのです。







  









 ともかく、《シベリア派兵》という事件は、100年後の今日から眺めると、それ以前の日清・日露戦争、またその後の日中戦争と比べて、小さな事件のように見られがちです。第1次大戦への参戦と比べても、影が薄いかもしれません。

 そもそも、戦争というより、単なる事件、あるいは単なる兵員の派遣のようなイメージを、私たちは持ってしまいます。

 しかし、これは、少なくとも4年間続いた“宣戦布告なき戦争”なのです。日本軍は、一定の戦略と作戦を持って上陸し、計画通りに戦闘と占領を進めて行ったのですから。それは、派兵を容認した連合国の想定をはるかに超えていました。

 そして、同時代の人々、とくに自分が戦場へ送られるかもしれない若者たちは、この戦争を、日本の行なった他の戦争以上に残酷で怖ろしい戦争として捉えていたのです。。。 








ばいみ〜 ミ



 
同性愛ランキングへ

.
カテゴリ: 日本近現代史

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ