09/25の日記
00:34
シベリア出兵
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こんばんわっ(^_-)☆y
雨が続きますねえ‥
ぜんぜん出かけられないので、【ぎゃるり・ど・たぶろ】の更新がでけません。。。
ちなみに‥ このギャルリ・ド・タブロって、フランス語の galerie de tableaux, 画廊とか絵画展示場という意味ですから。 ギャルとは関係ありませんw
この間に何をやってたかというと‥ “シベリア出兵”関係の本を図書館から借り出しては読みこんでおりました。
古典的名著と言われるのが:
細谷千博『シベリア出兵の史的研究』
戦後まもない1955年の版が絶版になってから、岩波・現代文庫で再版されていましたが、それも現在では品切れ。東京の大きな本屋にももうありません。
それでも ‥最近は便利ですね、地方の小さい本屋の在庫を検索できるようになったんです。それで先日、川口と鳩ケ谷の境目まで行って、1冊手に入れてきました(^^)
もう棚にも出てない‥ 「この棚の下の引き出しの中に1冊あるはずだ!」と言って探し出してもらいました。店員さんがビックリしてましたw
ちなみに、引き出しの中には、まだもう1冊残ってます。文教堂・川口朝日店―――ぜひ読みたいという方は、行ってみてください//
しかしこの細谷先生の旧著は、1917年にロシアで“10月革命”が起きてから、1918年8月に出兵が開始されるまでの、列強間の駆け引きの歴史―――外交史なんです。じっさいに出兵が開始されてからのことは書いてありません。
じっさいの派兵・進駐・戦闘の過程というのは‥ 日本では長い間“極秘”にされてきたので、ようやく日本軍や外務省が持っていた記録が公刊されたのは1970年代‥ 詳しい研究が現れたのは、それ以降なのです。
1989年に出た:
原暉之『シベリア出兵』
↑この大著も、派兵が始まるまでのロシア革命と内戦の過程に多くのページを割いていまして、派兵から撤兵までは、全体の3分の1以下の分量です。
じっさいのシベリアでの干渉戦争の状況については、まだ未解明の部分が多いのではないかと思います。
その一方で‥ 正式の戦史や歴史研究の空白を埋めるように、‥新聞記者の従軍記などが派兵終結直後から出版されていました。また、第2次大戦後になると、“派兵”を体験した人の回想記や、それを題材にした小説が出るようになります。代表的なものは、つぎのようです:
山内封介『シベリア秘史』,1923.
石光真清『続諜報記』,1945. 改作版:『誰のために』,1959.
堀田善衛『夜の森』,1955.
ともかく、“シベリア出兵”については、派兵する側を正当化するにせよ、逆に派兵を「ロシア革命への干渉」「侵略」として批判するにせよ、大枠の認識が先に立ってしまって、冷徹な事実認識になかなか至らない恨みがあるようです。
現在、wikipedia などに出ている記述にしても、かなり感情や決めつけの先行した著作をうのみにして書いている面があるので、ネットで調べる際には注意が必要です。
↑上に挙げたのは、事実に立脚した客観的な著作として評価されているものだけを選びました。
そういうわけで、一昨日ようやく『シベリア出兵の史的研究』を終えて、原氏の大著に取りかかったところです。
ところで、ギトンがなぜ、100年前の派兵に興味を持って調べ始めたかと言いますと‥ この派兵はやはり、宮沢賢治の青年期に起きた社会的事件のなかでも非常に重要なものだと思うのです。
“宮沢賢治と戦争”―――これは、たいへんに重いテーマですが、“宮沢賢治はファシズムの先蹤だ”‥どころか“ファシストだ”と言わんばかりの暴力的な(ww)“賢治批判”さえもてはやされる昨今では、避けて通れないテーマです。
またそれ以上に、あの無謀な戦争へと傾斜してゆく暗い時代を生きた・この作家に対する私たちの“読み”は、私たち自身の踏まえるこの時代と、無関係であってはならないと思うからです。
すでに、この日記では何度か――FC2で書いていた時に――触れたと思いますが、
ギトンは、宮沢賢治という人に対して、↑上の“賢治批判”の論調とは全く逆の感触を持っているのです。
朝鮮・三一独立運動事件(1919年)の前後に日本で新聞記者などが書いた文章を読みますと‥
朝鮮などでの抵抗運動に理解を示し、日本の統治を批判する論調はたしかに見られるのですが、その論調をたどってゆくと、けっきょく最後には、日本の・より以上の大陸侵略と支配、中国の各政権への介入干渉を要求する論旨になってしまうのです。
大戦間期の日本では、当時としては進歩的な陣営の人々が―――いや、「進歩的であるがゆえに」とさえ言わなければならないほど多くの人々が―――、日本の大陸侵略をそそのかす役割をしていたのだと考えなければなりません。この生々しい戦前日本の思想状況を目の当たりにして、ギトンは唖然とするほかはなかったのでした。
かつて(戦後)、吉本隆明は、戦前に社会主義→転向→の道を歩んだあげく国家総動員、満鉄などに協力して行った“社会主義者”たちが、敗戦後は一転して“戦後民主主義”を高唱してきたとして、彼ら(花田清輝などがその典型だと言うのですが)に強烈な批判を浴びせていました。
その吉本氏の議論の延長上で言えば、戦前の“社会主義”者→ファシストたちは、その出発点の1910-20年代にすでに、侵略の翼賛へとつながる論理構造をその思想の根底に持していた―――ということになるのかもしれません。
ところが、そういう“戦前社会主義”観を前提に、宮沢賢治を見たとき‥ この人は、当時の進歩的知識人の通有性――侵略の正当化につながる心性――をみごとに免れていると思わないではいられませんでした。
考えてみれば、宮沢賢治は“進歩的知識人”などではなかったのです。むしろ、もっとも保守的・反動的な国粋主義仏教団体である『国柱会』に彼は心酔していましたし、‥にもかかわらず、『国柱会』の侵略的な面――石原莞爾など――には影響を受けたふしがないのです。
そういえば、吉本隆明氏も、(この人には珍しく)宮沢賢治に対してだけは、なぜか一点の批判さえ向けたことがなく、つねに絶賛を繰り返していたことでした。
ミヤケンが、“侵略の正当化につながる心性をみごとに免れていた”とギトンが思うのは、たとえば、↓つぎのような作品を残しているからです:
いたつきてゆめみなやみし、 (冬なりき)誰ともしらず、
そのかみの高麗の軍楽、 うち鼓して過ぎれるありき。
その線の工事了りて、 あるものはみちにさらばひ、
あるものは火をはなつてふ、 かくてまた冬はきたりぬ。
『文語詩稿五十篇』より
↑この作品も何度目かの引用になりますが、当時、事実上の動員(強制連行)によって岩手県にも来ていた朝鮮人鉄道工の“騒擾事件”に触れて書かれたものです。
戸外を通り過ぎてゆく朝鮮人飴売りの太鼓の音を聞きながら、朝鮮王朝時代の進軍のありさまに思いをはせていることに注意したいと思います。
当時の日本にあっては、“敗者”“弱者”としての朝鮮国、朝鮮民族に同情を寄せる思潮はまま見られても、韓国を日本と対等な歴史的存在として扱うような議論はまったく無かったわけで――――そのような環境の中で、この賢治の“朝鮮民族観”は、日本ではきわめて特異なものだったと言わなければならないでしょう。
また、最近になって知ったのですが、賢治の父・政次郎氏は、シベリア派兵に反対していたらしく(政次郎氏は町議会議員として、公に政治的発言をする機会があったと思われます)、派兵に否定的な発言をしていたアメリカ大統領ウィルソンの見解に立脚して日本国内の派兵論を批判した書簡が発見されています:【BL週記】ソンバーユー
その子息である賢治の作品にも、シベリア派兵は影を落としているのでして、
1923年に発表された童話『氷河鼠の毛皮』は、シベリア派兵を題材として、日本の経済進出の動きを批判しつつ、ボルシェヴィキ側の赤軍パルチザンに対しても一定の理解を示したものであることが明らかにされています。
そればかりでなく、有名な童話『北守将軍と三人兄弟の医者』の最初期形は、1922〜23年ころ書かれています。これも、(まだ公刊物では指摘を見ていないようですが)ギトンの見るところでは、シベリア派兵から帰還した日本軍兵士の厭戦感情をふまえているように思われます。
同じ時期に上演された『飢餓陣営』や、執筆構想が残る『黒溝台』になると、戦争や軍隊に対する風刺性・批判性をより強めていると言えます。
そういうわけで、“シベリア出兵”とは、どのような歴史的事象だったのか、また、当時日本国内ではどのように報じられ、どのように理解されていたのか‥ これを解明しないでは、賢治童話の十分な理解はできないだけでなく、
“宮沢賢治と戦争”というテーマにとっては、これは重要な結節点になるのではないかと思うようになったのです。
『宮澤賢治イーハトヴ学事典』で西谷修氏が論じているように↓、宮澤賢治は、決して“戦争”に対して超然と構えていたわけではありませんでした。むしろ、ミヤケンにとって日本の“戦争”は、好むと好まざるとにかかわりなく“避けられないもの”であったのです。それが、戦争を“外側から”批判することもできた父との相違――おそらくは世代的な――であったと言えます。
しかし、その“避けられないもの”という意味は、賢治その人に即してさらに解明してゆく必要があると、ギトンは考えています。なぜなら、“避けられないもの”であるがゆえに“正しいもの”であるとする視点を、彼は持たなかったように思われるからなのです。。。
「賢治にとって戦争は、政治的・歴史的出来事というよりも、やってきたらそこに巻き込まれるほかない現象のひとつだった。〔…〕
賢治が想起する戦場はいつも悲惨で、そこに登場する部隊や兵士も死や狂気の淵に追い詰められている。〔…〕賢治にとって戦争は、基本的には意志の及ばない災厄(あるいは万象のひとつ)のようにして現れる。〔…〕賢治はそこに『法性』を見ることから出発する。〔…〕屠られる牛を見るようにしてこの残酷に向き合い、それをどう生きるかという問いを切実なものとして引き出している。
賢治が『ビヂテリアン』になるのも徴兵検査の年からだという。人が戦で殺し合うのは、どちらが正しいかの尺度で計られるのではなく、生き物が他の生き物(植物を含めて)を食べることによってしか生きられないという生き物の『法性』の次元で受けとめられる。」
ばいみ〜 ミ彡
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