08/04の日記

03:43
【BL週記】ソンバーユー

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 こんにんわ(^.^)o




 気温と湿度だけは真夏ですねえ。。。。 天気のほうはツユの続きみたいなかんじですがw





 みなさん、ウナギは食しましたか?

 人間のおちんちんじゃなくて、魚のウナギですよ?‥



 ギトンは、スーパーで値札を眺めていても、ちっとも安くならなくて、とても手が出ないので、うな丼はあきらめてウナタマにしました。。。 ウナタマ。。。 ‥‥‥なんか、ウナギよりエッチですねw‥





 そういうわけで、一人前の蒲焼を買ってきて、小さく切って、卵で増量して2人分のウナタマを拵えたんですが←

 あんのじょう、同居人は卵焼きの中からウナギだけほじくりだして、ごはんに乗っけて食べてましたw どーせそーなると思ったから、ウナギが卵の中に潜り込まないように、最後に上から乗っけるようにしといたんだけどww









 ところで、食事時の同居人の話は、あいかわらず謎だらけで楽しい←


 なんでも、白い石像が、うちの近所にあるとかで、「このへんて、ほんとに変なものばかりあるなあ」‥




 俺は石像なんて見たことないけどな‥ いったい何の話をしているんだか??? 「どこだ?公園のほうか?」

 「どこだかわからない。ぜんぜん道がわからない」←




  




 ゆうべはまた、ハサミで手を切ったとか‥ カバンの底にハサミが入ってて、手をつっこんだらパカッと割れたとか‥


 そーゆー残酷な話は、俺苦手なんだよな〜 ウーン…ゆるしてくれ((+_+))







 早く傷が治るように、馬油を塗ってあげました。



 手を切ったて言うから腕かと思ったら(そーゆー大げさな話だたw)指の先っちょぢゃないかww

 塗ってやろうとしたら、普段ずぼらなくせに、こーゆー時だけ潔癖過敏症で、ギトンの出す薬にはいつもおっかなびっくりなんだよね(º_)

 指より、オチンチンで塗ったほうがよかったか?w












 ところで、      ↑このソンバーユと、宮沢賢治の“北守将軍ソーンバーユー”(⇒:『北守将軍と三人兄弟の医者』)と、どっちがどっちのマネなんだろうって‥



 ギトンは、馬油のほうが、ミヤケン童話の“ソンバーユー”にあやかった商品名だろうと思ってたんですが、金子民雄さんの本には、宮沢賢治が馬油の「尊馬油」から、将軍の名前を思いついたと書いてありました。




 そこで、この際ちょっと調べてみたんですが‥

 ネットを見る限り、「ソンバーユ」の製造販売元の福岡の「薬師堂」というところが、馬油そのもののパーオニア・メーカーで(⇒:馬油の歴史(薬師堂))、

 昭和23年(1948年)に馬油の効能を知って、昭和46年に製造販売を開始したとのこと。

 最初は、「ソンバーユ」ではなく「馬油(ばーゆ)」という商品名だったそうです。


 しかし、宮沢賢治の『北守将軍と三人兄弟の医者』は、1931年に雑誌『児童文学』で発表されています。ミヤケンのほうがはるかに先ですねえ。。。

 当時は、「尊馬油」も「馬油」も存在しなかったのですから、マネしようがありません。

 賢治が馬油にあやかって童話の主人公の名前をつけたというのは、例によって金子さんの思い込みだったようですね。





 もっとも、馬の油がヤケドに効くという効能自体は、民間療法として古くから知られていたようで、昭和30年頃に馬の油でヤケドを治したという話を、ギトンは父から聞いたことがあります。

 中国16世紀の『本草綱目』には、馬油の効能として、「シミ・ソバカスの除去、肌荒れ治療、筋肉痙攣の緩和」と書かれているそうですが、火傷の治療薬として使われたのは、日本の民間療法独自だったようですね。

 したがって、馬油の民間療法は、おそらくミヤケンの生きていた時代からあったのでしょうけれども、その段階ではあくまでも“馬の油”であって、「ソンバーユ」でも「尊馬油」でもありません。おそらく「馬油」というコトバも無かったでしょう。







  
サハリンの海岸    






 ところで ‥また話題が飛ぶ‥ ミヤケンの『北守将軍と三人兄弟の医者』ですけど、1931年に『児童文学』に寄稿したのは、その10年くらい前に書いた『三人兄弟の医者と北守将軍』を改稿したものだそうです。最初に書かれたのは散文童話。それがその後、韻文形――叙事詩に改稿され、その後再び散文形に戻されたものが、1931年に発表されたわけです。


 そこで、全集を調べてみると、最初の『三人兄弟の医者と北守将軍』が成立したのは 1922-23年頃(用紙は「1020藍色罫」,現存するのは 1921-23年に宮澤家に雇われていた関鉄三氏による清書稿)で、『氷河鼠の毛皮』と同じころです。

 つまり‥ この童話にも、“シベリア出兵”の影響が考えられるのです。

 


 そういえば、童話の最初で、国境の戦場から戻って来たソンバーユー(最初の形では、北守将軍の名前は「プラン ペラポラン」)が歌う“凱旋歌”の最初に:



「北守将軍ソンバーユーは
 いま塞外の砂漠から
 やつとのことで戻つてきた。
 勇ましい凱旋だと云ひたいが
 実はすつかり参つて来たのだ
 とにかくあすこは寒い処さ。」
(『児童文学』発表形)



 と歌われています。「勇ましい凱旋だと云ひたいが/実はすつかり参つて来たのだ/とにかくあすこは寒い処さ」―――これは、まさに“シベリア出兵”から戻って来た兵士たちの正直な感想ではなかったでしょうか。


 “シベリア出兵”(⇒:wiki:シベリア出兵)は、ロシア革命(1917年)で成立した共産主義政権に対する列国の干渉戦争で、日本は 1922年(まさに、『三人兄弟の医者と北守将軍』の成立時!)に撤退しています。

 盛岡からも工兵第8連隊が出陣し、シコトヴォ(沿海州、ウスリー湾に面する都市)に進駐しましたが、日本軍全体が大陸から撤退した後も、1923年に1箇中隊を(ロシア領)北樺太に派遣しています。⇒:工兵第8連隊(なお、この 1923年の樺太派兵は、岩手県の新聞で大々的に報道されており、この年に宮沢賢治が“樺太旅行”をする動機となった可能性は十分にあります。)


 童話も、↑上の 1931年の形では「塞外の砂漠から」となっていますが、1922-23年の初期形では、この部分は、


 「塞外の くらい谷から」


 でした。当初は、「北守将軍」の派遣されていた戦場として、シベリアが念頭に置かれていたのを、1931年の段階で、中国北辺〜西域の「砂漠」に変更したのでしょう。





西域 クチャの砂漠




 ミヤケンが「北守将軍」に歌わせている“凱旋歌”は、凱旋とはほど遠い内容で‥、そこに彼の“反戦思想”を見ることができるかもしれませんが‥

 このシベリア出兵の段階で反戦思想に傾いていたのは、宮澤賢治よりも、父の政次郎氏だったようです。政次郎氏が、浄土真宗・改革派の暁烏敏に宛てた 1918年4月9日付の手紙には、



「先達テノ中ノ誠意ナキ出兵説ノ立消ニナリタル事ハ国民ノ大多数ニ取リ誠ニ結構ノ事ト存ジマス 併シ当路ニモ如何ハシキ野心家ノ居リタリ又国民ノ一部ニモ軽佻浮薄ノ論議者モアル事故此上トモ油断ハ出来マセヌ」



 と書かれているそうです(⇒:岡澤敏男《賢治の置土産》316)。この段階では、日本はまだ出兵を行うかどうか決定していなくて、“干渉すべきでない”というアメリカ大統領ウィルソンの呼びかけもあって、日本国内では、出兵論と、暁烏らの反対論が論争していたのです。

 政次郎氏は、ウィルソンの平和主義を踏まえて、出兵に強く反対していることがわかります。



 ちなみに、政次郎氏は、1907年、花巻川口町(現・花巻市市街部の南半分)町議会議員に選出されて4期勤めています。自筆履歴書によると、1919年の選挙でも当選しています。(町議会議員の任期とか、当選の年代とか... 宮澤賢治に関する回想記類に書かれている 1923年トップ当選、賢治の『文語詩ノート』にある 1929年落選という話とは食い違っていて、よく判りません‥)

 ミヤケンの父の平和主義、息子への影響‥ もっともっと調べてみる必要がありますねえ...







  





ばいみ〜 ミ


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カテゴリ: BL週記

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