11/05の日記

23:27
【シベリア派兵史】日露戦争から満州事変へ(1)

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 こんばんは。(º.-)☆ノ







(1)旦那衆のデモクラシー




 1905年9月5日朝から、東京の日比谷公園周辺は、集会を禁止し公園に入らせまいとする警官隊・軍隊と、花火とプラカード風船を打ち上げ、丸太と棍棒と投石で封鎖線を突破しようとする群衆とで、あたかも市街戦のようなありさまだった。




「日露戦争終結後に、アメリカのポーツマスで締結された講和条約に
〔ロシアから日本に支払われるべき―――ギトン注〕賠償金が盛り込まれなかったことに不満を持つ人びとが、東京・日比谷公園に集結し、国民大会を〔政府の禁止通告に叛いて―――ギトン注〕開いた。そのあと付近の内務大臣官邸や講和賛成を唱えていた国民新聞社を焼打ちし、〔…〕阻止しようとした警官隊・軍隊と衝突した〔…〕

 その数は『数万』とも『7,8万』とも報じられている。

 こうした混乱のなかで、花火があげられ、『十万の碧血
〔日露戦争の戦死者を指す―――ギトン注〕を如何せん』と記した風船が飛ばされ、大会があわただしく開かれた。〔…〕条約不成立の決議を朗読した。そして、君が代を斉唱し、『皇帝陛下』と陸海軍の万歳を三唱して大会を終えた。」

 公園での集会が禁止されたため、新富座に集まって演説会の開始を待っていた人々もいた。ここでは、
「京橋署長が弁士の登場前に『解散』を命じて人びとを退場させ、従わないものは引きずり出したため、ここでも投石がなされて大混乱となった。」
『大正デモクラシー』,岩波新書,pp.3-4.


 これが、近代日本のデモクラシー運動の発端とされる《日比谷焼打ち事件》です。








 5日夜には、
「日本橋大通りを駆け抜け、人々は道沿いの警察署や交番、派出所を焼打ちし始めた。〔…〕2つの警察署、6つの警察分署が焼かれ、交番や派出所の被害は203ヵ所に及んだ。」
『大正デモクラシー』,p.5.




 騒擾は翌6日も続き、通りかかった市電11台、自動車4台を焼打ちしたほか、警察署、キリスト教会13ヶ所、神田のニコライ堂などが群衆の攻撃を受けた。

 政府は6日夜に戒厳令を発令したが、騒擾は7日にも続いた。








 公園や路上での騒擾に参加した者の多くは、「人足」「車夫」「職人」「職工」「商人」などの《都市雑業層》、他方、日比谷公園の集会や新富座の演説会に集まったのは、当時「旦那衆」と呼ばれた中小工場主、中小商店主、親方などの階層でした。

 



「彼ら都市における『雑業層」は、生業の場で、
〔…〕『旦那衆』に雇われていた。また、商店や、旦那衆が経営する借家・借間に住まっており、雑業層は生業と居住の場で旦那衆に二重に従属していた。大通りに面した旦那衆の居住の場の裏側の路地が、彼らの空間だった。」
op.cit.,pp.6-7.




 それでも、この段階では、《雑業層》と「旦那衆」は、同じ集会に参加し、共に行動している(「旦那衆」は騒擾には参加しないとしても)ことに注目する必要があります。騒擾は、「旦那衆」の商店や町工場(それらは、"暴徒"が通過した道路の両側に並んでいました)を攻撃の対象とはしていません。

 また、事件中・事件後の新聞報道の多くは、警官・軍隊の横暴な鎮圧のしかたをもっぱら攻撃しており、騒擾で逮捕され刑事罰に問われる人々に同情の声を上げています。これも、《雑業層》の起こした騒擾を"わがこと"として同情する「旦那衆」(新聞の主な読者)の意向を反映した論調と見ることができます。












日比谷事件 炎上する京橋警察分署、警官と乱闘する群衆。
手前のパナマ帽をかぶった「旦那衆」は、見物の群衆か(絵葉書)






 専制国家の下での初期の民主化運動が、暴力化・過激化する傾向をもつことは、去年《フランス革命》で見てきましたし(バスチーユ襲撃などに比べれば、日比谷事件は、よほどお手柔らかなほうです⇒:【ラヴォアジェ(6)】 . 【ラヴォアジェ(8)】)、そのさい、中小商工業者の階層、つまりプチ・ブルジョワと、その下の雑業層とがいっしょに行動することも、この段階の特徴と言ってよいでしょう。


 
 しかし、そうした市民革命を見慣れた目で見ると、《日比谷事件》に大きな異和感を抱くのは、なぜでしょうか?

 《日比谷事件》は、それを起こした人々‥‥集会であれ、騒擾であれ、集まった人々の要求が、排外主義的なのです。

 "戦勝奉祝"の提灯行列に参加した同じ人びとが、同じ熱狂の延長上で《日比谷事件》に参加しているのです。





 人々は、ポーツマス条約で、ロシアに賠償金を払わせずに調印した政府に怒り、ロシア正教やキリスト教の教会を攻撃しています。

 民主主義運動は、排外主義から始まった―――これは、諸外国にない日本独自の特質ではないでしょうか?



 他方、《日比谷事件》の被検束者を弁護した弁護士たちの呼びかけによって、"人権擁護"という言葉と主張が、日本の歴史ではじめて社会の前面に現れてきました(op.cit.,p.9)。

 民主主義と人権、―――これらの価値は、日本ではその成立の当初において‥あるいは、当初から、排外主義、帝国主義と強く結びついていたのです。







 《日比谷事件》ののち、「旦那衆」の運動は、より上層の・商工会議所などに拠る "ブルジョワ"商工業者をも巻き込んで、借地権保護(「旦那衆」の商店や貸家は、地主から借りた借地の上に建っていました)、電車・ガス・電気など都市の公共料金・公益企業をめぐる問題、営業税廃税運動などに続いて行き、1912年《2個師団増設問題》をきっかけに、国政の民主化を求める方向を明確にします。

 《2個師団増設問題》は、植民地朝鮮に駐留する師団を増設する陸軍の要求を、政党内閣(当時は、政党の主導する内閣と、藩閥の主導する内閣が交代で政権を担当していました)がつっぱねたために、陸軍の妨害工作で内閣総辞職に至った政変です。

 この事件の前から、東京商工会議所や、全国の商工会議所は「増師反対実業団」を結成して師団増設に反対していましたが、政党内閣の総辞職が伝えられると、新聞・雑誌は「閥族打破・憲政擁護」を掲げて藩閥政権の批判を展開し、2政党(政友会、立憲国民党)と実業団・商工会議所を中心に「憲政擁護連合会」が結成され、各地で演説会、集会が開かれます(第1次護憲運動)。

 そして、政党内閣に代って藩閥の桂内閣が立つと、衆議院は政党議員の内閣追及によって紛糾し、1913年2月10日には、日比谷公園・議事堂周辺に集まった人々と、解散させようとする騎馬警官の間で、ふたたび騒擾事件が発生します。人々は、議事堂へ行こうとする「官僚派」議員(桂内閣を支持する議員)を車から引きずり降ろして暴行を加え、「官僚新聞」と目された『都新聞』を焼打ちします。

 今回も、騒擾の参加者は《雑業層》が多く、新たに学生が加わっています。

 桂内閣は、騒擾の翌日に総辞職しています(大正政変)(op.cit.,pp.12-25)。








 今回の《第1次護憲運動》と騒擾は、植民地駐留軍の増設に反対して起きたとすれば、《日比谷事件》の排外主義とは逆の方向を向いているようにも思われます。



 しかし、民主化運動のその後の展開や新聞雑誌上の議論を見ていくと、そう単純には評価できません。

 むしろ、護憲運動に参加した実業家・商工業者にとっては、"師団増設"が増税につながることが問題だったのであり、植民地支配が強化されるかどうかには、とりあえず関心を持っていない(関心を持った時‥1919年〜‥には支配の強化ないし合理化を求めます)のです。そして、商工・財務官僚による日頃の営業規制や、警察官の強権的な取締り手法が、藩閥政治に対する反感を煽っていたのだと思います。











  



(2)吉野作造の登場





 ところで、《日比谷焼打ち事件》の少し前、1905年はじめに、「平民社」『平民新聞』の幸徳秋水、木下尚江ら社会主義者と、プロテスタント牧師海老名弾正が主催する雑誌『新人』との間で、国権と「日本魂」に関する論争が起きています。

 この論争の中で、海老名牧師の信仰上の弟子として、幸徳、木下に反論文を書いたのが、当時東京帝大大学院生だった吉野作造でした。これら諸論文は、吉野の言論界へのデビューとなりました。




 論争の発端は、『新人』1月号に載った海老名牧師の社説「日本魂の新意義を想ふ」に対して、幸徳秋水が非戦論の立場から批判したことにありました。

 幸徳ら「平民社」の社会主義者たちは、日露戦争に強く反対していましたが、海老名牧師とその教会は、逆に、日本の日露戦争を "自由と平和のための「義戦」" だと主張し、情熱的に応援していました。


「専制主義・侵略主義ロシアの敗北がロシア人民に自由をもたらし、アジアとヨーロッパには平和をもたらすという理由からである。」

田澤晴子『吉野作造』,2006,ミネルヴァ,p.63.







 当時、内村鑑三や、その弟子・斎藤宗次郎らは非戦論を唱え、キリスト者の立場から戦争に反対して、弾圧と人々の激しい指弾を受けていましたが、プロテスタントの大部分は、海老名、吉野のように積極的に支持するか、消極的に沈黙するかはともかく、日本の戦争を容認していました。

 幸徳ら社会主義者の非戦論も、内村らのような身命を賭しての断固反対ではなかったようで、

 当時、幸徳、木下、堺利彦ら「平民社」の社会主義者は、海老名牧師の本郷教会にもよく出入りしており、本郷教会の信徒らも、社会主義に関心を持つ‥というように、互いの立場に敬意を払う友好的な雰囲気の中で、この論争は行われたようです。






「社説の説くところによれば、これまで世界や人類の普遍的な魂は、聖人・仏陀・ヤハウェなど個的な人格を通して顕現される形をとるのがつねであった。しかし日本においては、『日本魂』という国家や民族の魂が、今や普遍的な『世界魂』『人類魂』に転化し、国家を通して顕現しようとしている。
〔…〕

 キリストのいわゆる『神の国』『ロゴスの国』の顕現は、じつに『大日本帝国』こそが実現すべき運命を有するものである
〔…〕と、海老名の社説は言う。

「日露戦争を契機とする日本の強国としての自意識、世界の日本という自負が、この社説の気負った論調を生み出していることは間違いない。」

松本三之介『吉野作造』,2008,東大出版会,pp.51-52.




 ↑これは、ミヤケンの関係でいうと、『国柱会』の田中智学の論調と似ていないでしょうか?‥キリスト教と仏教のちがいはあっても、日本という現実の国家ないし民族を、"世界を支配すべく選ばれた使命"を負うものと認識し、現実の日本国家に"宇宙を支配する絶対者の本体"(仏教で言う「本仏」)の顕現を見る点は共通しています。

 日露戦争から第1次大戦後にかけての、日本の宗教界での"主戦派"に共通する考え方なのかもしれません。





 さて、幸徳秋水は、海老名の↑上の社説の「日本魂」という言葉を、『平民新聞』で取り上げて、


「海老名のこの所説は、日本による東洋諸民族の併呑を聖化し、日本魂をロゴスの顕現と説くことによって『国家無上、国家万能の主義』を指向する政教一致論にほかならないと批判したのである。」

松本三之介『吉野作造』,p.52.






 「政教一致」とまで言えるかどうかはわかりませんが(田中智学のほうは、堂々と政教一致を主張していますがw)、日本の膨張主義を手放しで礼賛して宗教的基礎を与えるもの、‥すくなくともそのように解釈し利用される危険をはらんだ考え方と言えるでしょう。日露戦争の最中に、年頭の社説として宣べられていれば、よけいにそう見られます。






 さて、吉野作造は、『新人』2月号に執筆した「国家魂とは何ぞや」で幸徳の批判に反論し、幸徳は、「国家」ないし「国権」の観念を正確に理解しないために、社説を曲解しているのだと応じました。

 そして、この論文と、これに対する木下尚江の再批判に答えた「木下尚江君に答ふ」(『新人』3月号)および「平民社の国家観」(同、4月号)、そして政治学論文として書いた「『国家威力』と『主権』との観念に就て」において、吉野は「国権」「主権」「国家意思」に関する持論を展開します。








 これらの論文での吉野の議論をひとことで言えば、主権者(天皇)の「主権」を超え、「主権」を規律する「国家意思」ないし「国家魂」「国家精神」なるものを考え、それは、近代国家では(帝政か、共和政か、など憲法制度のいかんにかかわりなく)国家の構成員、すなわち国民の意思が集約されたものにほかならないと主張するのです。

 つまり、これらの論文で吉野は、天皇を主権者とする明治憲法の下でも、政治的にはデモクラシーは可能であるし、むしろ望ましい、‥ということを明らかにして、日本のデモクラシー運動に理論的基礎を与えようとしているのです。

 そのような、法的な天皇主権と矛盾せずに(つまり、明治憲法下の《護憲運動》として)自己主張することのできるデモクラシーを、吉野は、(「民主主義」と言うと、「民」に「主権」があるように誤解されるので)「主民主義」と呼び、―――のちには「民本主義」と呼ぶようになります。





 "法"と"政治"の峻別によって、日本の民主主義に基礎を与えようとする吉野のこの論は、一見してきわめて巧妙な論理です。しかし、それは単に巧妙なだけではなく、↓以下で見るように、近代史の透徹した理解とヘーゲル哲学に基礎づけられた・すぐれて堅牢な論理なのです。

 これによって、海老名の社説が「国家無上、国家万能の主義」で民衆に敵対するものだという・幸徳秋水の誤解は、払拭されたと言えるでしょう。

 しかし、幸徳が指摘していた・もう一つの危惧:―――「日本による東洋諸民族の併呑を聖化」する膨張主義のほうは、払拭しきれていないのではないでしょうか?

 「国家魂」「日本魂」に集約される「国家構成員の意思」が、もしも侵略を志向するものであるならば、"一国だけの民主主義"は、(たとえ天皇が戦争に反対しても、これを踏み躙って)"世界を支配する帝国主義"への道をあゆむことになるでしょうから‥‥











プロテスタント本郷教会 1901年〜1923年まで、本郷壱岐坂にあったが
関東大震災で焼失。本郷弓町に現在の会堂を再建し、弓町本郷教会と改称。




(3)政治学とペンを武器として





 (A) 「国家の意思」「国家魂(日本魂)」「国家精神」「国家威力」「国権」―――これらは、さまざまに呼ばれるが、つまるところ同じもので、「国家を基礎づける意思」「国家生活の最上の規範」を意味する。



 (B) 「国家の権力」「主権」「政権」―――――「国家権力の所在」「権力としての国家」。明治憲法上"主権は天皇にある"と言うときの「主権」。法的意味の「主権」。



 (C) 「国家の構成員(の意思)」「個人」




 吉野は、「国家」という言葉の中にこめられた↑この3つのものを切り出し、観念として区別します。

 言うまでもなく、吉野にとってもっとも重要なのは(A)「国家の意思」です。

 主権者(B)といえども、君主といえども、(A)「国家の意思」には従わなければならない―――従わなければ、国家という団体が分裂崩壊してしまう―――のであって、(A)「国家の意思」は、「国家生活の最上の規範」なのです。

 しかし、「国家の意思」と言うだけでは、いまいち具体的内容の見えないあいまいな観念です。「国家の意思」というけれど、それは結局のところ、誰の意思なのか?

 そこで、(B)(C)との関係が問題になります。







 その問題を考えるために、吉野は、まず "個人は、国家を離れては存在しえない。" というヘーゲルの前提から出発します:



「個人の生活なるものは元と社会国家を離れて存在せず。」

吉野作造「ヘーゲルの法律哲学の基礎」(1905), in:松本三之介『吉野作造』,p.53.



「個人の物質上幷びに精神上の生活は決して社会国家を離れて存在するものに非ず。即ち各個人は皆社会国家なる団体の一員として常に其団体の意思に統制指導せらるゝものなり」

吉野作造「国家魂とは何ぞや」(1905), in:a.a.O.



 個人が「国家なる団体の一員として常に其団体の意思」すなわち《国家意思》「に統制指導」される―――――というのは、‥だから個人の思想の自由など無い!、というように狭く考えるべきではなく、↓つぎのように、ゆるく考えてみたらどうでしょう:


 たとえば、近代以前の時代に、国民だれもが尊敬するたいへん偉い王様がいたとします。国民はみな、進んで王様の考え方を学ぼうとするでしょうし、王様の意思決定に対しては、それはどのようにして正しい決定なのだろうと熟考します。もちろん国民の間にはいろいろな意見があって、誰もが王様の《意思》に一致するわけではありません。しかし、王様は自分の意見と違う人を、むりやり《権力》で従わせるのではなく、自ら模範を示し、政策の良い結果によって人々を説得するというやり方で治めます。このように、君主の徳に感化されて自然と人々が従うようになる、というのも「統制指導」のひとつの方法と言ってよいでしょう。

 これが、‥君主という一人の個人の意思が、すなわち(A)「国家の意思」であった時代の理想的な状態です。

 しかし、こんな理想的な君主は、おそらく稀でしょう。じっさいの歴史では、ありえないかもしれない。そうすると、一国の君主となることのできる力の強い者や狡い者が《権力》で(C)「国家の構成員」を「統制指導」するようになります。

 その結果生じる過酷な状態を防ぐには、どうすればよいのか?‥悪い王様が出るたびに戦争や革命を起こして倒していたのでは、犠牲となる人が多すぎます。

 そこで、(A)「国家の意思」を構成する個人の数を、増やしたらよいのではないか?‥ひとりひとりは、悪い考えや欠点があっても、おおぜいで相談すれば、いくらか良くなるのではないか?‥‥数々の戦争や革命で犠牲者を出した後で、人々はようやく、それに気づきます。たったひとりが決めたことよりも、大ぜいで決めたことのほうが、「統制指導」も受け入れやすくなるでしょう。





「すなわち吉野は、国家を一つの団体=『一国民族の団体』として捉えた。そして彼が『国家魂』とか『国家精神』とか言うとき、そこで意味しているものは、このような団体としての国家の『共通意思』であり、それは各個人にとって『内外一切の生活の最上の規範』とされるものにほかならなかった。
〔…〕

 『古代蒙昧の時代』においては、この『国家精神』は君主一人の意思にほかならず、人智が少しく進むに至っても、それはなお少数の貴族の意思という域を出ることはなかった。」
「国家精神」すなわち「国家の意思」、つまり「国家という団体の全体の意思や生活規範が、その団体を構成するすべての人の意思や判断を基礎として形づくられるようになったのは、じつは近代になってはじめてのことであり〔…〕

 近代以前の国家を『少数中心主義の国家』と呼び、他方、近代の国家を『多数中心主義の国家』と吉野は呼んだ。

 
〔…〕『国家魂』『国家精神』は、個々人が国家生活を送るに際しての最上の規範であり、『各個人を支配する一大意力』すなわち吉野のいわゆる『国家威力』であるとするならば、

 この国家意思の有効な支配を担保するために、国家はまた主権的な権力を必要不可欠とした
〔…〕
。吉野は、このような国家の権力を『政権』と呼び、
〔…〕この政権の所在を彼は主権者と考え、それを国家という団体の最高の機関とみなしたのである。」
松本三之介『吉野作造』,pp.54-55.



 上で↑、「各個人を支配する一大意力」「国家威力」とされる(A)《国家意思》は、個人の生活の「最上の規範」である、という表現から推し量るならば、やはり、それは絶対服従命令のように解すべきではなく、ゆるく解すべきで、

 ‥各個人が、その団体の精神、または“みんなのきまり”として、自分より上位に置いて模範とするような取り決めを、イメージしてよいのではないかと思います。


 
 そして、主権者を「国家という団体の最高の機関」とみなす吉野の理論構成は、憲法学者・美濃部達吉の《天皇機関説》に拠っているものと思われます。つまり、(B)《国家の権力》《主権》という国家の法律的な面は、法学者の進歩的見解に拠っているのです。

 美濃部の《天皇機関説》は、荒っぽく言えば、日本という国家を、会社のような団体と考え、天皇を、団体の代表者―――社長、あるいは理事長のように考えます。団体の一機関である以上、天皇―――社長といえども、好き勝手に何でもできるわけではありません。重役会に諮るべきことは諮り、決算監査は監査役に任せなければなりません。つまり、明治憲法という規則に従ってのみ、主権者・天皇は、主権を行使しうるのです。これが《天皇機関説》です。







  







 美濃部と吉野の
「理論構成は、いずれも団体としての国家全体の意思や利益を主権者たる君主の意思や利益より上位におくことによって君主権を制限し、国家の構成員である一般民衆の意向が政治の上に占める比重をより高くしようとする意味を持った。」
松本三之介『吉野作造』,p.56.








 明治憲法によって天皇に在りとされる「主権」(B)に対して、(A)《国家意思》という政治的概念をその上位に置き、それは団体構成員である個々人(C)の共通意思―――前近代においては少数個人の、近代国家においては、多数または全構成員の―――であるとした吉野作造の国家論は、『平民新聞』との論争の後で政治学論文としてまとめた「『国家威力』と『主権』の観念に就て」では、さらに明確に打ち出されています。

  
 この論文で吉野は、(A)《国家意思》を「国家威力」と呼び、法的概念である(B)「主権」と明確に区別した。


「主権というのは、各個人に対して国家的行動を命じることのできる法律上の力であり、各人にとっては外的な規範であるのに対し、

 『国家威力』は、国家の構成員に対する『一種の精神的規範』であり、『各人の国家的行動の最上の内的規範』である点に特色があるとした。」

a.a.O.



「法律上より論ずれば主権は国家に於ける最高の権力なり主権者は何人の支配をも受くべからざるものなりと雖も、

 政治上より之を論ずれば、主権者は実際国家威力の支配を受くること多きものにして且又之が掣肘に甘ずるを可とするものなり」

吉野作造「『国家威力』と『主権』の観念に就て」



 ただ、ここでギトンがちょっと疑問に思うのは、"君主権を制限する"という(A)《国家威力》が、そのように内的な精神的規範であり、国民個人にも君主個人にも「国家的行動を命じることのできる」力ではないのだとすると、

 はたして、"君主権を制限する"効果を、どの程度期待できるのだろうか‥と、心もとなくなります。

 まして、普通選挙の導入や、陸海軍に対する文民統制のような民主主義的改革を基礎づけうるのだろうか‥と不安になります。

 しかし、この段階の吉野の「主民主義」は、あくまでも "国民のための政治" であって、"国民による政治" はまだ射程に入っていなかったことを考えれば、それもいたしかたないのかもしれません。

 まもなく吉野は、"国民による、国民のための政治"(つまり、リンカーンの Democracy, of the people, by the people, for the people から "of the people"[主権在民] が抜けているだけ)として「民本主義」を唱えるようになります。






 ところで、次回は、すこしタイムスリップして、1932年1月、《満州事変》後に書かれた吉野の最後の政治評論を見たいと思います。

 "民本主義の旗手"吉野作造のデビュー作と、最終作‥―――その間27年のあいだに、日本の政治に何が起きていたのか?。。。












ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 日本近現代史

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