01/17の日記

17:08
【吉本隆明】の宮沢賢治論――文語詩の発見(4)

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 こんばんは (º.-)☆ノ





 またまた、宮沢賢治にふれた吉本隆明の文章がみつかりましたので、お知らせします:






〇 吉本隆明「宮沢賢治」, in:吉本隆明『際限のない詩魂―――わが出会いの詩人たち』,2005,思潮社,pp.88-98.






 ↑考察の対象は、「イギリス海岸の歌」と『銀河鉄道の夜』。「イギリス海岸の歌」は、文語詩ではないので今回は扱いませんが、いつか論じたいと思っています。






 さて、きょうの考察は、いままでの3回とは、切りくちがすこし変ります。“意味”よりも“音”が中心になるからです。

 これまでの考察でも、詩の内容面よりも形式面から切り込むのが、吉本氏の賢治詩に対するアプローチの特色だったと思います。最初は「音数律」と「暗喩」から入っていましたし、〈転換〉という技法―――漢詩の“起・承・転・結”というのも、〈転換〉のひとつのパターンです―――から入ったりしました。

 きょうの最初の考察は、〈連続喩〉というものを問題にします。〈連続喩〉?‥‥‥いったいそれは何だ??

 しかし、その前に、比喩、喩法についての吉本氏の考え方を見ておく必要があります。でないと、何をおっしゃっているのかわからなくなります。

 なので、しばらく辛抱して、前置きの議論を追いかけてくださいw









「わたしたちが喩法を詩の重要な要素とみなすのは奇想天外な〈意味〉を加えるからではなく、イメージや音韻の〈価値〉を加えるからだ。

 日本の近代詩が7・5調の音数律を捨て去って韻律を内在化したとき、その内在の深さに見合った直喩や暗喩の喩法を成り立たせた。」

 つまり、コトバに〈価値〉を加えるものには、音数律のほかに、不定型なリズムや、比喩などの語法があるのです。

「それならば日本語の詩とは何であるのか?
〔…〕今まで述べてきた延長線でいえば、言語の〈意味〉よりも〈価値〉に重点を置いて描写されるものを「詩」と呼び、〈価値〉よりも〈意味〉伝達に重点が過剰に置かれた描写を散文と呼ぶというほかないとおもえる。〔…〕

 詩では〈価値〉の増殖は本質に近いところで考えられるので、〈意味〉はそれほど加えるところがないのに〈価値〉の増殖がはかられる喩法は、いちばん貴重な語法として登場したといえる。」

吉本隆明『詩学叙説』,p.30.






 〈意味〉〈価値〉は、もともとはソシュール言語学の術語なのだそうですが、吉本氏は、そこから出発しつつ、独自の概念を織り上げているようです。

 吉本隆明の言う言語の〈意味〉とは、ようするに辞書と文法書に書いてある意味のことです。そして、〈価値〉とは、それ以外すべてです。(←わかりやすいでしょ?w)

 つまり、〈価値〉とは、コトバの表出するもののうち〈意味〉以外のもののこと、〈意味〉とは、辞書と文法に登録された標準的・客観的な意味のことです。

 (↑もう、ごくごく大雑把に言いました。正確な理解は、こちらでどうぞ⇒:言語にとって美とはなにか C 意味、価値





 それでは、辞書に載っている意味と文法以外に、いったい何があるのか‥ と言いますと、まず、“音”ないし“音韻”があります。音(おと)、リズム、抑揚などが、その要素になっています。




  ささの葉は みやまもさやに さやげども


 という万葉集の歌(巻2,133 柿本人麻呂。↑これは上の句)は、5・7・5・…のリズムと、「さ・は・や」(当時の発音では cha,pha,ya)の繰り返し音がなければ、風に鳴る笹の姿が哀愁を誘う情趣は、半減してしまうでしょう。




  春眠不覚暁  chūn mín bù jué xiǎo  ̄ / \ / _

  處處聞啼鳥  chù chù wèn tí niǎo  \ \ \ / _


 という孟浩然の五言絶句「春暁」は、抑揚
(↑現代の四声でも、唐代の抑揚と大きく違わない)と脚韻(シヤオ -- ニャオ レ・ド・ファの抑揚で読んでください)がなければ、‥つまり訓読読み下しでは、本来のふんいきが伝わりません。














 しかし、音韻以外にも、詩のコトバは、豊富な〈価値〉をそなえています。

 いちばんわかりやすいのは、語のこまかいニュアンスのようなものでしょう。これは、辞書に書いてある標準的な〈意味〉とはちがって、人によってさまざまな個性的色彩をおびています。

 たとえば、「海」という語を思い浮かべたときに、「地球表面のうち、海岸線以下の高さを持つ部分で、塩化ナトリウムを含む水をたたえ、その水面がある程度以上の広さにわたって連続しているもの、またはその塩水塊」という客観的な“指示”(つまり〈意味〉)を超えて「海」という語に加わるニュアンスは、かなり個人差があります。

 山国に育った人と、海のそばで育った人では、「海」という語に対して持つニュアンスは異なるでしょうし、世界各国各地域の文化・伝統によっても異なるでしょう。






  われらひとしく丘に立ち
  青ぐろくしてぶちうてる
  あやしきもののひろがりを
  東はてなく見しかども
  名をいはんさへ恐ろしく
  げにうつゝともわかずして
  そのわだつみの潮騒えの
  うろこの国の波がしら
  きほひ寄するをのぞみゐたりき

宮沢賢治『文語詩未定稿』より〔われらひとしく丘に立ち〕〔下書稿(三)〕




 ↑これは、岩手県の内陸で育った宮沢賢治が、中学の修学旅行ではじめて海を見た体験を、のちに文語詩にまとめたものです。


 〔最終形〕では、


  そは巨いなる塩の水
  海とはおの
〔己〕も さとれども
  伝へてきゝしそのものと
  あまりにたがふこゝちして


 という詩行が加えられています。


 自分が目の前に見ているものを、「海」という言葉では、どうしても表すことができない、青黒くて斑(ぶち)のある「あやしきもののひろがり」、はてしもない水面をたたえる途方もなく巨大な世界「うろこの国」から、滔々と寄せて来る「波がしら」とでも言うほかはない、というのです。

 海を見たことのない少年が、頭の中で想像していたイメージと、じっさいに見た海の姿、印象が、あまりにかけはなれていたわけです。

 「名をいはんさへ恐ろしく」という〔下書稿(三)〕の表現は、“自然”の実物・実相は、「海」などという言葉をはるかに超えたものだ―――という賢治初年の深い畏敬をともなう発見を、吐露しています。

 しかし、これを、“詩のコトバ”のほうから眺めますと、その畏敬に似た気持ちや驚きを切り捨てることなく、その時に感受した“海”そのものを、なんとかして言葉によって表出しようとしているわけで、そのために「海」という語をあえて使わずに、「あやしきもののひろがり」などの表現をしたり、「わだつみの潮騒え」という古語の表現を持ってきたりしています。


 客観的な“指示”としては、この詩の内容は:


  われらひとしく丘に立ち
  海を見たり


 というだけのことで、それ以上の〈意味〉はありません。しかし、この詩の2行目以下の全体が、その時に見た「海」に対する暗喩(メタファー)となっているわけで、それは、単なる〈意味〉(辞書に出ている意味)をはるかに超えて、〈価値〉を付け加えているのです。





「<海>という言葉を、意識の自己表出によってうちあげられた頂で、海の象徴的な像をしめすものとしてみるとき、価値として<海>という言葉をみている。

 逆に、<海>という言葉を、
〔…〕意識の指示表出のはてに、海の像をしめすものとしてみるとき、<海>という言葉を意味としてみている。」
言語にとって美とはなにか C 意味、価値





  










 
 こうして、比喩―――直喩、暗喩、換喩、連続喩など、さまざまな種類があります―――は、コトバの〈意味〉に〈価値〉を付け加える重要な方法のひとつであることがわかります。



 詩の〈価値〉を増殖するものは、音韻、比喩以外にもさまざまあります。たとえば、前々回に、宮沢賢治の文語詩「岩手公園」を例にして述べた〈転換〉も、そのひとつです。視線の動き、場面の流れは、読者を無意識のうちに詩的情趣の世界へと導いています。





  見渡せば 春日の野べに 霞立ち 咲きにほへるは 桜花かも



 たとえば、万葉集(巻10, 1872)の↑この詠み人識らずの歌は、〈意味〉だけを採って、ギトンの下手な英語に翻訳してみると、↓こんなかんじでしょう:





  On the fields of Kasuga, there is fog, and smelling cherry blossoms.


  Auf den wiesen von Kasuga liegt Nebel, und es riecht nach Kirschblüten.




 これでは、絵葉書を見ているのと変りません。草原に霧があって、チェリーの樹花の匂いがする。‥それだけです。どこが“古典文学”なんだかわからないと、外国人は言うでしょう。



 しかし、この歌を、春日野にぼおっとたなびいた霞の奥に、桜がもう咲いているのか、もしかして気のせいなのか、ほのかに伝わってくるこの香りは、いったい何だろう‥いや、よく見れば、霞のようにふんわりと真白に、いちめんの桜が満開ではないか‥という、ほとんど幻想にも近い世界の表出へと向かわせているものが何なのか、‥私たちは、それを意識していません。

 ただ、読めば感じられるという“以心伝心”がすべてなのです。それを、外国の人に説明するのは、ほとんど無理かもしれません。そもそも、わたしたち自身が、こういうものを学校で習った時に、古語の〈意味〉と文法の説明だけされて、あとは、ただ読め、感じろと言われるだけでしたから、私たちがそれを他人に説明することなど不可能なのですw




 吉本氏は、この歌が私たちの情趣を引きだすように、この詩のコトバに〈価値〉を与えているのは、〈転換〉―――なかんずく視線の動きだと言うのです:

 




「さきの万葉集の一首の意味は、三浦つとむの意味概念からいえば、<見渡すと春日野の野べに霞が立ち、咲きにおっているのは桜の花であるぞ>という概念が言葉の客観的な関係として固定されているもの
〔すなわち、〈価値〉を除いた・辞書と文法だけの〈意味〉―――ギトン注〕をさすことになる。これはちょうど、こういう風景をただ見わたしてなぞったような無内容な短歌が、芸術といえるか、というような近代主義批評家たちの観点に一致するものとなる。

 このような見方をすると、古典詩はすべて幼稚な無内容なことを5・7調でならべたものにすぎなくなる。その理由は、自己表出
〔=コトバの〈価値〉―――ギトン注〕をまったく考慮しないで意味をかんがえているところからきている。

 いま、一人の(よみ人知らず)の作者の自己表出
〔作者が付与する個性的な〈価値〉―――ギトン注〕という面を含めて、いいかえれば言語本質そのものから、この一首の意味をかんがえれば、

 『見渡せば』で作者の視線は眼のまえをさ迷い、<春日野の野べ>で、眼のまえの風景が春日野であることを固定し、<霞立ち>で、その野に霞がたなびいているのを視線にやどし、そして、<咲きにほえるは桜花かも>で、その霞のなかに鮮やかに咲き乱れている桜の花に驚嘆している。……というような作者主体の視線と関心の移しかたを含めて、この一首の意味
〔=〈意味〉+〈価値〉―――ギトン注〕とよぶべきであることがわかる。

 だから、言語の意味をかんがえることは、指示性としての言語の客観的な関係をたどることにちがいないのだが、このように指示表出の関係をたどりながら、必然的に自己表出性をもふくめた言語関係の構造をたどることになるのである。」

言語にとって美とはなにか C 意味、価値



















 以上で、比喩、喩法についての吉本氏の考え方をかんたんになぞっておきました。比喩は、コトバの客観的な〈意味〉を表出するものではありません。「それは、何で、あれは何だ。」「いつ、どこで、だれが、どうした。」そういう客観的な〈意味〉を他人に伝えるには、比喩は必要がありません。辞書にあるとおりの語の〈意味〉と正確な文法で述べればよいのです。

 比喩は、語のニュアンスや、話者の個性的な思い入れの感情などと同じように、言語の〈価値〉にかかわるものです。比喩は、コトバに〈意味〉を付け加えません。コトバの〈価値〉を付加・増殖するだけです。

 比喩を使って言ったからといって、伝達する内容が変わるわけではない。

 しかし、コトバによる“自己表出”という、コトバの発せられるもっとも根源的な地点から考えてゆくと、原初にあるのは、コトバの客観的な〈意味〉内容であるよりも、話者の個性的な〈価値〉をめざす“自己表出”の意欲なのではないか。さまざまな比喩、喩法が、(散文による無味乾燥な伝達とは異なって)詩の世界において大きな役割を果たすのは、“自己表出”〈価値〉という、言語のもっとも根源的な部分に根をもつからではないか。―――多少の誤解をおそれずに、吉本氏の考えをわかりやすくまとめると、このようになると思います。










「喩法において最後にやってくるものは、〈連続喩〉ともいうべきものだ。もし暗喩を連続的に使って通常の〈意味〉をもった言語空間を極小にとどめれば、〈意味〉としては推測するよりほかないほど極小にとどめられるが、〈価値〉の増殖は極大となる。また通常の〈意味〉空間が極小となるために、詩全体がバーチャルな空間を作り出すことになる。」

吉本隆明『詩学叙説』,p.31.



 「言語空間」「バーチャルな空間」といった言い方がよくわからないかもしれませんが、それはまぁとりあえず気にしないで、ともかく、吉本氏の挙げている賢治詩の実例を見ることにしましょう:







       丁 丁 丁 丁 丁
       丁 丁 丁 丁 丁
   叩きつけられてゐる 丁
   叩きつけられてゐる 丁
  藻でまっくらな 丁 丁 丁
  塩の海  丁 丁 丁 丁 丁
    熱  丁 丁 丁 丁 丁
    熱 熱   丁 丁 丁
      (尊 々 殺 々 殺
       殺 々 尊 々 々
       尊 々 殺 々 殺
       殺 々 尊 々 尊)
  ゲニイめたうたう本音を出した
  やってみろ   丁 丁 丁
  きさまなんかにまけるかよ
    何か巨きな鳥の影
    ふう    丁 丁 丁
  海は青じろく明け   丁
  もうもうあがる蒸気のなかに
  香ばしく息づいて泛ぶ
  巨きな花の蕾がある

宮沢賢治『疾中』より。






 1929〜30年、熱病に臥した病床での作だ―――くらいの予備知識はもっておいてよいと思います。(用紙は《黄罫詩稿用紙》)

 〈連続喩〉は、「丁 丁 丁 丁 丁」「尊 々 殺 々 殺」など、同じ字が連続している部分です。

 これらは、ふつう、擬音、ないし擬態語として読まれているのですが、喩法の一種として分析する点に吉本氏の独創性があります。

 ちなみに、「丁」はルビがありませんが、ふつう、「ちょう」と読まれているようです。(朗読者は、読み方に悩まないでしょうか?‥)吉本氏も「ちょう」と読んでいます。しかし、「てい」でもよくないでしょうか?ギトンは、「てい」のほうが鼓動の感覚に似ているような気がします。

 写真↓を見るとわかるように、「丁」はすべて、原稿の余白を埋めるように、あとから書きこまれています。(本文は鉛筆、「丁」字と横線はブルーブラックインク)






  










「この詩の〈意味〉はまるでわからないといっていい。なぜかといえば、この詩人が現実に伝達されるような〈意味〉をまったく隠して、暗喩の連続によって〈価値〉だけを表出しているからだ。断片的には『熱』とか『鳥の影』『花の蕾』など、現実に存在するものの名称が出てくるのだが、脈絡は考えられていない。誰も推測以外に〈意味〉を読みとれないことは、詩人には充分に分っていた。それは暗喩の連続によって通常の〈意味〉のある〈とれる〉言語空間を封印しているからだ。

 それにもかかわらず、この詩が優れた力量をもった詩人のゆるぎない言語意欲によって作られていることは疑うことができない。」

吉本隆明『詩学叙説』,pp.32-.








 吉本氏は、「この詩の〈意味〉はまるでわからない」と述べていますが、ここでちょっと注釈しておいてもいいと思うのは、この詩にも、賢治詩のおなじみのモチーフは、見いだすことができます。

 それらのモチーフを、以前の作品に遡って参照することによって、作者の表出しようとするイメージは、当たらずとも遠からず、おおよその狙いをつけることができるように思うのです。



 たしかに、この詩は、見たところ暗喩が文面の大部分であり、ふつうの〈意味〉(辞書どおりの意味)で使われている語がほとんど無いとすれば、作者の意図する〈意味〉、すなわち暗喩の語が暗示している“隠された対象”を確実に知る方法は無く、当て推量することさえ容易ではないように思われます。

 暗喩ではない、通常の〈意味〉の語と思われる「熱」にしても、

「熱  ‥‥‥‥‥‥
 熱 熱」

 というように、半分〈連続喩〉になりかけているのですから、なおさらです。



 しかし、この詩で作者が表出しようとしているものは、かならずしも吉本氏の言う〈意味〉ではなく、もっとばくぜんとしたイメージ、吉本氏の〈価値〉にあたるものではないかと思われるのです。




 この詩に対して、むりに〈意味〉を読みとろうとするならば(吉本氏は、勿論そんな“解釈”とは無縁ですが)、〈連続喩〉である「丁 丁 ……」「尊 々 ……」について、「丁」は町の区画だとか、おおぜいの人だとか、「尊」は尊格(仏様や菩薩、善神)だとか、そういうおかしなこじつけをして読むことになってしまいます。

 しかし、おなじみの賢治モチーフについて、先行する作品を参照してイメージすることは、詩の読み方として‘反則’ではないでしょう。









 まず、「藻でまっくらな
〔…〕海」に至るモチーフは、高等農林在学時代からのものです:





  海あかく
  そらとけじめもあらざれば
  みなそこに立つ藻もあらはなり。

        ※

  みなそこの
  黒き藻はみな月光に
  あやしき腕をさしのぶるなり。

『歌稿B』#691,692. [1918年]「アンデルゼン氏白鳥の歌」より。




 ↑#692 の短歌は、翌年の保阪宛て書簡にも書きこんでいます。アンデルセン『絵のない絵本』のドイツ語版(おそらく、現在でもレクラム文庫に入っている独訳)に着想を得たものです。

 『絵のない絵本』の章番号は、版によって多少違うのですが、いまネットで容易にリンクできる日本語訳では「第27夜」とされる章の冒頭部分が、上の2歌に該当します:




「『ここちよい夜でした』お月さまはそう話をしました。『水はすみきった大気のように透明で、そこを私はすべっていき、水面から深いところでは奇妙な植物が、その長い触手を私の方へまるで森の巨大な木のようにのばしていました。魚たちがそのてっぺんをあちこち泳いでいます。』」

Katokt訳『絵のない絵本』「第27夜」冒頭






 アンデルセンといえば、有名な『人魚姫』の冒頭の描写にも、深い海底に揺れるあやしげな“藻”が登場します:





「ずっと遠くの海原では、水は、矢車菊のとびきり美しい花びらのように蒼く、まじりけのないガラスのようにすきとおっています。でも、そこは、どんなに長い錨索も届かないほど深い深い海なのです。
〔…〕その底には、海の種族が住んでいます。

 そんな海の底にあるのは、はだかの白い砂の地面だけだろう、などと思ってはいけません!そこには何ともふしぎな木々や植物がはえていて、ほんのわずかな水の動きにも、なよやかな茎葉を、まるで生きた手足のように揺らしているのです。あらゆる種類の魚が、大きいのも小さいのも、地上で鳥が飛ぶのとおなじように、枝のあいだをすり抜けていきます。そして、その海底のいちばん深いところには、海王の居城があるのです。」

アンデルセン「人魚姫」ギトン重訳←:"Die kleine Seejungfer" hrsg. Gondrom Verlag / Gutenberg Project

(Weit draußen im Meere ist das Wasser so blau wie die Blütenblätter der schönsten Kornblume, und so klar wie das reinste Glas, aber es ist dort sehr tief, tiefer als irgendein Ankertau reicht, viele Kirchtürme müßten aufeinandergestellt werden, um vom Grunde bis über das Wasser zu reicher. Dort unten wohnt das Meervolk.

 Nun muß man nicht etwa glauben, daß dort nur der nackte, weiße Sandboden sei! Nein, da wachsen die wundersamsten Bäume und Pflanzen, deren Stiele und Blätter so geschmeidig sind, daß sie sich bei der geringsten Bewegung des Wassers rühren, als ob sie lebend wären. Alle Fische, klein und groß, schlüpfen zwischen den Zweigen hindurch, gerade wie hier oben die Vögel in der Luft. An der allertiefsten Stelle liegt des Meerkönigs Schloß. )



 ドイツ語で読んだ時のふんいきが出るように、私訳してみました↑。

 こちらのほうが、『絵のない絵本』よりもくわしく、このモチーフの雰囲気を描いています。「黒い」「暗い」といった言葉をまったく使っていないのに、背筋がぞわぞわするような海の底の蒼暗いふんいきを伝えているのは、文豪アンデルセンの神わざと言うほかないですねw

 ギトンは、この部分を外国語の朗読テープで聴いた時に、『人魚姫』というのは、こんなすごい話だったのかと、目からウロコの落ちる気がしたものでした。

 宮沢賢治も、有名な『人魚姫』はやはり英語かドイツ語で読んでいるはずですから、上の短歌を作った元地には、『絵のない絵本』だけでなく、『人魚姫』の印象もあったと思います。




 ちなみに、日本ではアンデルセンと言うと、ただの子供の本の作者としか思われていませんけれども、ヨーロッパでは違うようです。ポーランドとか、近代化の後発国では、近代文学の発生にあたって、アンデルセンの翻訳が重要な役割を演じているのです。ちょうど、ツルゲーネフなどの翻訳が、日本の近代文学の確立に果たした役割と似ているわけです。
















  林は夜の空気の底のすさまじい
(も)の群落だ。
短編『柳澤』[1920年9月]冒頭


  青ざめた薄明穹の水底に少しばかりの星がまたたき出し、胡桃や桑の木は薄くらがりにそっと手をあげごく曖昧に祈ってゐる。

  杜の杉にはふくろふの滑らかさ、昆布の黒びかり、しづかにしづかに溶け込んで行く。

短編『ラジュウムの雁』[1920年6月]冒頭





 ↑この2篇は、現存の草稿に清書されたのは 1920年ですけれども、『柳澤』は 1917年10月、高等農林在学中に弟・従弟との岩手登山、『ラジュウムの雁』は 1919年5月、花巻に帰省した同窓生阿部孝との散策を書いた短文です。

 夕闇に溶けこんでゆくスギの叢林が、水の中に揺らぐ海藻のような暗い滑らかな感触をともなって描かれています。

 さきほどの、アンデルセンの影響を受けた短歌と同様に、ざわざわした官能的な感覚をふくんでいるように思います。ちなみに、宮沢賢治もアンデルセンも同性愛者です。






  ところが烏の大尉は、眼が冴えて眠れませんでした。

  「おれはあした戦死するのだ。」大尉は呟やきながら、許嫁
(いいなづけ)のゐる杜の方にあたまを曲げました。

  その昆布のやうな黒いなめらかな梢の中では、あの若い声のいゝ砲艦が、次から次といろいろな夢を見てゐるのでした。

『注文の多い料理店』「烏の北斗七星」[1921.12.21.]





 「あの若い声のいゝ砲艦」は雌のカラスで、主人公の「烏の大尉」のいいなづけ。いいなづけのねぐらがあるスギの梢は、「昆布のやうな」ぬるぬるした官能的イメージで描かれています。






  くさはみな褐藻類にかはられた
  こここそわびしい雲の焼け野原
  風のヂグザグや黄いろの渦
  そらがせわしくひるがへる
  なんといふとげとげしたさびしさだ

『春と修羅・第1集』「真空溶媒」[1922.5.18.]




 ↑こちらの例では、同じモチーフがカリカチュアライズされていますが、空と地上の異常なようす、「わびし」さ、「さびしさ」の印象を与えています。

 このモチーフは、エロスから“愛”に向かうのではなく、むしろ宮沢賢治のもっていた心象の像としては、荒涼とした寂しい世界に引きこんでしまうようです。








 つぎに、「巨きな鳥の影」については、『第2集』の↓この印象的な作品の主題的モメントとなっています:






      
〔…〕
  いまこの荒れた河原の砂の、
  うす陽のなかにまどろめば、
  肩またせなのうら寒く
  何か不安なこの感じは
  たしかしまひの硅板岩の峠の上で
  放牧用の木柵の
  楢の扉を開けたまゝ
  みちを急いだためらしく
  そこの光ってつめたいそらや
  やどり木のある栗の木なども眼にうかぶ
  その川上の幾重の雲と
  つめたい日射しの格子のなかで
  何か知らない巨きな鳥
  かすかにごろごろ鳴いてゐる

『春と修羅・第2集』#356「旅程幻想」[1925.1.8.]






 なにか、過去に置き忘れていることを思い出せないために、未来の不安を拭い去ることができない‥‥そんな気がかりな想念が、さむざむとした薄日の中の「巨きな鳥」の影、その低い啼き声に表現されています。










「海‥‥蒸気のなかに/香ばしく息づいて泛
〔うか〕ぶ/巨きな花の蕾」。これは、伊豆大島旅行のさいに書かれた連作詩『三原三部』に、ほとんど同じ情景が書かれています:






 ……南の海の
   南の海の
   はげしい熱気とけむりのなかから
   ひらかぬまゝにさえざえ芳り
   つひにひらかず水にこぼれる
   巨きな花の蕾がある……

『三原三部』「三原 第1部」[1928.6.13.]




 「ひらかぬまゝに‥‥つひにひらかず水にこぼれる」―――つぼみのまま開くこともなく崩れてしまうのですが、芳香は、熱気のように、煙のように、激しく吹きつけてくる巨大な「花の蕾」。三原山の噴煙を海上からのぞんだ風景の印象が、もとになっているのかもしれませんが、↑この詩のスケッチは、まだ東京湾を航行しているあたりですから、大島の噴煙と決める必要はないでしょう。

 もとは噴煙か、立ち上がる積雲か、何かわからないけれども、ともかくそういう巨大な花の心象なのです。







  
      伊豆大島 三原山の噴火





 さて、文語詩〔丁丁丁丁丁〕に戻りまして、


「ゲニイめたうたう本音を出した」の「ゲニイ」は、何か化け物に向って呼びかけている名前のようですが、“語源”はドイツ語の Genie(ゲニー: 天才)だと思います。





 そして、「尊 々 殺 々 殺 ‥‥」の表記は、少しふつうと違わないでしょうか。ふつうなら「殺 々 々」と書くはずです。「殺 々 殺」と書いているのは、目で見た印象を重視しているからです。

 そうすると、この詩全体として、コトバの意味や音だけでなく、テキストを図か絵のようにみなした視覚を重視していることが考えられます。

 テキスト全体の視覚が“作品”の一部になっている賢治詩は、ほかにも例があります。⇒:『春と修羅・第1集』【9】「春と修羅」

 そこで、↑上に出した原稿の写真を、もういちど見てほしいのですが、賢治の原稿には、「丁」と同じブルーブラックインクで、横線が2本引いてあります。

 この横線は、字の高さを指定するための線と見なして、線じたいは印刷しないのが慣例なのですが、もしかすると賢治は、2本の横線も―――できれば濃青色で―――印刷するつもりだったのではないか…と考えてみます。

 すると、上の線は水面を、下の線は水底を描いているように見えないでしょうか?その水のなかに、「丁」が浮かんでいる、あるいは、詰めこまれている。

 テキスト全体の視覚を重視するのですから、ふつうの詩のように、1行目から2行目へ、2行目から3行目へ、と順番に読んでゆく必要はないと思います。まず、詩全体を視野に入れて、あとは、視線のおもむくままどこから読んでもさしつかえありません。

 なかごろに「まっくらな/塩の海」とあります。海はもともと塩からいものですが、それにさらに「塩」をかさねて「塩の海」と言うのですから、ほんとうに堪えられないほど塩からい血液、吐血のなかに溺れてゆくような事態を想像します。そして「熱/熱 熱」―――堪えられないほど熱く煮えたぎり、ぶきみに脈うつ血の海です。

 左端のほうでは、しらじらと闇が明けているようですが、そこに「巨きな花の蕾」が「泛」んで、激しく芳香しています。原稿の写真を見ると、「花の蕾」は、その大部分を水面下に沈めて浮かんでいます。

 右のほうでは、「藻」が水面の上まで伸びて、「海」全体を「まっくら」に閉ざしています。「叩きつけられてゐる」も「熱」も、半分、水面の上に出ています。何に「叩きつけられてゐる」のかはわかりませんが、ともかく作者を「海」の中に叩きつけているものは、「海」の上、高くから力を加えて来るのです。

 そして、テキストの中央にあるのが、「尊 々 殺 々 殺‥‥」と、「ゲニイ」です。

 「そん そん さつ さつ ‥‥」は、脈拍かもしれませんが、熱に浮かされた頭脳には、脈拍は脈拍として感じられないはずです。むしろ自分のいる“世界”全体が振動している、‥こまかく、せわしく、規則正しい周期で揺れているように感じるのではないでしょうか?それは、根源的な恐怖の念を呼び起こします。

 「ゲニイ」は、そのまがまがしい音が表すすがたの魔物かもしれませんが、語源を生かすならば、作者の無意識の深奥に生息する“天才”だと思います。賢治ほどの才能のある人は、見かけはどんなにへりくだっていても、自分の天分を意識していたはずです。しかも彼の場合、その天分を誇るより、むしろ非常にやっかいなもの、逃れられない宿痾のようなものと思っていたかもしれません。そして、賢治は、自分の中の“天才”が、うしろぐらい情念や、くらい官能、欲情――「黒い藻」や「鳥の影」が象徴するもの――――と、根のところで深く繋がっていることを知っていたにちがいないと思います。

 「たうたう本音を出した」とは、作者自身どうすることもできないその“天才”性が、心奥のもっとも暗い無意識につながっている本性を、いまや臆面もなく表わしたということでしょう。そして、本性を表わした以上、それは直接に作者を死へと引きずりこんでいきます。

 ここに、なおも生きたいと願う作者と、「ゲニイ」との戦いが勃発します。

 「巨きな花の蕾」が、何を象徴するのかはわかりません。それは、死に瀕した“最期の場面”で花開こうとする‥、あるいは、開かずに沈んでしまうのかもしれない、まぼろしのように曖昧な息吹きのかたち、とどめようのないその噴出なのでしょう。

 

















「宮沢賢治は擬音をさらに形而上化するところまでは、つきすすんだ。
〔…〕『尊 々 殺 々 殺』といった擬音の言葉は、漢字のかたちにつきまとうまがまがしさ、不気味さと、表音がつくっている魂の擦れあう気合いの息づかいのようなものがむすびついて、こころのある状態を音のかたちにしている。ここまできてかれが擬音を、たんに音喩(オノマトペ)以上の機能で、自分の資質の肉に喰いこんだあたりからとりだそうとしているさまが、つたわってくる。」
吉本隆明『宮沢賢治』,ちくま学芸文庫,1996,pp.332-.




 吉本氏は、1989年(初出)の『宮沢賢治』↑では、「丁丁丁丁丁」等を“「形而上化」された擬音”と呼んでいますが、それはまだ〈連続喩〉(1字による暗喩の連続したもの)という概念を立てていなかったためで、実質的には〈連続喩〉と同じことを言っているのだと思います。

 〈連続喩〉で重要なのは、字の形と表音です。ふつうの散文では、もっぱら語の持つ〈意味〉が機能を果たしているのであって、表音や字の形は、意味の伝達に関係しません。

 詩でも、普通の詩では、字の形までが役割をもつことはありません。《暗喩》も、ふつうの場合は、その語の持つ辞書的な〈意味〉が、別の語や概念を指し示す―――別の語の代行役として働く―――のが比喩の機能です。字の音や形が何かを示すわけではないのです。

 しかし、〈連続喩〉の場合には、その語の辞書的な〈意味〉以上に、音や字の形が比喩の役割を果たすのだ―――と、吉本氏は言うのです。

 音だけでなく、字の形が役割を受け持つ点で、これは単なる擬音とは異なります。








「『丁』は身体が海の水のなかで、波で岩にたたきつけられる音を表象する擬音だとみられる。そして全体は身体が高熱に浮かされ、苦しさにあえいでいる状態の暗喩になっている。この『丁』は
〔…〕文字のかたちからくる表象は、どことなく不気味な感じを与えられる。〈チョウ〉という語音とかたちからくる気味の悪さが、この音喩にふくまれているものだ。

 ( )のなかの『尊 々 殺 々 殺/殺 々 尊 々 々/尊 々 殺 々 殺/殺 々 尊 々 尊』という繰りかえしは、熱に浮かされて苦しい身体の状態を、はねかえそうとする病者(作者)の意想の状態が、作者賢治の形而上学である仏典の呪詞にちかい音と、〈とうとい〉と〈ころす〉という対照的な意味をあらわす語の組合せ、あるいは〈とうとばれる〉と〈ころされる〉という対照的な意味をあらわす語」
による「音喩とみなされる。」
吉本隆明『宮沢賢治』,pp.333-334.






 重要なことは、〈連続喩〉の場合、通常の擬音とは異なって、単に心臓の鼓動や呼吸の音をまねているのではなく、比喩として、なにか特定の対象、ないし、できごとのイメージを指し示している―――想起させているということだと思います。

 吉本氏の↑上の解釈で言えば、「熱に浮かされて苦しい身体の状態を、はねかえそうとする病者(作者)の意想の状態」が、〈連続喩〉『尊々殺々殺/‥‥‥』で指し示されている対象イメージです。




「詩の前半は高熱にきしむようにうちつけられている病身の状態の暗喩だとすれば、後半は高熱にうなされた幻覚状態の暗喩になっている。

 この幻覚の風景は、あおじろい明け方の海で、水面から蒸気がのぼって、もやのようなうす白い蒸気のなかに、おおきな花の蕾の幻覚像が呼吸のように息づいてうかんでいる。

 死の影がちかづいてくる感じをこらえて、立ちむかっているときの幻覚の光景と幻聴の音がえがかれている。」

吉本隆明『宮沢賢治』,p.334.


「概していえば、海の水のイメージのなかに、藻が黒く生えていて、もうもうと蒸気が立っている。花の蕾がうかび、明け方の青白い空のしたの幻覚風景だととれる。

 〈丁〉という擬音の響きは鼓動音とも打ちつけられる身体の響きのようにもおもえる。

 熱に浮かされ、妄想と妄語が走る。

 その病状のあえぎのなかで、密教的な呪文が制している。詩を成立させている言語は〈意味〉を伝えるようには表現されず、〈価値〉を増殖するだけのために使われている。

 宮沢賢治畢生の秀作だとおもう。その核心のところでは晩年の宗教的な境位がある種の怖さに読むものを惹き込む力をもっている。」

吉本隆明『詩学叙説』,p.33.










「詩的な暗喩や直喩は〈意味〉を加えず〈価値〉を加える性格をもっている。この詩のように暗喩の連続で〈意味〉を打消して〈価値〉だけを拡大すれば、幻想の言語だけで構成された言語空間が出現する。科学的な言葉を使えばバーチャルな空間のなかに読むものもまた入り込んだ感じになり、それを意識するとおぼろ気ながら作者の意図が浮んで来るようにおもえてくる。
〔…〕

 宮沢賢治が暗喩の連続法で試みているのは、言語意匠
〔言語によるデザイン―――ギトン注〕上のバーチャルな空間だというべきだ。

 もし言語意匠としての詩という視点からみれば、詩の技術的な極点は、宮沢賢治の『〔丁丁丁丁丁〕』のような作品につきるといっても過言にはならない。」

吉本隆明『詩学叙説』,pp.33-34.





 以上で、吉本隆明氏による宮沢賢治・文語詩論をすべて見ました//










ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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