10/16の日記

00:51
【ユーラシア】ルバイヤートと宮沢賢治(5)

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イトスギ







 こんばんは。(º.-)☆ノ





 宮沢賢治の目に触れた可能性のある2種の日本語訳『ルバイヤート』を見ていると、これは賢治作品に影響を与えているのではないか‥と思いたくなるものが、ずいぶんいろいろとありますw



 竹友訳から引くと、たとえば:



     四十四

 ゆるされし須臾
(しばし)の時に、ゆれなびく
 糸杉を汝
(なれ)が腕(かいな)に編み入れよ、
 「御母」の、雙腕
(もろうで)に汝(なれ)をたたみて、
 いやはての抱擁に溶き去るまへに。



 「ゆれなびく/糸杉」の原文は "The waving Cypress" ですが、サイプレスが、しなやかに揺らいでいるさまに注目したいのです。

 サイプレス(糸杉)は、↑上に写真を出したような、背高のっぽで、細く伸びた毛筆のような樹形です。その悲しそうな姿から、西洋では服喪・哀悼の象徴とされます。


 ところが、宮沢賢治は、もともとサイプレスと言えば、ゴッホの絵(↓下の画像)のような“燃え上がるサイプレス”をもっぱらイメージしていました。



      ※
 サイプレス
 忿
〔いか〕りは燃えて
 天雲のうづ巻をさへ灼かんとすなり
 
      ※
 天雲の
 わめきの中に湧きいでて
 いらだち燃ゆる
 サイプレスかも

『歌稿B』#759,#760


 ↑これらは、1920年末の制作と思われます。どちらも、燃え上がる“ゴッホのサイプレス”で、上の写真のような柔らかな悲しそうな糸杉からは程遠いイメージです。






ゴッホ「糸杉のある道」1890年






 ところが、1923年4月の日付を持つ詩「春と修羅」では、サイプレス(この詩では、「ZYPRESSEN[
ツィプレッセン★]」というドイツ語形で登場します)は↓つぎのように描かれます:

★ Zypressen: 糸杉(複数形)。発音は「ツュプレッセン」ないし「チュプレッセン」に近いのですが、賢治の原稿に、「ツィプ」‥と書きかけたあと「Zypressen」に訂正した箇所があります。


15ZYPRESSEN 春のいちれつ
16 くろぐろと光素(エーテル)を吸ひ
17  その暗い脚並からは
18   天山の雪の稜さへひかるのに

42まばゆい気圏の海のそこに
43(かなしみは青々ふかく)
44ZYPRESSEN しづかにゆすれ
45鳥はまた青ぞらを截る

48あたらしくそらに息つけば
49ほの白く肺はちぢまり
50(このからだそらのみぢんにちらばれ)
51いてふのこずえまたひかり
52ZYPRESSEN いよいよ黒く
53雲の火ばなは降りそそぐ


 ⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》【9】春と修羅




 サイプレスは、もともと日本には自生しない樹木ですし、植栽も、せいぜい植物園や公園、一部の高級ホテルぐらいにしか植えられませんから、実景として賢治の身の回りにはなかったはずです。なので、用例も少なく、「ZYPRESSEN」という表記で現れるのは、この詩のこの3ヶ所のみです。

 しかし、この「ツィプレッセン」は、短歌の“ゴッホのサイプレス”とはまったくイメージが違います。一列に並んで黒々と立ちつくす、深い悲しみ、静かに揺れる、まばゆい光や「雲の火ばな」を受けても、自身は燃え上がることなく、静かに揺れてじっと立つ‥‥ ゴッホのイメージから離れて、西洋での糸杉のふつうのイメージに近づいていると言えます。






  







 糸杉に対する賢治のイメージの変化は、非常に重要だと思うのですが、この 1920年と 1922年の間に、上記の竹友藻風訳『ルバイヤット』が出版されているのです(1921年3月22日発行)。この発行時に賢治は東京にいましたから、4月頃には『丸善』か他の書店で、竹友訳を見かけているはずです。

 もちろん、たまたま上記の1篇を見かけたとしても、それだけで賢治が糸杉に抱くイメージが転換するかどうかはわかりませんが、ひとつのきっかけになったことはあると思うのです。



 しかも、それだけではありません。

 賢治の他の詩作の中に、詩「春と修羅」の糸杉につながるものを捜してゆくと‥




 まず、詩「春と修羅」の収められている『心象スケッチ 春と修羅』(第1集)の中に、↓次の詩があります:



01爽かなくだもののにほひに充ち
02つめたくされた銀製の薄明穹を
03雲がどんどんかけてゐる
04黒曜ひのきやサイプレスの中を
05一疋の馬がゆつくりやつてくる
06ひとりの農夫が乘つてゐる
07もちろん農夫はからだ半分ぐらゐ
08木だちやそこらの銀のアトムに溶け
09またじぶんでも溶けてもいいとおもひながら
10あたまの大きな曖昧な馬といつしよにゆつくりくる

「風景とオルゴール」



 この「風景とオルゴール」は、前回も、中ほどの「剽悍な刺客に/暗殺されてもいいのです」のクダリを検討しましたが、

 全体にペルシャやインド、アラビアのイメージが混じりこんでいるこの詩で、「つめたくされた銀製の薄明穹」、そして「からだ半分ぐらゐ/木だちやそこらの銀のアトムに溶け/またじぶんでも溶けてもいい」という“暗く静かな陶酔”の気分に包み込まれた・この「サイプレス」は、烈火のような“ゴッホのサイプレス”ではなく、詩「春と修羅」の“黒々とたたずむツィプレッセン”でなければなりません。
ゆらぐ蜉蝣文字 8.4.1 ←こちらで解説を書いた時は、「サイプレス」という語の一致から、短歌の“ゴッホのサイプレス”のほうだと思ってしまいました。訂正しておかなければいけませんねw)


 「サイプレス」という語が使われていても、この「サイプレス」は、1921年の『ルバイヤート』体験によってイメージが転換した後なのですから、もう“ゴッホのサイプレス”ではないのです。


 ちなみに、この詩は、実景のスケッチとしては、豊沢川沿い、「渡り橋」付近の峡谷です。⇒:鉛街道(1) ⇒:鉛街道(2)

 こんな場所に西洋のイトスギが植えられていたとは思えませんから、この「サイプレス」は、実景としてはヒノキかスギでしょう。“ゴッホのサイプレス”ではなく、しなやかなイトスギであることから考えれば、ヒノキだと思います。

 暮色に沈む道沿いのヒノキ林を見て、暗くシルエットになった「黒曜ひのき」や、細く伸びた梢を静かにそよがせる「サイプレス」のヒノキを詠っているのです。







アルノルト・ベックリン「死者の島」





 もう一つ手がかりを出しましょう。

 詩「春と修羅」は、1921年末からこの時期までに書かれた習作『冬のスケッチ』に、詩作のもとになったと思われる断片を有しています。次はその一部ですが、黄色字の語句が対応しています:




灰いろはがねいかりをいだき
 われひとひらの粘土地を過ぎ
 がけの下にて青くさの黄金を見
 がけをのぼりてかれくさをふめり
 雪きららかに落ち来れり。」

『冬のスケッチ』(44)4



01心象のはいいろはがねから
02あけびのつるはくもにからまり
03のばらのやぶや腐植の湿地
04いちめんのいちめんの諂曲模様
05(正午の管楽よりもしげく
06 琥珀のかけらがそそぐとき)
07いかりのにがさまた青さ

「春と修羅」





 ところで、詩「春と修羅」を含む口語詩集『心象スケッチ 春と修羅』を出版した 1924年よりずっと後なのですが、上の『冬のスケッチ』のテキストを、今度は文語詩に改作しているのです。その文語詩草稿は、数次にわたる逐次改稿形が残っているのですが、いまここで見たいのは、そのうち最初の改稿テキスト、つまり『冬のスケッチ』(44)4 に少しだけ手を加えたものです:



「灰鋳鉄のいかりをいだき
 われひとひらの粘土地を過ぎ
 がけの下にて青くさの黄金なるを見
 がけをのぼりてかれ草をふめば
 雪きららかに落ち来りけり
 あゝサイプレス一列黒くならべるを
 きみをおもひておどる胸かな

文語詩〔卑屈の友らをいきどほろしく〕【下書稿(二)】


 いちばん大きな改訂は、水色で示した2行を付け加えたことです。

 【下書稿(三)】以降を見てゆくと、口語詩「春と修羅」を参照しながら全体を文語詩に直して行っていますから、↑上の追加部分の「サイプレス一列黒くならべるを」も、口語詩の


15   ZYPRESSEN 春のいちれつ
16    くろぐろと光素
(エーテル)を吸ひ


 に対応していることになります。

 口語詩「春と修羅」は、「mental sketch modified」という副題がついているように、実景のスケッチに相当何度も手を加えて、現実の風景とはかけ離れた夢幻的世界に仕上げていますが、『冬のスケッチ』と文語詩のほうは、より現実の風景に近いと思われます。

 『冬のスケッチ』の前後の段落の内容を見ると、場所は花巻城址・本丸の北側の崖のようです。「一列黒くなら」んでいる「サイプレス」は、ヒノキでしょうか?スギでしょうか? この場所は、当時「早坂の黒杉」と呼ばれた杉林だったそうですが、ヒノキの列もあったのかもしれません。いずれにしろ、100年近くたった現在では木立のようすはまったく変ってしまっているでしょうから、現在の状態からは判りません。

 



      花巻城址 北側の崖




 しかし、より重要なのは最後の行:


「きみをおもひておどる胸かな」


 です。作者は、花巻城址の「サイプレス」―――「春のいちれつ」を見て、誰かを思い出し、胸を躍らせたというのです。



 宮沢賢治は、晩年の文語詩制作を始めた 1931年前後は、自分の半生を振り返って、各時期の重要な事件や思い出を文語詩にして行ったと言われています。

 上の【下書稿(二)】も、そうした自叙伝的な作品だとすれば、「きみをおもひておどる胸かな」も、『冬のスケッチ』を書いた 1922年春ころ、風にそよぐお城のヒノキの「春のいちれつ」を見て、誰かを思い出し、胸を躍らせていたことになります。



 『冬のスケッチ』は、それだけを見れば、悲しさと苦悩だけが伝わって来るようですが、当時の作者の実際の生活感情には、もっとうきうきとした面があったのだと思います。悩みながらも、思慕の対象となる「きみ」を思って胸を躍らせてもいたのです。

 





 そこで、その“思慕の対象”は誰なのかが問題なのですが………



 この論点は、あらゆる憶測が飛び交っているようで、現在もまったく解決されていません。

 しかし、相手がどこかの女性だと主張する人たちの意見は、いずれも非常にあいまいな憶測話や、“私は知っているのだが”式の思わせぶり(失礼!)に終始していて、しかも何も証拠がないという点だけは共通しているようです。


 これに対して、菅原千恵子さんは、『冬のスケッチ』での賢治の恋慕の対象は、盛岡高等農林での賢治の“ただひとりの「まことの恋人」”、《アザリア》の盟友・保阪嘉内であったことを、詳細にテキストを引いて述べておられます。⇒:菅原千恵子『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』(kindle版)(1分で無料試読、300円で入手できます!!)

 ⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》たったひとりの恋人──保阪嘉内




 つまり‥、詩「春と修羅」に描かれた「春のいちれつ」「ツィプレッセン」は、『ルバイヤート』にふれて得られた優美な樹形の詩的モチーフであっただけではなく、賢治にとっては、嘉内との交情と“誓い”を思い出させる胸躍るシンボルの一つであったのです。⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》1.9.11












 「サイプレス」については、よく考えて探ってみると、まだまだ何か出て来そうですが、いまはこのくらいにして、次のルバイイに移りたいと思います:



     八十三

 またこれを知れり、ひとつの「眞
(まこと)」の光、
 愛に燃え、憤
(いかり)にわれを燬(や)きつくすとも、
 タヴァンにて捉へたるその一閃
(ひらめき)は、
 寺院にて失ひはてしものにまされり。



 ↑これも、フィッツジェラルド経由の竹友訳ですが、性愛による激しい愛憎の「閃き」は、寺院で神にすがって「失ひはて」たものに優ると言うのです。「まことの光」という言葉が、このような意味で使われている詩句に、賢治は衝撃を受けなかったでしょうか?‥


 そこで、眼を詩「春と修羅」に戻してみると、↓つぎのような表現があります:

 

20      まことのことばはうしなはれ
21     雲はちぎれてそらをとぶ

46(まことのことばはここになく
47 修羅のなみだはつちにふる)




 「まことのことば」とは何なのか? ‥これまた諸説紛々としていてよく分かりませんが、

 かつては「打てば響く」間柄であった嘉内との間で、「ことば」の通じないようなもどかしさを味わった時、‥“愛”は失われたと感じた時、‥その悲しみを、


「まことのことばはうしなはれ」

「まことのことばはここになく」


 と表現したのだとすれば、この詩はひじょうに分かりやすくなるでしょう。



 もちろん、「まことのことば」の意味内容は、それだけではないはずです。しかし、そうした面にも照明をあてたほうが、この詩集全体の流れ(「とし子」だけではない!!)は、よりよく理解できるはずです‥





 








ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: ユーラシア

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