ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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【8】 たったひとりの恋人──保阪嘉内





0.8.1


宮澤賢治には、同性の恋人がいました。

宮澤家は、地元・岩手県花巻の旧家であり、賢治は長男でした。
宮澤賢治の生きた時代の日本で、地方の旧家の長男(あと取り息子)が、自宅に住んでいるのに(つまり、出家して寺に入ったわけでも、家を出て放浪しているわけでもないのに)結婚しないなどということは、とうてい許されることではありませんでした。

にもかかわらず、賢治が独身を通したのは、禁欲主義を貫いたからだと、──これまで宮澤賢治について語ったり書いたりした専門家の大部分は、そう説明してきましたし、読者は、そう信じてきました。

しかし、宮澤賢治の生涯のさまざまな事実が発掘されるにつれ、彼の生活ぶりはあまり禁欲的ではなかったということ、また、思想的に禁欲を信念にしていたとは見られないこと☆、などが明らかになってきました。

むしろ、彼は、並ぶ者のないほどの春画浮世絵★のコレクターでしたし、フロイトの精神分析などの性知識にも精通していました◇

☆(注) 森惣一氏によれば、宮澤賢治は、1931年7月訪ねて来た際に、性行為は人間が「どうしてもしなくてはならない自然の行為で、これをいやしめるのは、もっとも悪い思想だ。」という森の話に大賛成だと言い、自分の「禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ。大きな反動がきて病気になったのです。」「何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。」と語ったと言います。森荘已池『宮沢賢治の肖像』,1974,津軽書房,pp.176-177. この部分は、森氏の日記の抜書きなので、信憑性が高いと思われます。

★(注) 「春画」は、性器を大胆に露出しているセックスのありさまを描いた浮世絵。大部分は男女の性交ですが、男性同性愛、女性同性愛のものもあります。

◇(注) 賢治は、ハバロック・エリス『性学体系』を英語の原書で読んでいました(『宮沢賢治の肖像』,pp.176,275)

賢治が独身を通したのは、
禁欲主義のためではなく、彼が同性愛者だったからだと考えられるのです。

彼は、次々にいろいろな同性に心惹かれ、交際を望むという同性愛者一般の傾向を示しつつも、生涯ただひとりの同性の恋人を一途に愛し続けました。

その意味では、単に同性愛者だっただけでなく、同性愛の模範のひとりとなりうる先駆者だったのです。

宮沢賢治の“ただひとりの恋人”であり心友であった保阪嘉内◆の存在が世に知られるようになったのは、
1968年、嘉内の令息・保阪庸夫氏が、賢治研究者・小沢俊郎氏の協力によって、亡父から継承した宮澤賢治の多数の書簡を、『宮沢賢治 友への手紙』として公表したことに始まります。

◆(注) 「かない」と読みます。沖縄・奄美の理想郷(他界)伝承“ニライカナイ”から名づけられました。

この書簡集を熟読した読者のひとりであった菅原千恵子氏は、これを大学の卒業論文のテーマに選び、さらに研究を続けた成果を、1993年宝島社から『宮沢賢治の青春──“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』という題名で出版しました(現在は⇒角川文庫10533

菅原氏は、この書の中で、『友への手紙』収録の嘉内宛て書簡のほか、賢治の短歌・詩作品を丹念に読み解いて、“同性の恋人”嘉内と賢治の波乱に満ちた恋と友情を追跡し、描き出しています。

『宮沢賢治の青春』から少し引用しますと:

「賢治が保阪嘉内に送った手紙は、
〔父や雇主への手紙とは──ギトン注〕比較にならないほどの生の告白で埋められている。〔…〕
賢治が強烈な自我をむき出しにして、嘉内に共に同じ道を歩くことを求め、そしてすがりつくように『我を棄てるな』と哀願し、にもかかわらず結局別れてしまった友。

 この事件は、彼の人生に何の影響も与えなかったというのだろうか。〔…〕『ただ一人の友』保阪嘉内との激しい訣別こそ、後の賢治に難解で厖大な作品を書かせることになった賢治の大きな文学的事件であったと私は考えている。」
(pp.11-12)




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