03/02の日記

00:49
【宮沢賢治】旅程ミステリー:東海篇(6)

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(6)深夜か?真昼か?箱根越え‥





 “ふたご座”に祈りを捧げた宮澤賢治‥19歳の彼は、何を祈ったのでしょうか?

 そこには、“法華経一辺倒”の宗教者とは異なる・感受性にあふれた青年の姿が見えるのではないでしょうか?






 





 さて‥“箱根越え”は、夜を突いて行われたのか?

 それとも、三島に泊って翌朝出発したのか?

 この問題はまだ解決していませんでした。



 大谷良之氏の回想記によると、一行は、旧街道伝いに徒歩で踏破した‥ということですから、

 その経路で、三島から箱根湯本まで、どのくらいかかるかを、まず考えなければなりません。



 マピオンで旧街道(石畳道)に沿って距離を測ると:


 三島駅(0km) ── 三島大社(0.9km) ── 山中城址(10.1km) ── 箱根峠(13.9km) ── 関所跡(15.6km) ── 甘酒茶屋(18.7km) ── 畑宿(20.9km) ── 箱根湯本(三枚橋)(26.6km)

 合計 26.6km になります。

 標高は、三島駅が 25m, 最高点の箱根峠が 846m, 湯本の最低点・三枚橋詰が 83m です。三島から箱根峠までは、ほぼ登りのみ。箱根峠から湯本までは、川の渡渉点で数メートルの登りがあるほかは、すべて下りです。 



 そこで、れいの健脚者向きの公式で計算すると:

 26.6km ÷ 4km/h = 6時間39分

 (848m − 25m)× 6min = 49分

 6時間39分 + 49分 = 7時間28分

 三島駅から湯本まで、約7時間半の計算です。



 そのうち、三島駅から関所跡までは:

 15.6km ÷ 4km/h + 49分 = 4時間43分、

 関所跡から湯本までは:

 11.0km ÷ 4km/h = 2時間45分 となります。




 しかし、このタイムは休憩時間を入れていませんし、大谷氏の回想によると:




「旧街道を行こうということになつて、丸い玉石を敷きつめた石畳の旧街道を馬鹿話をしたり、カチユーシヤを歌つたり弥次喜多気分で登つて行つた。関所跡も近づいて
〔…〕
(新校本全集『年譜』から再引)



 となっていて、のんびりしたぶらぶら歩きのようです。登山者のスピードで駆け抜けたとは思えません。

 そういうわけで、一行は、たとえ急いだとしても、8時間はかかっているはずです。途中、茶屋に寄って食事をしたり、甘酒茶屋で甘酒を飲んだりw、露頭の岩石を観察したり‥、といった時間を含めて、じっさいには、10時間前後かかったのではないかと、ギトンは思います。






 




〔A〕 三島駅下車後、直ちに歩き始めた場合



 そこで、一行の旅程を推定するために、まず、19時に三島駅で降りて、そのまま夜通し歩いた場合を考えてみます。


 関所跡に着くのは、早くて24時頃。ゆっくり登れば、午前2〜3時頃かもしれません。

 全行程に10時間かかったとして、箱根湯本は、朝5時頃です。

 この日(1916年3月30日)、箱根関所跡での日の出時刻は、5時34分ですから、まだ夜は明けていません。



 しかし、この想定は、大谷氏の:


「関所跡も近づいて土地も広く開け畑地が右側に見える所にさしかかつた。『関所までどれ位ありますか』と農夫に聞いたところ『そうじやのー、あと二里あるで』と返答があつた。
〔…〕


 という話と矛盾します。

 ↑これは、畑が見えたとか、農夫がいたとか、どう見ても昼間の状況だからです。



 また、賢治の短歌を見ても:



268 輝石たちこゝろせわしくさよならを言ひかはすらん凾根のうすひ

269 別れたる鉱物たちのなげくらめはこねの山のうすれ日にして

270 ひわ色の重きやま\/うちならびはこねのひるのうれひをめぐる

271 うすびかるうれひのうちにひわ色の笹山ならぶ凾根やまかな

272 風わたりしらむうれひのみづうみをめぐりて重き春のやまやま

(『歌稿A』#268-272)



 「凾根のうすひ」「はこねの山のうすれ日」「はこねの昼の愁ひをめぐる」「湖をめぐりて重き春の山々」───など、芦ノ湖畔の関所跡、元箱根のあたりを通過したのは、薄れ日の昼間です。



 したがって、この想定は、受け入れることができません。











〔B〕 三島で宿泊し、翌朝歩き始めた場合



 朝早く三島の宿屋を出発したとして、


 日の出前の午前5時に出たとすれば、関所跡は午前10時以降、湯本に着くのは午後3時前後になります。

 これならば、山の上では真昼ですから、↑上記の大谷氏の話とも、賢治の短歌とも矛盾しません。



 しかし、この想定は、湯本で電車に乗った後の日程に困難が生ずるのです:

 

(小田原電車鉄道)
・・・・ ・@ ・A ・B ・C
湯本発・ 1409 1435 1501 1553
国府津着 1511 1535 1601 1653

(官営鉄道)
・・・・ ・D ・E ・F
国府津発 1534 1625 1706
新橋発・ 1824 1854 1937
東京着・ 1830 1900 1945



 新橋、東京に着くのは、早くて午後6時半。箱根でゆっくり歩いていれば、午後8時近くになってしまいます。

 ところが、賢治の短歌を見ますと:




273 うるはしく猫睛石はひかれどもひとのうれひはせんすべもなし

274 そらしろくこの東京の人群にまじりてひとり京橋に行く

275 浅草の木馬に乗りて哂ひつゝ夜汽車を待てどこゝろまぎれず

276 つぶらなる白き夕日は喪神のかゞみのごとくかゝるなりけり

(『歌稿A』#273-276)




 #273 の「猫睛石(ねこめいし;キャッツアイ)」は、金緑石の一種で、半透明な結晶の中に、猫の瞳のような光の筋が見える宝石:⇒金緑石 3.5.30『小岩井農場・パート4』。魔除けの力があるとされます。

 これは、上野の『帝室博物館』「鉱物陳列館」に展示されていた鉱石標本ではないかと思われます:⇒トキーオ(16)

 #274 の「京橋」は、京橋区木挽町の『古宇田病院』に入院していた伯母・瀬川コトを見舞いに行ったと推定されています。⇒8.4.18「風景とオルゴール」 9.3.15《補論》

 #275 の「浅草の木馬」は、浅草の『木馬館』にあった日本最初のカルーセル(メリー・ゴーラウンド)。おそらく、同級生たちと、浅草で待ち合わせて、23時発青森行き列車までの時間をつぶしたのだと思われます。

 瀬川コトを見舞った後、友人達と合流しても心がまぎれず、コトの安否を気遣う気持がずっと続いているようすをうかがうことができます。


 しかし、この #276 に至ってもなお、空に出ているのは「白き夕日」なのです。

 これらの短歌の順序が、じっさいの出来事、叙景の順序に従っているとすると、


 東海道線上り列車で東京に着いたあと、上野へ行き、京橋へ行き、病人の見舞いをして、浅草で友人達と合流してメリー・ゴーラウンドに乗り、時間を潰している時点で、まだ日没前だったことになります。


 午後6時半以降に東京に着いたにしては、これは変です。1916年3月30日、東京駅での日没時刻は、午後6時ちょうどです。



 もし、#273,276 の歌が、時間の順序に並んでいないとしても、#274 には:


  「空白く」


 とありますから、まだ明るい時刻に京橋に向かっているはずです。しかし、↑上の列車時刻だと、新橋、あるいは東京駅に着いた時には、もう暗くなっています。


 また、そのあと京橋から浅草へ移動すると、午後9時頃になるのではないでしょうか?‥そんな遅い時間に(当時)『木馬館』が開いていたかどうか、疑問です。


 たとえ、『古宇多病院』と『木馬館』を急いで回れたとしても、『帝室博物館』の「ねこめいし」までは無理でしょう。博物館は、列車が到着する午後6時半より前に終っているでしょうから‥



 そういうわけで、この想定も(絶対に違うとは言い切れませんが)やはり無理が大きいのです。






 





〔C〕 箱根で野宿した場合



 ナイト・ハイクの想定が、“昼間の箱根山頂”と矛盾してしまうとしたら、夜が明けるまで、どこかで野宿したと考えては、どうでしょうか?


 3月末の山中は、まだ寒く、防寒の備えの無い彼らは身にこたえたことでしょうけれども、野宿が不可能というわけではありません。


 その場合、芦ノ湖畔、関所跡付近は、明るくなってからでなければなりません。日の出は5時半ですから、「ひる」と言っている短歌(#270)がある以上、少なくとも7時頃までは、山の上(芦ノ湖付近)に居なければならないでしょう。

 それから山を下りると、湯本に着くのは、早くて午前10時、‥正午前後と見なければなりません。






(小田原電車鉄道)
・・・・ ・@ ・A ・B ・C ・D
湯本発・ 1015 1041 1107 1133 1225
国府津着 1115 1141 1207 1235 1325

(官営鉄道)
・・・・ ・E (F) ・G ・H
国府津発 1145 1230 1300 1359
新橋発・ 1411 1426 1539 1654
東京着・ 1417 1435 1545 1700



 いちばん早く東京に着いた場合で、Eの14時過ぎです。

 Fは急行列車ですから利用しにくいでしょう。

 お昼に湯本を出た場合(D)は、東京に着くのは17時です。



 14時過ぎに新橋か東京で降りて京橋へ行き、急いで上野へ向かえば、『帝室博物館』の閉門時間に間に合うかもしれません。そのあとで浅草へ行ったとすれば、短歌の風景は、いちおう説明がつきます。

 しかし、湯本到着が11時以降になって、G,Hで東京に向かったとすれば、間に合いません。。。


 なんと忙しいことでしょう‥



 この想定も、“弥次喜多気分”で道中したにしては気ぜわしく、無理があります。

 それに、何よりも、3月末に箱根山中で野宿という“耐寒合宿”なみの想定が適当でないのです。




 




〔D〕 三島で泊り、東京でも泊った場合



 そこで、やはり三島には泊ったと考えなければならないと思います。

 その場合、


267 さそり座よむかしはさこそ祈りしがふたゝびこゝにきらめかんとは


 の歌は、夜半過ぎに三島の旅館から(眠れなくて庭に降りたか?)南の空を眺めたことになります。

 そして〔B〕で見たように、東京に着くのは、午後6時半ないし8時ころ。

 午後11時上野発青森行きには十分に間に合いますから、同級生たちは上野から夜汽車に乗ったことでしょう。しかし、宮澤賢治ひとりは、上京のついでに瀬川コトを見舞って父に報告するという用事があるので(修学旅行の往路にも、東京で自由行動の時間がありましたが、同級生との行動を優先したのかもしれません‥)、東京に残ったと考えてみます。

 (おそらく)上野の旅館に泊った賢治は、翌3月31日午前に『帝室博物館』で、お気に入りの「ねこめいし」ほか“鉱物たち”と再会したあと、京橋の『古宇多病院』に瀬川コトを見舞います。

 上野に戻って来ても、まだ日は高いので、浅草の『木馬館』へ行ってカルーセルに乗りますが、‥‥「哂ひつゝ」は、友人たちとではなくて、遊びに来ていた子供たちと、はしゃいだのでしょう‥‥友人たちもそばにいないので、心がまぎれません。



275 浅草の木馬に乗りて哂ひつゝ夜汽車を待てどこゝろまぎれず

276 つぶらなる白き夕日は喪神のかゞみのごとくかゝるなりけり



 けっきょく、夜汽車の時間まで待っていることができなくて、東北方面の途中まで行く列車に身を投じてしまいます。#276 は、夕方の車窓からの風景でしょう。



 このような想定は、じつは、勝手に想像しているわけではなくて、裏づけがあるのです:

 

「旅行中はいろいろ御世話になりまして何とも有り難うございます。

 この旅行の終りの頃のたよりなさ淋しさと云つたら仕方ありませんでした。富士川を越えるときも又黎明の阿武隈の高原にもどんなに一心に観音を念じてもすこしの心のゆるみより得られませんでした。聖道門の修行者には私は余り弱いのです。

 東京のそらも白く仙台のそらも白くなつかしいアンモン介や月長石やの中にあつたし胸は踊らず旅労れに鋭くなつた神経には何を見てもはたはたとゆらめいて涙ぐまれました。

 こんなとき丁度汽車があなたの増田町を通るとき島津大等先生がひよつとうしろの客車から歩いて来られました。

 仙台の停車場で私は三時間半分睡り又半分泣いてゐました。宅へ帰つてやうやく雪のひかりに平常になつたやうです。

 昨日大等さんのところへ行つて来ました」

(1916年4月4日付 高橋秀松宛て葉書[書簡15]消印:4.4.花巻)



 ↑これは、花巻の自宅に戻ってから、修学旅行に同行した(伊勢旅行には同行しなかったようです)同級生の高橋秀松に宛てた葉書です。

 高橋の実家は宮城県名取郡増田町で、仙台の少し東京寄りです。

 「大等」は、盛岡・願教寺の住職・島地大等(↑文中の「島津」は賢治の誤記?東北弁?!)。浄土真宗の僧侶ですが、仏教学者として東京の大学等で教えており、東京と盛岡を往復していました。

 ↑文中に、「富士川を越えるときも」とあるので、やはり↓この歌は、汽車で富士川鉄橋を渡る時に詠んだことが判ります(⇒駿河路(2)):



264 日沈みてかなしみしばし凪ぎたるをあかあか燃ゆる富士すその野火



 「東京のそらも白く仙台のそらも白く」とあるので、帰路の東京で昼間の空を見ていることは確実です。やはり、東海道線からすぐに上野発の夜汽車に乗り継がないで、東京で昼間一日を過ごしたと考えてよさそうです。

 重要なのは、仙台でも昼間の空を見ていること、また、「仙台の停車場で私は三時間」半睡していたという記述です。





・・・・ ・B ・C ・D ・E
・行先 青森 一ノ関 (青森) 青森
上野発・ 1300 1810 2100 2300

福島着・ 2026 0305 0350 0534
福島発・ 2031 0310 ── 0540

仙台着・ 2250 0518 ── 0735
仙台発・ 2300 0530 ── 0742

一ノ関着 0124 0900 ── 0947
一ノ関発 0130 1010 ── 0958

花巻発・ 0301 1221 ── 1101

盛岡着・ 0355 1328 ── 1154



 賢治が、カルーセルに乗って時間をつぶしていたのは、Eの「夜汽車」に乗るためだと思います。

 『帝室博物館』をゆっくりと見て、京橋の病院に行って来れば、午後1時発のBには間に合わないでしょう。その後の直通列車は、10時間後のEまで無いのです。

 しかし、どうにも待ちきれなくなって、午後6時10分発のC一ノ関行きに乗ってしまったのだと思います。

 Cで一ノ関まで行けば、1時間10分の待ち合わせで、一ノ関発尻内行きに接続するのですが、賢治は‥‥汽車旅に疲れたためでしょうか?時刻表を持っていなかったのでしょうか?‥‥仙台で降りて、上野で乗るはずだったEが来るのを待ち合わせたのです。

 仙台での待ち時間は2時間24分。↑書簡の「三時間」は、少し誇張しているのだと思います。

 ともかく、仙台発は午前7時42分で、もう夜は明けています。“仙台の白い空”が見えたことでしょう。

 こうして、花巻に着いたのは、4月1日午前11時。一日休んでから、4月3日に盛岡の願教寺に島地大等を訪ね※、4日は花巻の実家で↑この葉書を書いているわけです。

 ↑文中、


「旅労
〔づか〕れに鋭くなつた神経には何を見てもはたはたとゆらめいて涙ぐまれました。」


 と書いているのも示唆的です。




265 あゝつひにふたゝびわれにおとづれしかの水色のそらのはためき

266 いかでわれふたたびかくはねがふべきたゞ夢の海しら帆はせ行け


283 双子座のあはきひかりはまたわれに告げて顫ひぬ水色のうれひ

(『歌稿A』#283-285)



 ↑これらの歌に詠まれている「水色のそらのはためき」「たゞ夢の海 しら帆はせ行け」、そして、空にふるえる「水色のうれひ」───これらの感覚は、「何を見てもはたはたとゆらめ」く・寄る辺ない不安な感情と結びついているのだと思います。




※ なお、島地大等は、なぜ賢治の列車に乗り合わせたのでしょうか?賢治が車内を歩いて行く大等を見かけたのは、仙台に着く少し前(宮城県名取郡増田町)です。つまり、一ノ関行きの車内です。仙台に用事があったのかもしれませんが、‥ギトンが思うには:大等は、檀家数随一の浄土真宗の住職・兼・大学教員の“偉いさん”で、お金持ちです(たぶん、無尽講で破産した田中智学なんかよりもずっと‥w)。東京・盛岡間の往復も、賢治のような庶民とは違って、直通の鈍行列車で徹夜して行くなんてことはしなかったと思うのです。途中、仙台辺りで一泊して行ったと思います。いずれにしろ、車内を移動していたのは、仙台で、改札口に近い車両から降りるためでしょう。だとすると、賢治は、大等を追いかけて、仙台駅のホームに降りた処で挨拶したのではないでしょうか?「ああ‥花巻の宮澤君か。お父様はお元気ですか?‥3日には盛岡に戻ってますから、また参禅にでもいらっしゃい。」なんてやりとりだったかもしれません。そうだとすると、賢治が仙台駅で「三時間」過ごしたわけも判ります。大等に挨拶するために、乗っていた汽車を降りてしまったのです。











 以上のようなわけで、ギトンとしては、三島で宿泊し、昼の箱根を越えて、東京で同級生たちと別れ、さらに丸一日を東京で過ごしたと考えたいと思います。

 そう考えてはじめて、賢治の書簡も短歌群も、十全に理解することができます。







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カテゴリ: 宮沢賢治

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