ゆらぐ蜉蝣文字
□第9章 《えぴ》
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9.3.15
その点に関して興味をひくのは:
「茲に対話は一段落を告げた、」
の後で、斉藤と宮沢の間で、「農村の疲弊」、「宗教家の軋轢」(保守的な花巻で、キリスト教徒、日蓮信者として、周囲の白眼視と闘ってきた両名の共感が想像されます)、「教育の不振」に関する社会批判の会話が交わされていることです。そして:
「それでも我等には行くべき道があるとて
悲憤より脱し
屈託より踊り出で」
て、二人は決意を新たにしたと言うのです。宮沢賢治は斎藤に対して、「老青年の奮励を促し」励ました‥。
賢治と妹の間の「切なる愛情の交換」という、肉親・内輪の個人的心情を詠った詩篇から、このような社会の中での生き方を視野に据えた感想が、ただちに出てきているということに注目すべきです。
おそらく、それこそが、賢治をして、
「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」
の1行を書き加えさせた動機ではなかったかと思うのです。
ところで:
「| 黙読反復
| 若き兄妹の永訣の朝の真情濃かなる場面に
| 我と我身を投じて堪えられぬ感に入った
| 青年は側より善し悪しは別です只其通りです≠ニ語った
| 予には発すべき言葉は無かった、
| 茲に対話は一段落を告げた、」
上の「予には発すべき言葉は無かった、」のあとに、省略された部分があるのです。『新校本全集』の「年譜」によると:
「『二荊自叙伝』のもとになった原日記には、『予には発すべき言葉は無かった、』の後に、叔母コトの死とその経緯をめぐる『家族組織、社会組織の不完全を嘆』く賢治の思いに関する言及が挿まれている。」
この「叔母コト」(瀬川コト、旧姓宮澤コト)の死に関して、『二荊自叙伝』では、同年2月21-23日頃の記事に言及があります:
「 ◎瀬川弥右衛門氏の夫人を悼む
花巻、四日市裏なる瀬川弥右衛門氏の自宅を訪うて琴子夫人を亡いしに対する同情を述べた、氏は此事に就ての談話を成るべく避けんとする傾向が見えたから、予も礼儀としての二三言を語ったきり外の事に話頭を向けた。」
宮澤琴子については、すでに『銀河鉄道の夜』の《ライラの宿》のモチーフを与えた人として取り上げました(⇒:8.4.18)。1895年生まれで宮沢賢治の1歳年上ですが、母方の叔母にあたります。
浄土真宗改革派の僧・暁烏敏は、琴子について:
「いつまでもそのあどけなき笑顔にて仏の国の道しるべせよ」
と詠っているほど、琴子は早熟な宗教者でした。1915年20歳で、花巻第一の富豪・瀬川周蔵(のち、弥右衛門を襲名)と結婚しましたが、まもなく病床に就き、1924年2月4日☆東北帝大附属病院で死亡するまで、東京の古宇田病院に入退院していました。琴子の持病は、「年譜」の記述(堀尾青史氏によるもの)によれば、賢治、トシらと同じ肺結核でした。賢治、トシは、在京の折りにはしばしば古宇田病院に琴子を見舞っています。
☆(注) 死亡日は、『新校本宮澤賢治全集』「年譜」では2月4日、栗原論文では1月30日となっています。
ところで、↑上の『二荊自叙伝』の引用では、斎藤宗次郎が琴子のお悔やみのために瀬川家を訪れたところ、夫の弥右衛門(周蔵)は、なぜか、故人の話題を避けようとしたというのです。
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