ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.4.18


「そして青い橄欖の森が見えない天の川の向ふにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまひ、そこから流れて来るあやしい楽器の音ももう汽車のひゞきや風の音にすり耗らされて聞こえないやうになりました。

 『あの森琴(ライラ)の宿でせう。あたしきっとあの森の中に立派なお姫さまが竪琴を鳴らしてゐらっしゃると思ふわ、お附きの腰元や何かが立って青い孔雀の羽でうしろからあをいであげてゐるわ。』

 カムパネルラのとなりに居た女の子が云ひました。

 それが不思議に誰にもそんな気持ちがするのでした。第一その小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってゐるのはきっとその孔雀のはねの反射だらうかと思ひました。」
(初期形一)

「琴(ライラ)の宿」は、星座の“琴座”を指すと思われますが★、そこには、竪琴を鳴らす「お姫さま」を中心に、「青い孔雀の羽」で扇いでいる「腰元」たちがいると言うのです。

★(注) 古代中国の天文学では、星座を「星宿」と言い、「〜宿」と呼びます。たとえば、「参(しん)宿」は、オリオン座の“三ツ星”です。

「お姫さま」は、主星ベガ、「腰元や何か」は、“琴座”を構成する他の星(その中には3等星シェリアクのような青色輝星もあります)、という対応が明らかです。

この「琴(ライラ)の宿」の描写は、→【初期形二】→【初期形三】→【最終形】と行くにしたがって、「お姫さま」と「腰元」が消されて、「むかしの大きなオーケストラの人たち」になり、やがてそれも無くなって、「琴(ライラ)の宿」は「青い橄欖の森」になり、そこに青い孔雀がたくさん集まっていた、というだけになってしまいます。

ただ、孔雀の羽の青い反射で青く輝く星◇、というモチーフは最後まで残っています。

◇(注) 最終的には、オーケストラが無くなって讃美歌になっているのも、“孔雀”がカトリックの重要なシンボル(復活、永遠の生命を表す)であることと併せて、たいへん興味をそそります。

【初期形一】にあった「琴(ライラ)の宿」で琴を弾く「お姫さま」は、主星ベガであり、「青い星」にほかならないわけですが、これは、“誰”なのでしょうか?‥“よだか”とはイメージが異なるようです。。。

ここからは着想段階の試論なのですが、宮澤賢治には、「宮澤コト(琴子)」という同年代の叔母(1895-1924.2.4.; 賢治の母イチの末妹)がいました。

1906年、賢治の父・宮澤政次郎らが主宰した花巻・大沢温泉での夏期仏教講習会に、講師として来花した暁烏敏の日記には、講習会に参加した賢治ら子女との交友のようすも記されていますが、8月4日、新鉛温泉に遊覧した帰途の道すがら、政次郎と琴子との問答に「興を覚え」、知らない間に大沢温泉に着いていた、として、問答を↓つぎのように記録しています◆。この時、琴子は11歳でした:

◆(注) 栗原敦,op.cit.,pp.33-34.

「政
〔政次郎──ギトン注〕曰く 心はいかに
 こと曰く 心は円きもの光るものにして内に仏あり。(十二才)
 又曰く 妾は身体は弱けれど心は強し。仏在せば也
 政曰く 人生の目的はいかゞ
 こと曰く 母さんにたのまれて生れたり。仏、妾に行って来いと申されければ生れたり。この生に来れるは仏をほめ、世の人に平和を与へんが為也と
 少女の信、嘉すべきかな (八月四日)」

確信に充ちたあっぱれな仏教少女と言うほかはありませんが、政次郎・賢治父子も、琴子には一目置いていたのではないでしょうか。

その琴子は、1921年、賢治が東京に出奔・滞在していた時に、京橋の古宇田病院に入院しており(腎臓病?)、1924年はじめに亡くなっています。死因は、トシ、賢治と同じ肺疾かもしれません:⇒画像ファイル:古宇田病院

賢治は、東京では、古宇田病院へ頻繁に琴子の見舞いに行っていて、父宛の手紙では、「一日隔[お]き位にお見舞しては居ります」(書簡[189])と書いているほどです。(当時、トシも病気がちで、女学校を退職せざるを得ない状況でしたが、東京滞在中、賢治は直接トシには一度も手紙を書いていないし、4月はじめトシが上京した際にも会っていません。)

琴子は、宮沢賢治伝にはほとんど顔を出しませんが、賢治が敬愛した“もうひとりの肉親女性”として、重要な人なのではないでしょうか。

「琴の星」、「琴の宿」の「お姫さま」には、琴子の追憶があると思うのです。(琴子の死について、詳しくは:⇒《補論》9.3.15
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