ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.2.29


(U) 「手宮文字」の関係について。

. 春と修羅・初版本

24  (ひのきのひらめく六月に
25   おまへが刻んだその線は
26   やがてどんな重荷になつて
27   おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
28 手宮文字です 手宮文字です

「手宮文字」については、【73】「札幌市」のところで概略は説明しました:⇒7.11.4 手宮洞窟について

小樽市手宮の洞窟内に線刻壁画のあることが発見されたのは、1866年、明治維新(1868年)の2年前のことでした。
1880年に開拓使(北海道庁の前身)による調査が行なわれた頃までには、この壁画の存在は世界中に知られ、また、洞窟内や付近から多数の石器、土器、金属器などが出土して、古代人の刻んだものであることが強く推定されるようになりました。

ところが、1910年代になると、この線刻壁画は古代文字だという説(1913年 鳥居龍蔵,ほか)や、「手宮文字」を解読したと主張する論文(1918年 中目 覚)が現れて、世論の圧倒的な支持を得たために(学者には信用されなかったのにw)、一躍、手宮洞窟壁画は、日本に侵入してきた異民族「粛慎人」を阿倍比羅夫が撃破したという『日本書紀』の記事を証する碑文だ──ということになってしまいました。

「そこには、いろんな性格の資料をひとしなみに並べてつじつまを合わせる空想的歴史認識が顕著である。」
(秋枝美保,op.cit.,p.72)

「その解読の仕方も恣意的と謂わざるを得ないこと、また、その言葉を直ちに日本書紀の記述に重ねて恣意的な解釈をしているなど、学問的には杜撰な内容だと言える。〔…〕次第にその解読の怪しさが指摘されることになる。

 だが、この1918,9(大正7,8)年時点では、〔…〕世論に受け入れられることになったのである。〔…〕日本書紀の記述は、にわかに史実となった。」
(op.cit.,pp.74-75)

そして、1918年ころに出された小樽の観光案内書や史跡案内書には、この鳥居・中目説がそのまま紹介されているほどでした。

秋枝氏によれば、“手宮文字解読”の話題性は、2つの点にありました。

ひとつは、西洋人でなく、“わが国の学者が解読した”ということです。そこには、近代日本の強烈なナショナリズム、のみならず日本のアジアに対する覇権主義の反映が見られます。“日本の学者の独壇場だ”ということが、戦前の東洋史・北アジア史研究の“うま味”だったのです。

それは、1910年代の“自我主義”思潮──“自我拡張慾”の社会的側面でもありました。

もうひとつは、“日本書紀の記述が実証された”という点です(実は、ずさん極まりない誤証だったのですが‥)。

1910年代には、“大正デモクラシー”思潮の中で、『古事記』『日本書紀』の記述に対する実証的批判研究も行なわれ(1913年 津田左右吉,ほか)、“神国日本”という“国体”観念さえ危うくなっていました。
そこで、逆に『古事記』『日本書紀』の記述を“実証”する研究が現れて、万世一系の天皇を中心とする“国体”をゆるぎないものとしてくれることを、むしろ一般世論は渇望していたと言えるのです。

こうして、「手宮文字」の“解読”は、国家主義につながる排外主義(ショーヴィニズム)的ナショナリズムによって、圧倒的な歓迎を受けたのでした。

「『手宮文字』は、全く意味のないものが意味を得て、この世に形をなしていく過程を如実に表現している。そこには、体制の論理が明らかに強く働いている。世論はしばしば体制内の論理につく。〔…〕

 海外からの異民族の侵入をくい止めたという言説は、蝦夷の論理にも遠いところで重なる。大正デモクラシーの風潮は、いつの間にか自然と右旋回を始める動きを内包していた。
(op.cit.,p.78) 

☆(注) この時代、政府に対して“批判的”な論説の多くに顕著に見られるのは、“デモクラシーとショーヴィニズムの同居”あるいは“民主主義と排外主義の同居”という現象です。これは、上から下まで、ほとんど例外なく存在したように感じます。そして、その数少ない例外が石川啄木であり、柳宗悦であり、1923年以後の宮沢賢治なのです。
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