ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.11.4


ここまで来ると、「遠くなだれる灰光」、そして「貨物列車のふるひ」の重要さが解ってきます。それら彼方の存在は、作者の行為──「青い神話」を散布する──にとって、なくてはならないものなのです。

なぜなら、それらは、作者の行為を、「遠く」にあるもの──彼方にある巨きな存在に、繋げているからです。

そうした繋がりが、『春と修羅・第1集』時代のように、ごてごてと華々しくではなく、ごくごくさりげなく描かれているところに、晩年の口語詩☆の持ち味があると思います。

☆(注) 宮沢賢治は、最晩年には文語詩に回帰したと言われることがありますが、どうも違うようです。文語詩と並行して、口語詩の推敲・完成にも努めていたようなのです。亡くなる1933年の6月以降に「文語詩と口語詩とで二百枚も清書した」という清六氏の証言があります(『兄のトランク』,p.264)。この「札幌市」の【下書稿(二)】以降も、1933年6月入手の用紙に書かれています。「『こなれた本当の芸術』を意図した文語詩と『生な資材のまゝである』ことを活かした心象スケッチ(口語詩)の間を往還していたと見ることもできよう。」(杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』,p.227)

さて、このあと、上で触れた「開拓」の関係について、少し述べておきたいと思います。そして、宮沢賢治は見ることのできなかった・もうひとつの“開拓碑”にも触れたいと思うのです。

賢治作品とまったく無関係な話ではありませんが、少しく横道に逸れるかもしれません。。。

以前に、サハリン旅行の日程を推定したところで、帰路には、札幌の後で、8月9-10日ころ小樽に寄った可能性を述べました:7.1.4 日程の推定

本人の回想や知人の聞き書きなどに、小樽に寄ったという話が出てくるわけではないのですが、そう推測するのは、【第8章】「雲とはんのき」に、↓つぎのようなカッコ書きの詩句があるからなのです:

. 春と修羅・「雲とはんのき」

24 (ひのきのひらめく六月に
25  おまへが刻んだその線は
26  やがてどんな重荷になつて
27  おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
28手宮文字です 手宮文字です

1923年8月31日付「雲とはんのき」に挿入された・この一節は、じつに謎めいています。
「おまへ」とは誰なのか‥「六月に‥刻んだ‥線」とは何なのか‥そして、「男らしい償ひを強ひる」とは、いったいどういうことなのか‥
すべてが唐突で、何の説明もないのです。

そこで、カッコ書きの終った次の行にある「手宮文字」が、注目されることになります。

「手宮文字」とは、小樽市手宮の《手宮洞窟》で発見された線刻壁画のことです。
これは壁画、つまり絵なのですが、賢治の時代には、“古代人の刻みつけた文字だ”という説が唱えられたために、一躍有名になったのでした。

考古学者の鳥居龍蔵は、1913年の論文で、「手宮文字」は“突厥文字”(古代トルコ文字)であると主張し、ツングース系“靺鞨人”(渤海国の住民といわれる)の言語を記したものであるとしました。

これを受けて、言語学者の中目覚は、1918年の論文で、「手宮文字」を解読したと主張し、「我は部下を率ゐ、大海を渡り……たたかひ……此洞穴に入りたり」という“訳文”を掲載しました。そして中目は、『日本書紀』で阿倍比羅夫と戦ったのが、手宮洞窟の“碑文”を記した“靺鞨人”であるなどと新聞に書いています←

しかし、戦後になって、となりの余市町で別の洞窟壁画(フゴッペ洞窟)が発見され、
「手宮文字」は、そこにある壁画とよく似ていることが判明しました。そして、《手宮洞窟》のほうは、壁画が摩滅していたために文字のように誤認されたということも、明らかになっています:画像ファイル:手宮文字

↑《手宮洞窟》、《フゴッペ洞窟》の壁画では、“角をもった人間”のように見える線刻が目立っています。
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