ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.26

以前に引用した「不邪見戒」の章で同性愛禁止を書いている前後などは、ずいぶん厳しいことを言うと思いました:⇒ 6.2.7 (松の針) 6.3.8 (無声慟哭)

「仏在世の事じや。経中に。目連(もくれん)尊者に摩訶羅の弟子有。此人出家の後。自ら諸根闇鈍なるを省みて。憂悔の心を生じ。自滅せんとす。尊者神通力を以て直(ただち)に其処に至り。告て云(いわ)く。汝自滅すること勿れ。汝に生死の趣を知しめん。即(すなわち)禅定(ぜんじょ)に入り。将(ひき)ひて海浜に至る。此海浜に一の女人の屍有て仰ぎ臥す。其面上に蟲有て。或は鼻より入て口より出(いで)。或は目より入て鼻より出づ。摩訶羅これを見て問。此はいかなる人の屍ぞと。尊者云。此者は商主の婦なり。〔…〕此女人は平生鏡に照し面を見て、自身の眉目のうるはしきを楽みし者なり。今面上の蟲は。彼が後身なりと。〔…〕

総じて心のある処は。形のある処。形の生ずる処に其心生ずるじや。この女人自(みずから)の眉目鼻口のそなへに自執著(しゅうぢゃく)せし故。一息裁断の時。其著せる心。還て己が面上に生じ。蟲と為て暫(しばらく)も離れ得ぬじや。摩訶羅と云は梵語で。此(ここ)には老なり愚なりと翻ずる。愚人の年を重ねたる者の名じや。看よ。正法は智愚を択ばぬ。唯(ただ)信ある処に此縁起実相は顕はるゝじや。〔…〕」
(『十善法語』巻第十一「不邪見戒之中」1〜3頁、国会図書館所蔵本)〔ルビは仮名遣い改め〕

「目連(もくれん)尊者」☆の弟子に、愚かなまま年を取ってしまった人がいた。出家したあとで、自分の愚鈍さがいやになって自殺しようとした。目連は、たちまち神通力でテレポートして来て、「自殺はやめろ。おまえに、生死とはどういうものか教えてやろう。」と言って、その弟子を禅定(瞑想の世界)に引き込んで、海辺に連れて行った。

☆(注) 「目連」(マウドゥガリヤーヤナ、モッガラーナ)は、シャカの十大弟子の筆頭で、神通力(超能力)では第一とされた。日蓮とは関係ありませんw

その海辺には、女性の死体があおむけに横たわっていた。死体の顔の上で、虫が目鼻口に出入りしていた。「この女は、生きていた時、鏡を眺めて自分の美貌を楽しんでいたから、死んだあとも虫に転生して、自分の死体に付着しているのだ。」

つまり、自分の「眉目鼻口のそなへ」に執着している人は、「一息裁断[息をひきとる]の時」に、その執着心に牽かれて顔の上の虫になってしまい、死体の顔からいっときも離れられなくなってしまう──というのです。

↓次の寓話は、シャカの時代より後世ですが、やはりインドで、妻の美しい顔立ちを愛していた夫が、死んだ後で、虫になって妻の顔を這い回るという話です:

「是は仏滅後のこと。付法蔵伝等にある縁事じや。天竺国に。夫婦相敬愛して情厚き者有り。其夫少壮の年に命終す。此妻殊に悲に堪ず。亡夫の為に。脇尊者(きょうそんじゃ)を請じて供養す。そのとき。鼻より蟲出たるを。庭上に投じて踏蹂らんとす。尊者云(いわく)。且(しばら)く待て。此は因縁の有ことぞと。女人が云(いわく)。この七八日の間。我(わが)鼻の内を悩す今幸(さいわい)に出と。尊者再び告ぐ。此は汝が夫の後身なり。彼常に汝が容色を愛し。身心繋縛せり。其死せし日より汝が鼻の中に生ず。此蟲を殺さば。汝が身に災有べく。其罪も深かるべしと。因に神力を以て此蟲の本形を顕し見せしむと云ことがある。此も心の趣く処に生を受たものじや。前は己が面(かお)に生じ。此は妻の面に生を受る。〔…〕」
(3〜4頁)

「相敬愛して情厚き」若い夫婦がいたが、夫が若死にしてしまった。妻は悲しんで、「脇尊者」★に頼んで、初七日の供養をしてもらった時に、妻の鼻の穴から虫が出て来た。妻は、虫を庭に投げ捨てて踏み潰そうとしたが、「脇尊者」に制止された。

★(注) 「脇尊者」(パールシヴァ)は、2世紀のインドの仏教僧で、説一切有部(アビダルマ)の指導者。

「こいつ、この7〜8日間、鼻の中で這い回ってて、気持ちわりーんだわ。」

「なるほどね。この虫は、おまえの夫の生まれ変わりだよ。彼はいつも、おまえの美貌を愛して『身心繋縛』されていたから、死んだ日に、おまえの鼻の中に生まれ変ったのだ。殺すと、おまえの身に災いがあるぞ。」

そう言って、尊者が神通力をかけると、虫は、亡き夫の姿を現した。。。

このように、人は死ぬと、生きていた時の「業」(ごう)に引っ張られて、執着していた対象に転生することになる。最初の例では、自分の死体の顔に付着し、2番目の例では、妻の顔に付着して生まれ変わる──と、慈雲は言うのです。
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