ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.2.7


「恋と病熱」を読むかぎり、この「恋」は、なにか腐敗して雁字搦めになってしまった「恋」の印象を受けます。多くの批評が(たとえば、小沢俊郎氏)言うような、片思いでうまくいかないといった淡いものとは思えないのです。一定の濃い交渉を経たあとで、互いの意向がぶつかり合い、どうにも調整できなくなって、誤解が誤解を生み、愛ゆえの憎悪にまみれてしまうような事態を指していると考えられます。

そこで、もっとも可能性の高い・この「恋」の対象は、菅原智恵子氏☆が推定される保阪嘉内との同性愛だと、ギトンは考えます。

☆(注) 菅原智恵子『宮沢賢治の青春』,1997,角川文庫,pp.148-150.

宮澤賢治が、この当時座右においていたと思われる『十善法語』という宗教書があるのですが、そこには、↓次のような一節があります:

「次に両出家の抱いて苦を受るを問ふ。世尊言く。此も迦葉仏の時の出家人なり。両人互に相愛して、毎夜相抱き臥す。此罪に因て、孤独地獄に在て。今に苦を受ると。〔…〕両出家人は、愛念に因て形を顕はす。形に因て愛念を生ず。此身心が出来れば。業火に焼るゝじや。」

(慈雲『十善法語』巻第十一「不邪見戒」中、7-8頁、国会図書館所蔵本)

「迦葉仏[かしょうぶつ]の時」(太古の昔)に、二人の僧が同性として愛し合い、毎晩抱き合って寝ていた。愛欲の念は、抱き合う形を生じ、抱き合う形は愛欲の念を生ずる。この心身が出来上がったために、死んだ後も、抱き合った形のまま地獄の業火に焼かれることになり、億兆年以上たった今も焼かれている、というのです。

この『十善法語』は、生きているときに持っていた執着が、死後にも影響することを、いろいろな例を挙げて説明しています。たとえば、妻を深く愛していた人は、死ぬと虫になって、妻の顔を這い回ると言うのです。たとえ夫婦であろうと、過剰な執着は、死後に堕落する原因となる。まして、同性愛者は、業火の責苦を受けつづける──というわけです★

★(注) この「業火」のイメージから、『春と修羅・第2集』にある「山火」という題名の二つの作品も、作者の同性愛に関りがあると見られます。

賢治は、このような断ちがたい執着に悩んでいたと思われるのです。
そして、作者の同性愛の愛欲のために、病床で高熱を病んでいる妹までもが、「透明薔薇の火に燃され」ているように、心眼に見えてしまうのです。

しかし、それから8ヶ月たった「松の針」の:

13ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた

は、どうでしょうか?

菅原智恵子氏は、これも、保阪への慕情を引き摺っていたことを指していると推定されます:

「賢治はトシの看病で明け暮れてはいない。そればかりか、〔…〕ほ か の ひ と のことをかんがへながら森を歩いてゐた

 と言うのである。そして賢治は自分自身の苦悩のために『けふはやなぎの花もとつてゆかぬぞ』〔←これは『冬のスケッチ』掲載形──ギトン注〕と、トシの病床を見舞う花もとってゆけなかったのだ。この頃の賢治にとって、トシの存在は影が薄い。〔…〕

 賢治がトシに注意を向けるのは、いよいよ容態が変わり、臨終間近となってからである。くり返すまでもないが、この頃の賢治とは、嘉内に対する恋情や法華経に対する疑念などでおよそまことの道とは正反対の『毒草や蛍光菌の暗い野原をただよって』いた時であった。

 嘉内と訣別した時から湧き起こってきた法華経に対するどうしようもない疑念、〔…〕」


◇(注) 菅原智恵子,op.cit.,pp.183-184.『春と修羅』の最初から「永訣の朝」の前まで、「トシの存在は影が薄い」とする指摘は、そのとおりで、「恋と病熱」以外にトシに言及した作品はないのです。「小岩井農場」には、【下書稿】に堀籠教諭が名指しで登場し、保阪ほか《アザリア》の友は、「ユリア、ペムペル、‥」として暗に登場しますが、トシへの思いやりが窺われる詩句は、1行とてありません。臨終1ヶ月前の「マサニエロ」と「栗鼠と色鉛筆」も同様です。「マサニエロ」の「ひとの名前をなんべんも/風のなかで繰り返してさしつかえないか」の対象がトシと考えにくいことは、同作品のところで論じました。「栗鼠と色鉛筆」の「リス」は、あまりにも楽しそうで、病床の妹を指しているとは思えません。
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