ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.3.8


ところで、菅原氏は、もっぱら、保阪との口論がきっかけとなって生じた“法華経に対する疑念”のほうで、理解を進めていますが、

「純粹やちいさな徳性のかずをうしなひ」

「青ぐらい修羅をあるいてゐる」

「あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
 毒草や螢光菌のくらい野原をただよふ」

という言い方は、むしろ、「わたくし」が、恋情に悩まされて、信仰から遠ざかっている状態を表しているように、受け取れます。

というのは、すでに、「松の針」で出しましたが、『十善法語』☆には、同性愛の“報い”に関して述べた・つぎのような箇所があるのです。再度引用しますと:

☆(注) 江戸時代の僧・慈雲(1718-1805)の著書で、仏教の戒律をゆるやかに解して、質素平穏な生活を説いたもの。宮澤賢治は、この本を座右に置いていたらしく、『春と修羅』第8章の詩「不貪欲戒」は、「慈雲尊者にしたがへば」と繰り返しながら、『十善法語』に倣った自然観照を述べています。しかし、↓下のように、同性愛に限らず、愛欲に関しては、非常に厳しいですね。

「次に両出家の抱いて苦を受るを問ふ。世尊言く。此も迦葉仏の時の出家人なり。両人互に相愛して、毎夜相抱き臥す。此罪に因て、孤独地獄に在て。今に苦を受ると。〔…〕両出家人は、愛念に因て形を顕はす。形に因て愛念を生ず。此身心が出来れば。業火に焼るゝじや。」

(慈雲『十善法語』巻第十一「不邪見戒」中、7-8頁、国会図書館所蔵本)

「迦葉仏[かしょうぶつ]の時」(太古の昔)に、二人の僧が同性として愛し合い、毎晩抱き合って寝ていた。愛欲の念は、抱き合う形を生じ、抱き合う形は愛欲の念を生ずる。この心身が出来上がったために、死んだ後も、抱き合った形のまま地獄の業火に焼かれることになり、億兆年以上たった今も焼かれている、というのです。

この『十善法語』は、生きているときに持っていた執着が、死後にも影響することを、いろいろな例を挙げて説明しています。たとえば、妻を深く愛していた人は、死ぬと虫になって、妻の顔を這い回ると言うのです。たとえ夫婦であろうと、過剰な執着は、死後に堕落する原因となる。まして、同性愛者は、業火の責苦を受けつづける──というわけです。

賢治が、↑これを読んでいれば★、自分と保阪嘉内との間の経験を当て嵌めて、恐ろしくなったに違いないと思うのです。
しかし、悪いことだ、恐ろしいことだ、異常だと決めつけられれば、かえって恋情はつのり、しかも、鬱屈した暗い情念となって行きます。

★(注) 賢治は読んでいたと思われます。というのは、中学生時代の短歌に、「#37 泣きながら北にはせゆく塔などのあるべき空のけはひならずや」(『歌稿A』,1913.4.-1914.3.の章)というのがあり、これは、『十善法語』巻第十一「不邪見戒」中、8頁(上に引用した両出家の話の次)にある話(塔を建てることに執着した人は、死後は塔になって泣きながら空を駆ける)に関係しているからです。

賢治には、自己の同性愛的感情・行動を異常だと思う疑念があったでしょう。また、それ以上に、保阪をはじめとする同性愛の対象に対する愛憎の感情が、「修羅をあるいてゐる」という自己意識をもたらしたのではないでしょうか。
同性愛に限らず、恋愛感情が深くなればなるほど、愛が憎しみを呼び起こし、憎しみが愛を呼び起こす複雑なプロセスは避けがたいものです。

「おれはひとりの修羅なのだ」「青ぐらい修羅をあるいてゐる」といった賢治の表現は、“闘争を好む異形の者”とされる阿修羅に、自己意識を投影しているのではないでしょうか。



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