ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.12.12


この時期の賢治には、東京・中央の詩人・芸術家への対抗意識が、非常に強くあったように思われます。それは、“予想外の体験”を重ねることになった1921年の東京滞在生活での混乱したさまざまな印象を、その後2年間、教師をしながら本人の中で整理してきたことによって固まってきたのではないでしょうか。
1924年、『心象スケッチ 春と修羅』と『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』を、相次いで、相当の無理をして世に問うたのも、そうした意識☆なしには考えられないことでしょう。

☆(注) 加えて言えば、1923年1月に、“トランク”いっぱいの童話原稿を、弟の清六に指示して、東京の出版社に持ち込ませたこと(最初から断られるに決まっている企てだったと、清六氏は後に述懐しています)。断られた後は、かえって創作熱に燃えていたこと(23年1月19日藤原嘉藤治日記〔「年譜」参照〕)。1925年に、童話雑誌『赤い鳥』を主宰していた鈴木三重吉のところへ、童話『タネリはいちにち噛んでゐたやうだった』を持ち込ませて、「あんな原稿はロシアにでも持っていくんだなあ」と断られたこと(とうてい一般受けしないものを選んで持ち込ませたようにも思われます)。1925年12月、岩波書店主岩波茂雄宛てにいきなり送った書簡の中で、『春と修羅』初版本に「友人の先生尾山といふ人が詩集と銘を打ちました。詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが〔…〕何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。」(書簡番号214a)と書いていること。『春と修羅・第2集』「序」(1928年執筆か)には、「わたくしの敬愛するパトロン諸氏は/手紙や雑誌をお送りくだされたり/何かにいろいろお書きくださることは/気取ったやうではございますが/何とか願ひ下げいたしたいと存じます/〔…〕/同人になれと云ったり/原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり/わたくしを苦しませぬやうおねがひしたいと存じます/けだしわたくしは〔…〕/おれたちは大いにやらう約束しやうなどいふことよりは/も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから/さう申したとて別に何でもありませぬ/北上川が一ぺん汎濫しますると/百万疋の鼠が死ぬのでございますが/その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を/生きてるうちは毎日いたして居りまするのでございます」と書いていること。

. 画像ファイル・リンネル ←こちらに貼り付けた《初版本》の装幀を見ていただきたいのですが、いかにも藁ででもこさえたような鄙びた田舎風のボロい本です。作者は、あえてこの感じを出すために、帆布(カンバス地)よりも荒いリンネル布を使っているのですが、当初の計画では、「青いリンネル」にする予定だったらしいのです:

「表紙地は賢治は青黒いザラザラした手ざわりの布地を欲しがっていたのだったが見当らず、関氏が大阪まで来た時に漸く探し求めたものであるという。『ザラザラした手ざわり』だけは賢治の要望に適っていたが色は麻の原色で全く変っている。図案は広川松五郎氏の筆、せめてこの図案に賢治の希望の青黒い色を出そうとしたが、地があらい為に色がのらず薄色になってしまったという。」


☆(注) 小倉豊文「『春と修羅』初版について」,p.173, in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究T』,1975,学藝書林.

つまり、「青いリンネル」の「青い」とは、《初版本》表紙のアザミ草模様のような紺青色と思われるわけです。そして、「青いリンネルの農民シヤツ」が、作者の頭にあった“詩人のスタイル”だとすれば、それは、この詩集の装幀(当初計画されていた「青黒いザラザラした手ざわりの布地」の表紙)そのものではないでしょうか?

というのは、編集・印刷過程の“第2段階”では、「鎔岩流」が巻末作品になる予定だったのです:⇒8.1.7 【印刷用原稿】の編成替え

巻末作品の最後に、

. 春と修羅・初版本

43  (あれがぼくのしやつだ
44   青いリンネルの農民シヤツだ)

とあるのを、読者は読んで‥、あぁなるほど、それで、著者はこの詩集を出すことにしたのだ。。。と思って納得する──そういう筋書きを、賢治は考えていたようです。

ところで、《焼走り溶岩流》から見える北上川対岸の北上山地といえば、姫神山と《外山(そでやま)高原》のあたりになります。

賢治は、ゆるやかな起伏が続く《外山高原》の風光に愛着を持っていたようですが、そこは、高農時代に嘉内とともに過ごした場所のひとつでもあったようなのです:画像ファイル・外山高原
.
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