ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.7


 2 入沢康夫

前nの考察の中で、【第8章】の「宗教風の恋」と、【第3章】「小岩井農場・パート9」に、同じ問題(宗教性のじゃまになる審美性・恋愛観の否定)が現れていることを指摘しましたが、この「パート9」の部分については、【下書稿】から【印刷用原稿】への改稿過程が関わっています。
“反恋愛論”は、【印刷用原稿】で新たに書き加えられた部分なのです。

しかも、「パート9」は、いったん【印刷用原稿】が成立した後で、原稿が差し替えられています。

そうすると、ここで、『心象スケッチ 春と修羅』《初版本》の原稿整理・印刷の過程について見ておくのがよさそうです:画像ファイル:印刷所(跡)

《初版本》の成立過程については、入沢康夫氏の詳細な文献学的調査研究があります。それによると、「小岩井農場・パート9」は、いったん【印刷用原稿】が成立した後に見直しがされて、入沢氏の言う《第3段階》で、全面的に改稿して差し替えているのです。

これに対して、【第8章】の【75】「不貪慾戒」や【77】「宗教風の恋」などは、いったん【印刷用原稿】が成立した後は、差し替えや追加もなく、ほとんど変化の無かった部分です。

「小岩井農場・パート9」の差し替えは、「青森挽歌」や「オホーツク挽歌」の大幅な差し替えと同時に(《第3段階》に⇒次n)行なわれていて、しかも、これらは内容的に同じ方向の改稿です。したがって、「パート9」が《初版本》テキストの形になったのは、この時だと思われるのです。

時間を追ってまとめてみますと、おそらく賢治は、“サハリン旅行”から帰って来てまもなく、それまでの《心象スケッチ》を詩集にまとめることを思いつき、下書稿の整理を開始したものと思われます。

しかし、【印刷用原稿】の形に清書したのは、11月か12月です。11月の日付とみられる【84】「自由画検定委員」(編集過程で削除)にも、【印刷用原稿】成立時の頁番号が振られているからです。

11〜12月に【印刷用原稿】が清書された時(《第1段階》)、“反恋愛論”的な「不貪慾戒」と「宗教風の恋」も、8月末〜9月の作者の意識の動揺のひとコマとして記録されていました。

「雲とはんのき」、及び「一本木野」以降の作品はまだ追加されていない時点です。

その後、「鎔岩流」までが追加され(《第2段階》:おそらく12月)、全体を見直した時に、「小岩井農場・パート9」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」が大幅に差し替えられました。これらは、いずれも天台教学(日蓮宗)的な思想がぶれ返したことによるもので、「パート9」では“反恋愛論”が高らかに宣言されました(《第3段階》)。

しかし、巻末が変更されて「イーハトブの氷霧」「冬と銀河ステーション」が追加され、他方、はじめのほうの【第1章】で、作品「春と修羅」の周辺が、印刷中の版を組み直してまで変更されました(「恋と病熱」が追加され、「春光呪咀」が縮小された──ギトンの推定)。これは、巻頭の詩情の《熱さ》を強調する一方、巻末の《冷たさ》を、ホワイト・クリスマスのようにエモーショナルで楽しいものとする意図なのだと思います。

こうした紆余曲折の後に、1924年1月20日付の「序詩」が書かれたと、ギトンは推定します。

ともかく、「小岩井農場」末尾と【第8章】最初に見られる“反恋愛論”は、1923年後半の時期に、賢治の意識が振れた一方の極を示しているのではないでしょうか?





入沢氏によれば、《初版本》の成立過程は、次n→のような4段階にまとめることができます☆

☆(注) 入沢康夫,op.cit.,pp.112-116,125-126,394-399.
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