ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.6.12


. 春と修羅・初版本

34あてにするものはみんなあてにならない
35たヾもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
36そしてそれらもろもろ[の]徳性は
37善逝(スガタ)から來て善逝(スガタ)に至る

最後の部分では、“いっさいはあてにならない”という、震災の発生が思想界にもたらしたショックを、菩薩道的な救済思想☆によって受けとめようとしています。

☆(注) 「菩薩とは、俗世にあって善行と慈悲の模範となって、他者を救うために、みずからの解脱を無限に延期するような者である。」「般若系諸経典が繰り返し説くところでは、菩薩は、『自分の個人的な涅槃を獲得しようとは望まない。〔…〕究極の覚りを得ようとしながらも、生と死にたじろぐことはない。〔…〕菩薩は、この世の隠れ家・避難所・安息所、この世の究極的な慰安、この世の島、光、案内人、救いの手段になろうと決意する。』(『八千頌般若』]X・293)」「多くの菩薩が存在するが、これは仏陀となりながら、衆生を救うために覚りを開くことを延期するという誓いをたてた者が、いつの時代にも存在したからである。」「善行の譲渡を説く『廻向』(パリナーマナ)の教えが現れた。〔…〕信徒は自分のを全存在の啓蒙のために譲渡し、捧げることを求められる。」7世紀の寂光(シャーンティデーヴァ)によれば、「『私の善行すべてから発した徳によって、衆生の苦しみを和らげたいと思う。〔…〕何度生まれかわっても、私は自分が得た、またこれから得るであろう生と所有物とをすべて放棄する。私自身のために何かを得ることを期待するのではなく、衆生の救済が進むことを望んでいるのである』。」(ミルチャ・エリアーデ、柴田史子・訳『世界宗教史』4;2000,ちくま学芸文庫,pp.25-28,30-31)

「巨きな旅」とは、人の生を指しますが、一回限りの個人の生にとどまらず、未来の転生まで含めた・衆生とともにする「巨きな旅」が展望されているのだと思います。

その「旅」の中で、仏教的には、個人のすべての“善行”による「徳性」は、“覚者”(スガタ)に発するわけですが、「徳性」は個人に帰属することなく、衆生に“廻向”★することを求められるのです。このような“救済”の構造は、この世界が無常で「あてにならな」くとも揺るぎませんし‥いや、無常であればあるほど効果を発揮すると言わなければならないでしょう。

★(注) たとえば、寺院でお布施を支払ってお経を読んでもらうのも“善行”ですが、大乗の教理では、その効果は、施主に属しないのです。アカの他人にバラ撒かれなければならない。‥そう望まなくとも、バラ撒かれてしまう。日本の寺院では(日蓮宗でも!)その点をごまかして、“親類縁者に回向しましょう”などと言っていますが、そんな限定は、しても無駄なのですw

このように受けとめたことによって、作者は、〔B〕の思潮からも、採るべき“かけら”を拾い集めて、新たな世界観と実践的精神の構築に向かうのです。

なお、その一方で、「善逝(スガタ)に至る」のほうは、童話『雁の童子』で、旅人(私)が、「童子」の物語を語った老人に対して、最後に述べる言葉に示されています:

「まことにお互い、〔…〕ほんの通りかかりの二人の旅人とは見えますが、実はお互がどんなものかもよくわからないのでございます。いずれはもろともに、善逝(スガタ)の示された光の道を進み、かの無上菩提に至ることでございます。それではお別れいたします。さようなら。」

つまり、運命と出会いと別れ──作者の大沢温泉への‘回顧の旅’の結論は、そんなところにあったのではないでしょうか。



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