ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
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6.3.2


作者は、ここで、臨終の妹の前で沈黙し☆、心の中だけで煩悶している「わたくし」と、そういう「わたくし」に対して悲しそうな目を向ける妹を登場させることによって、ことさらに妹に対する自責の念を吐露しているように思われます。

☆(注) 言うまでもないことですが、「わたくし」の沈黙は、妹に対する自責や気後れによるだけではありません。なによりも、「わたくし」は、宮澤家の長男なのですから、集まった親類の前で、軽々しい言動は慎まなければならないのです。前2作と異なって、「母」や「みんな」(臨終の枕辺に集まった親族・親類一同)が傍にいることが明示的に述べられている「無声慟哭」では、このことは留意して読まれるべきです。

この作品全体の・そのような内容から考えると、冒頭の:

. 春と修羅・初版本

01こんなにみんなにみまもられながら
02おまへはまだここでくるしまなければならないか

とは、肉体的な苦痛を言っているのではなく、しっかりと見送るべき“同信者”である兄の信仰が動揺しているために、妹も精神的に動揺せざるをえない、そして、「じぶんにさだめられたみちを/ひとりさびしく往かうとする」ほかはない事態を、言っているのだと思います。

トシは、しきりに、自分の表情が安らかでなく、身体からいやな臭いがするのではないか、ということを気にしています。そして、諦めた表情で苦笑し、兄の表情の動きをじっと追いながら、母に尋ねるのです:

. 春と修羅・初版本

12(おら、おかないふうしてらべ)
13何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
14またわたくしのどんなちいさな表情も
15けつして見遁さないやうにしながら
16おまへはけなげに母に訊くのだ
    〔…〕
24《それでもからだくさえがべ?》

仏教には、「臨終の際の顔色、匂いなどによって、どこに転生するか」──天上世界へ行くのか、修羅道、畜生道、あるいは地獄に落ちるのか──「は決定される」という考え方があるそうです。☆
そのため、賢治は、臨終の際のトシの顔色や匂いを、トシの死後に非常に気にして、たとえば、翌年8月の「青森挽歌」でも、次のように書いています:

☆(注) 杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』,1993,蒼丘書林,p.105 注(3).

. 春と修羅・初版本「青森挽歌」

「 《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》
 だまつてゐろ
 おれのいもうとの死顔が
 まつ青だらうが黒からうが
 きさまにどう斯う云はれるか
 あいつはどこへ堕ちやうと
 もう無上道に屬してゐる
    〔…〕
  《もひとつきかせてあげやう
   ね じつさいね
   あのときの眼は白かつたよ
   すぐ瞑りかねてゐたよ》
 まだいつてゐるのか
 もうぢきよるはあけるのに」

 



「無声慟哭」で、トシ自身が、自分は怖がった表情をしている、身体が悪臭を放っていると危惧している(あくまでも作者の設定したフィクションですが)のは、自分の往生を疑っているのです。いや、

13何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら

とありますから、危惧というより、トシ自身は、ほとんど往生を諦めていると見なければなりません。
もちろん、ここで描かれたトシの表情も視線も言動も、すべて作者のフィクションなのですが、それらは、この詩「無声慟哭」の“世界”において、決定的な意味を持っています。
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