ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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アンドロメダ銀河(NASA提供)   
4.14.19


. 春と修羅・初版本

34太刀を浴びてはいつぷかぷ
35夜風の底の蜘蛛おどり
36胃袋はいてぎつたぎた

「いっぷかぷ」は、“あっぷあっぷ”と溺れるようす。童話『種山ヶ原』では、「溺死」に「いっぷかぷ」と振り仮名が振ってあります:

. 4.14.3

「組は二つに分れ、剣がカチカチ云ひます。青仮面(あをめん)が出て来て、溺死(いっぷかっぷ)する時のやうな格好で一生懸命跳ね廻ります。」

「胃袋吐いてぎつたぎた」は、「悪路王」が内臓の血へどを吐き出して死ぬようすでしょう。

どちらも、田村麻呂の(?)刀で斬られた断末魔の状況を、執拗に描いています。
そして、『種山ヶ原』の引用で分かるように、これを演じているのは、顔に「青仮面」をつけた踊り手です。


これを見ると、『フランドン農学校の豚』などを連想してしまうのです:フランドン農学校の豚

「畜産の教師がいつの間にか、ふだんとちがった茶いろなガウンのやうなものを着て入口の戸に立ってゐた。

 助手がまじめに入って来る。
『いかがですか。天気も大変いいやうです。今日少しご散歩なすっては。』又一つ鞭をピチッとあてた。豚は全く異議もなく、はあはあ頬をふくらせて、ぐたっぐたっと歩き出す。前や横を生徒たちの、二本ずつの黒い足が夢のやうに動いてゐた。

 俄かにカッと明るくなった。外では雪に日が照って豚はまぶしさに眼を細くし、やっぱりぐたぐた歩いて行った。

 全体どこへ行くのやら、向うに一本の杉がある、ちらっと頭をあげたとき、俄かに豚はピカッといふ、はげしい白光のやうなものが花火のやうに眼の前でちらばるのを見た。そいつから億百千の赤い火が水のように横に流れ出した。天上の方ではキーンという鋭い音が鳴ってゐる。横の方ではごうごう水が湧いてゐる。さあそれからあとのことならば、もう私は知らないのだ。とにかく豚のすぐよこにあの畜産の、教師が、大きな鉄槌を持ち、息をはあはあ吐きながら、少し青ざめて立ってゐる。又豚はその足もとで、たしかにクンクンと二つだけ、鼻を鳴らしてじっとうごかなくなってゐた。

 生徒らはもう大活動、豚の身体を洗った桶に、も一度新らしく湯がくまれ、生徒らはみな上着の袖を、高くまくって待っていた。

 助手が大きな小刀で豚の咽喉をザクッと刺しました。

 〔…〕豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、厩舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩漬けられた。

 さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のやうに積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗はれて、八きれになって埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴へたのだ。」

これについて、佐藤通雅氏は:

「嗜虐性はおそらくあった。しかしそれだけでも足りない。限りない暗黒に落下する途次、不意に静止して、暗黒を透き通らせながら書いたのだといってはどうだろうか。事実、豚には何ら救いはなく、殺されて雪に漬けられてそれっきり。残るのは果てしない虚無の空間ばかりだ。もちろんこのように冷静に描くことによって、逆に人間のエゴへの激しい告発たりえているのだといういい方はできるし、かくまで豚の心理をえぐるのも、菜食主義者賢治にして初めて出来たのだといういい方も可能だ。だが、それら人間への告発とか動物への同情、あるいは宗教的信念を説き終わった後に、なお作品の底には何かがある、と私は思う。何か──それはつづまり果てしのない闇である。」
(『宮沢賢治の文学世界』,p.159.)

と述べています。
つまり、同情や告発、あるいは嗜虐を通り越した先にある「果てしのない闇」ということでしょうか‥
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