ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.14.3


↓↓童話『種山ヶ原』に描かれているように、“剣舞”の踊り手は、山沿いの村人たちで、月の出る夜間に、里の町村に出かけて、大きな百姓屋敷の庭で踊る風習だったようです。つまり、人々は、“山から怨霊や神々がやって来るのを迎え、接待して鎮める”と理解していたのです☆:

☆(注) 宮沢賢治が童話『種山ヶ原』で描いている“出張剣舞”は、この地方の昔からの習わしだったようです。そうすると、賢治は原体、あるいは上伊手まで行って剣舞を見たと考える必要は、必ずしもないのかもしれません。原体の剣舞は、岩谷堂あるいは田茂山(羽田村)で、上伊手の剣舞は、伊手村で見たのかもしれません。↓下の引用にある「伊佐戸」という地名は架空ですが、童話『やまなし』『風の又三郎』にも現れます。これは、“岩谷堂(いわやど)”または“伊手”(地元では“伊手里(いでさど)”とも呼んでいた)から考え出したものと推定されています。

. 『種山ヶ原』

「達二はみんなと一緒に、たそがれの県道を歩いてゐたのです。

 橙色の月が、来た方の山からしづかに登りました。伊佐戸の町で燃す火が、赤くゆらいでゐます。
『さあ、みんな支度はいゝが。』誰かが叫びました。
   〔…〕
 町はづれの町長のうちでは、まだ門火を燃して居ませんでした。その水松樹(いちゐ)の垣に囲まれた、暗い庭さきにみんな這入って行きました。

 小さな奇麗な子供らが出て来て、笑って見ました。いよいよ大人が本気にやり出したのです。

『ホウ、そら、遣れ。ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。』『ドドーン ドドーン。』

 『夜風さかまき ひのきはみだれ、
  月は射そゝぐ 銀の矢なみ、
  打つも果てるも 一つのいのち、
  太刀(たあち)の軋りの 消えぬひま。ホッ、ホ、ホッ、ホウ。』

 刀が青くぎらぎら光りました。梨の木の葉が月光にせはしく動いてゐます。

『ダー、ダー、スコ、ダーダー、ド、ドーン、ド、ドーン。太刀はいなづま すゝきのさやぎ、燃えて……』

 組は二つに分れ、剣がカチカチ云ひます。青仮面(あをめん)が出て来て、溺死(いっぷかっぷ)する時のやうな格好で一生懸命跳ね廻ります。子供らが泣き出しました。達二は笑ひました。」

“鬼剣舞”の中でも、原体、上伊手のそれは、小学生〜15歳くらいの少年だけを踊り手とする点に特徴があり、“稚児剣舞(ちごけんばい)”と呼ばれました。

↑上で賢治が描いているのも、この地域の“稚児剣舞”です。

同行した大人は、囃子(笛、太鼓など)を担当しました。

「剣がカチカチ云ひます。」

と書いていますが、本来は、念仏踊りでも剣舞でも、刀と刀を打ち合わせてはいけない流儀なのです。

しかし、じっさいには、少年たちは、このように(まちがってぶつかった振りをして)刀をぶつけあって踊っていたのだと思います。

この地域の剣舞が“稚児剣舞”となった理由は分かりませんが、
この伊手川・人首川流域に伝わる“人首丸伝説”と関係があるかもしれません。。。:人首丸伝説

人首丸(ひとかべまる)は、坂上田村麻呂に滅ぼされた蝦夷の首領アテルイの子とされます。
アテルイは、資料を見るかぎり、朝廷に頑強に抵抗し続けた蝦夷の主戦派ではなく、むしろ朝廷側に協力しようとして騙し討ちにあったように思われます。

坂上軍が北上地方に進出して、胆沢城を築いた時、アテルイ、モレの2首領は帰順を申し出て、京都に連行されます。
田村麻呂は、朝廷の許しを得てかれらを家来にするつもりだったようです。

しかし、頭の固い中央の貴族たちは、“蝦夷だ”というだけで、“いつまたフラフラ寝返るかもわからない”と決め付けて死刑を命じ、田村麻呂は河内(大阪府)で2名を斬首するのです。
結果的には騙し討ちと言わなければなりません。

その子・人首丸が反乱を起こすのも、当然ではないでしょうか?──もっとも、これは史実ではなく伝説ですが──
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