ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.5.24


. 春と修羅・初版本「パート4」

89いまこそおれはさびしくない
90たつたひとりで生きて行く
91こんなきままなたましひと
92たれがいつしよに行けやうか
93大びらにまつすぐに進んで
94それでいけないといふのなら
95田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ

自分の深層を流れる‘濁流’の存在を意識したので、かえって勇気が湧いてきたのでしょうか、89行目からの独白は高揚していますが、まわりの景色も目に映らないナマの独白です。

この独白が、保阪嘉内★との出会い→交わり→訣れの一部始終を踏まえていることは、明らかだと思います。

なぜなら、賢治の遺された書簡を見る限り、保阪ほど、賢治が気を許して胸襟を開いた相手は、いないからです。

★(注) 保阪嘉内については⇒いんとろ【8】たったひとりの恋人:保阪嘉内

保阪嘉内宛て宮澤賢治書簡について、佐藤通雅氏の解説を引用しますと:

「盛岡高農時代の『アザリア』同人同士として、若い文学青年のような文面がまず見られた。〔…〕文学仲間としての彼
〔嘉内──ギトン注〕に、まず自分の作品を見てもらいたいという気持がこれらにはうかがえる。やがて作品だけでなく、自己内面をほとんど全的にさらけだしうる対象となっていく。保阪が賢治に向けた書簡もまたそういうものであったと想像できる。」

「内面と外面の境に何の防御壁も設けない、最も低い位置から書かれているといってよい。迷妄そのもの、自棄そのものを相手の前にすべて投げだす。保阪嘉内がそういう自分を受けとめてくれる対象だと賢治は思っているのである。」

(『宮沢賢治から〈宮沢賢治〉へ』,pp.208,210)

説明だけではなんですから(笑)、書簡のサワリの部分だけ、出しておきますか‥
(↓↓いずれも、長い手紙の途中のごく一部を恣意的に抜いたもので、手紙の大意ではありません)

「私は実はならずものごろつきさぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長、ごまのはひの兄弟分、前科無数犯弱むしのいくぢなし、ずるものわるもの偽善会々長 です。〔…〕監獄ももう遠くありません。〔…〕わが友の保阪嘉内よ、保阪嘉内よ。わが全行為を均しく肯定せよ。」
(1919.7.[書簡番号152a])

「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を棄てるな。」
(1920.12.上旬[書簡番号178])

「かたりの隊長」「偽善会々長」とか‥思わず笑ってしまいますが、[書簡152a]には、自分に逮捕令状がなぜ来ないのか分からない、監獄が狭すぎるのだろう、などとも書いています。

「大正十年(1921年)一月の国柱会をたよっての家出、宗教への先鋭化〔…〕この間のなまの自己表白はもっぱら保阪へ、つまり地理的にも一定の距離をとることになった親友へと向けられ、その激越さはときには鉄砲弾さえ連想させる。」
(佐藤通雅『宮沢賢治から〈宮沢賢治〉へ』,p.209)

単に激越な自己表白を向けただけでなく、保阪を国柱会に入信させようとして、脅迫に近い調子で説得したにもかかわらず、保阪がこれに応じることはなく、
1921年7月頃、↑上のような保阪との親密な関係は破綻しました☆。

☆(注) この時期を境に、それまでの親密な関係が著しく変化したことは、書簡から明らかで、研究者一般に異論はありません。しかし、そこから(また、他の証拠も援用して)この時期に2人の間には、「恋」人関係の破綻があったことを、初めて論じられたのは、菅原千恵子氏です(括弧の意味については、『宮沢賢治の青春』,p.152 参照)。ギトンは、括弧付きではなく、同性の心身両面の恋愛関係があったと考えています。

前年までの・このような経緯を踏まえれば、

90たつたひとりで生きて行く
91こんなきままなたましひと
92たれがいつしよに行けやうか

という上の独白は、よく理解できるのではないでしょうか。

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