ゆらぐ蜉蝣文字


第2章 真空溶媒
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2.1.28


「犬神」というと、私たちは横溝正史の推理小説を思い浮かべてしまいますが(笑)、
“犬神憑き”“犬神の祟(たた)り”という迷信は、西日本のものだそうです。
宮沢賢治の童話『サガレンと八月』には、「ギリヤーク☆の犬神」が登場します:

「口のむくれた三疋(びき)の大きな白犬に 横よこっちょにまたがって 黄いろの髪をばさばささせ 大きな口をあけたり立てたりし 歯をがちがち鳴らす 恐しいばけもの」

という恐ろしい姿です。
この童話の主人公タネリ少年は、「犬神」に捕らえられ、蟹に変えられて、海の底のチョウザメの奴隷にされてしまいます。

☆(注) 「ギリヤーク」は、サハリン島北部と、沿海州のアムール川下流域に住む少数民族ニヴフ Nivkh のこと。

しかし、「真空溶媒」では、主人公「おれ」自身が「犬神のように」“白い犬”にまたがって、《人界》へ戻ってゆく旅をするのです:

. 春と修羅・初版本

226おれはたしかに
227その北極犬のせなかにまたがり
228犬神のやうに東へ歩き出す

“白い犬にまたがった犬神”というモチーフは、民間伝説などには見当たらないようですから、宮沢賢治の創作なのでしょう。
しかし、これはもう“賢治ワールド”の中で市民権を得ているようですw

229まばゆい緑のしばくさだ
230おれたちの影は青い沙漠旅行
231そしてそこはさつきの銀杏の並樹

「緑のしばくさ」の野原に、北極犬にまたがった「おれ」の青い影が、長く延びています。
そこは、ちょうど往きに

25さうとも 銀杏並樹なら
26もう二哩もうしろになり
27野の緑青の縞のなかで
28あさの練兵をやつてゐる

と描かれていた「ロクショウの縞」の野原のようです。
日が傾いていますが、今はもう夕方なのでしょうか。

こうして、作者は「銀杏の並樹」をくぐって、もとの世界に戻ります:

231そしてそこはさつきの銀杏の並樹
232こんな華奢な水平な枝に
233硝子のりつぱなわかものが
234すつかり三角になつてぶらさがる

夜明け時には「もうたいてい三角にかはつて」いた「りつぱな硝子のわかもの」が、
今は「すつかり三角にな」っています。
その意味については、2.1.4 で議論しました。

ところで、

228犬神のやうに東へ歩き出す
  〔…〕
230おれたちの影は青い沙漠旅行

という「おれ」と北極犬の姿は、たいへん印象的です。ここでは、作者の眼は「おれ」から離れて、広い草原の真ん中を進んで行く「おれ」と北極犬を、遠くから眺めています。

同様の幻想的な光景は、作品「自由画検定委員」にも見られます:

「青ざめたそらの夕がたは
 みんなはいちれつ青ざめたうさぎうまにのり
 きらきら金のばらのひかるのはらを
 犬といっしょによこぎって行く
 青ざめたそらの夕がたは
 みんなはいちれつ青ざめたうさぎうまにのり」

「自由画検定委員」は、《印刷用原稿》まで書かれながら、印刷前に《初版本》から割愛された詩篇です。
その《原稿》の裏面が転用されて、『銀河鉄道の夜』の〔初期形1〕が書かれているのも、偶然以上のものを感じさせます。

しかし、「自由画検定委員」については、【第8章】で、この補遺詩篇を扱うときに、詳しく見ることとしましょう。




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