ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.16.10


ところで、《下書稿》の「ユリア」「ペムペル」「ツィーゲル」ですが、菅原千恵子氏は、これは《アザリアの4人》の・賢治を除く3名を指していると論じておられます☆

ギトンも、この菅原説には賛成ですが、一点だけ、菅原氏が、途中で横にそれてしまった「ツィーゲル」を保阪嘉内だとしているのは、違うのではないかと思います。

作者は、3名のうち、「ユリア」には何度も呼びかけていること、「おゝユリア」という感動を伴った呼びかけもあることから、ギトンは、「ユリア」が保阪だと思うのです★

☆(注) 菅原千恵子『宮沢賢治の青春』,角川文庫,pp.172-179. 同人誌《アザリア》と保阪嘉内については⇒いんとろ【8】たったひとりの恋人:保阪嘉内

★(注) 「ユリア」とは7月ですから、「ユリア」と呼ばれる人物は、7月に関係のある人かもしれません。しかし、《アザリアの4人》の誕生月は、小菅と河本が3月、保阪が10月、宮澤賢治が8月で(『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,p.244.)、7月生まれはいないのです。同人誌《アザリア》は、1917年7月1日に第1号が発行されています。巻頭序文を書いたのは小菅ですが、4人の間で同人誌発行を提案したのは保阪だったと云います(同上書,pp.63-65)。菅原千恵子氏によれば、嘉内と賢治の岩手山行での“銀河の下の誓い”も同じ7月だったと言います。あるいは、もしかすると、「ユリア」は、“背教者”と呼ばれたローマ皇帝ユリアヌスからの賢治の造語かもしれないと、ギトンは考えています。‥ところで、「ツィーゲル」が保阪でないとすると、誰なのかですが‥ギトンは、「ツィーゲル」は小菅健吉だと思います。小菅は、盛岡高農卒業後、アメリカに留学しています。「ツィーゲルは横へ外れてしまった」は、小菅が海外へ行ってしまい、離れてしまったことを言っているのだと思うのです。「それてしまった」は、決して否定的な意味ではありません。というのは、《印刷用原稿》及び《初版本》の最後で、「わたくしはかっきりみちをまがる」と言い、作者自身も「ツィーゲル」に倣って、この“聖なる”世界から離れようとしていますから‥。なお、「ツィーゲル」は、ドイツ語だとすれば、 Ziegel(煉瓦;山羊の愛称), Zieger(チーズ), Zuegel(手綱,制御,規律) が考えられますが、小菅は4人の中で主宰者格だったとすれば、制御、規律という意味が適合します。他方、下級生で年齢も若かった河本義行は、「ペムペル」(ネコヤナギの方言“ベンベロ”から来ているようです)というあだ名がふさわしいと思います。

さて、以上の検討から、作品「手簡」に戻りますと:

. 「手簡」

17いま私は廊下へ出やうと思ひます。
18どうか十ぺんだけ一諸に往来して下さい。
19その白びかりの巨きなすあしで
20あすこのつめたい板を
21私と一諸にふんで下さい。

「白びかりの巨きなすあし」が保阪を指していることは考えられると思います。
この時期の書簡が残っていないので、確定的なことは言いにくいのですが、《アザリアの4人》の中では、1921年まで頻繁に賢治と手紙のやり取りをしているのは保阪嘉内です。

また、次に検討する作品「習作」は、賢治と保阪の間に、この時期、何らかの接触があったことをうかがわせるふしがあります。

もし、具体的に特定の人間でないとすれば、如来か、何かの神格が考えられるのですが‥、「小岩井農場」以前のこの段階では、“白いすあし”は、まだそこまで仏教化してはいないと思うのです。。。





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