ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
65ページ/114ページ


1.11.2


しかし、「やさしく天に咽喉を鳴らし」は、猫を連想させる表現ではないでしょうか?「起伏の雪」と言い、「天」と言っても、ここでは、こたつの上に猫が乗っかって毛づくろいをしているような気楽なおもむきがあります。

. 春と修羅・初版本

05もいちど散乱のひかりを呑む

は、日の出間近い地平線から放出する光と、その近くの低い空にかかる“有明の月”☆の関係です。月が光に呑まれて消えるのではなく、逆に、月が、燦々とふりかかる光を呑みこんで、いっそう白くなり、徐々にまわりの空に溶け込んでゆくように描いているのだと思います。

☆(注) 「有明」は、月が空に残ったまま明ける夜明けのことで、このような現象は、陰暦16日以後になります。しかも、ふつう「有明」と言う場合には、陰暦20日以後、つまり半月〜みかづきくらいに欠けた月が出ている場合です。昔の貴族は、月が欠けて薄暗い有明の夜には、顔を見られないですむので、ゆきずりの女を探してうろついたそうです。そこから、伝統的に“有明の月”は、明け方のつれない別れとか、弱々しい薄暗さとかいう情緒を伴ってきました。宮沢賢治は、そうした伝統文学的な「有明」を意識しながら、これを完全に塗り替えるようなメルヘン的なイメージを描き出そうとしているのです。
なお、『春と修羅・第二集』にも「有明」(#73;1924.4.20.)という詩があり、草稿の1中間形態ですが、「……亡びる最後の極楽鳥が/尾羽をひろげて息づくやうに/まちはふたたびひるがへる……/"Yet I love you, till I die!"」とあります。やはり賢治も「有明」に、“滅びようとする愛”のイメージを込めているのです。

最後の行の

06 (波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶)

は、般若心経の末尾に付いている真言(しんごん。サンスクリット語の呪文)だそうです。ただし、ここに書いてあるのは、その後半だけです。

般若心経は短いお経なので、お葬式や法事でよく唱えられます。仏教の各宗派だけでなく、神道でも唱えます。環境を清める作用があるとされるので、哲学的内容や祈願のためではなく、“お清め”のために唱えるのだと思います。

賢治も、明け方の清々しい風景の讃美として、感覚的に書いているのではないでしょうか。

振り仮名の「ハラサムギヤテイ ボージコ ソハカ」は正確ではありません。とくに、「ボージコ」は「ボージユ」の誤植です。

この真言全体のサンスクリット文とその大意は、次のとおりです:

ガテ ガテ パーラガテ パーラサムガテ ボーッディ スヴァーハー
 gate gate pa^ragate pa^rasamgate bodhi sva^ha^

「理解されたもの(女)よ!
 理解されたもの(女)よ!
 彼岸へ理解されたもの(女)よ!
 彼岸へ完全に理解されたもの(女)よ!
 悟りよ!
 成就あれ!」

呼びかけ先が女なのは、女性名詞の「智慧」が省略されているんだそうです。つまり、「理解されたもの」とは、「智慧」のことなんだそうです。
「智慧」を完全に理解することが「悟り」なのだ、という思想を表しているそうです。

しかし、これは“お清め”のための呪文ですから、そのような意味が分からなくても、差し支えないのでしょう。。。





【12】へ
第1章の目次へ戻る
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ