02/29の日記

02:26
【宮沢賢治】旅程ミステリー:東海篇(4)

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 一昨夜以来寝込んだ同居人も、だいぶ調子が良くなっているようです。

 ミステリーの4回目は、1916年3月の修学旅行後“有志旅行”に戻って“箱根越え”の難問に突入します。。。






(4)道草食って箱根越え





 3月28日朝、二見港で汽船“鳥羽‐蒲郡線”に乗船した一行12名は、宇治山田市(現・伊勢市)の“神社港”に寄ったあと、伊勢湾を横断して、知多半島、渥美半島の各港を経て、正午に蒲郡に到着します。

 当時の伊勢湾汽船の航路は、現在の伊勢湾フェリーのように、最短経路を直線的に横断してしまうのではなく、岬と島々の各漁港に立ち寄って、のんびりと運航したのです(⇒伊勢湾を越えて(4)




 蒲郡から先の旅程について、ミヤケンの書いた旅行記には:



〔…二見ヶ浦で〕翌朝日の出を拝し静なる朝凪を利用して汽船にて三河国蒲郡に着し直ちに東京に向つた。(完)」

(『校友会会報』31号,1916年7月)


 としか書いてありません。



  「蒲郡に着し直ちに東京に向つた。(完)」
(笑)


 まるで、列車に飛び乗って、そのまま東京に直行したみたいですが、旅中の和歌のほうを見ると、そうは思えないのです。







 




 渥美・知多の後の『歌稿A』を見ると:




264 日沈みてかなしみしばし凪ぎたるをあかあか燃ゆる富士すその野火

265 あゝつひにふたゝびわれにおとづれしかの水色のそらのはためき

266 いかでわれふたたびかくはねがふべきたゞ夢の海しら帆はせ行け

267 さそり座よむかしはさこそ祈りしがふたゝびこゝにきらめかんとは

268 輝石たちこゝろせわしくさよならを言ひかはすらん凾根のうすひ

269 別れたる鉱物たちのなげくらめはこねの山のうすれ日にして

270 ひわ色の重きやま\/うちならびはこねのひるのうれひをめぐる

271 うすびかるうれひのうちにひわ色の笹山ならぶ凾根やまかな

272 風わたりしらむうれひのみづうみをめぐりて重き春のやまやま

273 うるはしく猫睛石はひかれどもひとのうれひはせんすべもなし

274 そらしろくこの東京の人群にまじりてひとり京橋に行く

275 浅草の木馬に乗りて哂ひつゝ夜汽車を待てどこゝろまぎれず

276 つぶらなる白き夕日は喪神のかゞみのごとくかゝるなりけり

(『歌稿A』#264-276)



 となっていて、#264〜あたりは、汽車で富士山麓を通過している、そのうち夜になった‥と見られるのですが、

 #268〜272は、どう見ても、箱根(昔は「凾根」とも書いた)へ行っているとしか思えません。


  「ひわ色の笹山ならぶ凾根やまかな」(271)

  「白む愁ひの湖をめぐりて重き春のやまやま」(272)



 ↑こんなのは、遠くから箱根の山々を眺めている景色には見えません。

 「みづうみ」は芦ノ湖でしょう。少なくとも、芦ノ湖畔の箱根町・元箱根には行っていると考えなければなりません。

 「輝石たち」「別れたる鉱物たち」も、箱根で岩石・鉱物の採集か観察をしていると考えれば、よく解ります。⇒駿河路(6)





 




 この当時、東海道線の丹那トンネルは、まだできていませんでした。

 東海道線は、ほぼ現在の御殿場線のルートを走っていました。当時は、(沼津からではなく!)三島から御殿場へ向かう線路があり、御殿場から山北→松田を経て、国府津に達していました。

 箱根湯本からの私鉄は、小田原を経て国府津まで走っていました。

 熱海〜小田原間も私鉄でした。





 蒲郡からの上り東海道線ダイヤを、1915年版の時刻表で見ますと:




・・・・ ・@ ・A
蒲郡発・ 1320 ・‖・

豊橋着・ 1343 1402
豊橋発・ 1346 1405

三島着・ 1905 ・‖・
三島発・ 1906 ・‖・

国府津着 2123 1927
国府津発 2132 1930

東京着・ 2335 2105

(注) 「・‖・」は通過駅。


 @は、普通列車。Aは、神戸発東京行きの特別急行列車。

 正午に蒲郡港に着いた賢治たちは、蒲郡駅で@に乗ったと思われます。

 しかし、この列車で東京に直行すると、東京駅到着は午後11時35分で、この日は、もう上野から東北本線・盛岡方面の列車はありません。翌日午後まで待たなければならないのです:

 


・・・・ ・B ・C ・D ・E
・行先 青森 一ノ関 (青森) 青森
上野発・ 1300 1810 2100 2300

福島着・ 2026 0305 0350 0534
福島発・ 2031 0310 ── 0540

仙台着・ 2250 0518 ── 0735
仙台発・ 2300 0530 ── 0742

一ノ関着 0124 0900 ── 0947
一ノ関発 0130 1010 ── 0958

花巻発・ 0301 1221 ── 1101

盛岡着・ 0355 1328 ── 1154



 1915年版の時刻表で、上野から盛岡まで行ける列車は、↑上のB,C,Eだけです。BとEは直通ですが、Cは一ノ関で乗り継ぎます。

 Dは青森行きですが、奥羽線回りなのです。福島でEに乗り継ぐことになってしまいますから、Dに乗る意味はありません。

 なお、東京〜上野間には、まだ鉄道がなかった(山手線は「の」の字運転、京浜東北線は無かった!)ので、上野までは、徒歩か路面軌道電車で移動しなければなりません。(あるいは、品川で降りて、新宿経由の山手線で赤羽へ移動する手はありますが、あまり時間短縮にはなりません。)

 

 そうすると、東海道線上り普通列車@で 23時35分に東京駅に着いた時には、もう23時発青森行き直通列車Eは上野を出た後です。(品川→新宿→赤羽の経路を利用しても、@は品川23時12分着、Eは赤羽23時19分発ですから、間に合いません)そして、次の列車は、上野午後1時発のBまで無いのです。

 もっとも、東海道線で特急列車を使う手はあります。

 蒲郡で@に乗ると、豊橋でAの特急・東京行きに乗り継ぐことができます。東京駅到着は、午後9時5分で、これなら上野発午後11時のEに乗ることができます。

 しかし、当時、急行料金はたいへん高かったのです。のちにミヤケンが農学校教諭になって月給をもらうようになってからも、サハリン旅行では、急行を避けて普通列車を乗り継いでいるほどです。⇒オホーツク挽歌【66】旭川

 学生の身の彼らにとって、急行料金の負担はきつかったでしょう。特急に乗って旅程を一日短縮するよりも、安い旅館に泊まったほうが、ずっと費用が少なかったはずです。

 帰途に“箱根越え”をしたのは、そういう理由があったのだと思います。@で真夜中に東京に着いても、その後の汽車が無い。それならば、箱根あたりでゆっくりして、翌日上京しても同じことです。










 あるいは、12名の同行者のうちの一部は、特急に乗り換えて盛岡へ急いだかもしれません。春休み中ですから、岩手県以外の実家へ帰る人も、Aの特急で行けば、東京で、その夜の列車に乗り継げたでしょう。

 したがって、“箱根越え”に参加したのは、12名全員だったかどうか、判りません。特急で東京へ向かった同行者もいたので、賢治の“公式”旅行記では、まっしぐらに東京へ向かったように書いているのかもしれません。


 しかし、賢治が“箱根越え”のグループにいたことは、↑上の短歌によって明らかです。




ばいみ〜 ミ彡  


  
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カテゴリ: 宮沢賢治

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