06/29の日記
18：33
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(8)
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都電荒川線（さくらトラム） 荒川区西尾久。
こんばんは。(º.-)☆ﾉ
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛と葛藤(7) からのつづきです。
【21】『君と私と』vs「モデルの不服」(2)―――里見26歳、志賀30歳
志賀が「モデルの不服」の草稿として書いた「『君と私と』の私に」という原稿が残っています。1913年6月6日付で、これを大幅に加除して「モデルの不服」が成立したと思われます。
「『君と私と』の私に」では、冒頭に、里見との交わりを志賀なりに振り返っている箇所があって、ここは「モデルの不服」では全面的に除去されています。まず、この部分を読んでみましょう：
「僕は君との交り程に色々な意味で安心してゐた交りをこれまでした事はなかつた。
この安心にはダルな気分も勿論あつた。〔…〕が、そのダルな馬鹿気た気分ばかりではないと云ふ自信が中々強かつた。他方ではカナリに緊張した第一義的な方面も僕は見せてゐたのだ。よくいふやうに僕は人並よりその両面の矛盾は烈しい。而してそれを露骨に現はすタチだ。〔…〕僕は君には誰れよりも此両方面を露骨に見せてゐた。〔…〕
所が、君はダルな一面だけ見て他の一面にはマルデ理解がなかつた。それよりも餘りにダルな馬鹿気た気分にのみ興味を持つてゐるのに僕は驚かされて了つた。」
「「君と私と」の私に」, in：『志賀直哉全集』,第７巻,1974,岩波書店,pp.685-686.
『君と私と』では、たとえば、志賀が深夜に里見を自室に無理やり引っ張りこんだときでも、まじめな話で盛り上がることもあった―――常に里見の身体を弄んで寝てしまうわけではなかった―――、といったことが書かれています。志賀が、里見は「ダルな一面だけ見て」いたとしているのは、不当な誤解というべきです。ただ、志賀としては、『君と私と』には、その部分の書き方が少なすぎる、「ダルな一面」つまり《同性愛》の面ばかりが強調されていて気に入らない、ということなのでしょう。
‥‥となると、志賀の反論じたいが、《同性愛》カップルの痴話げんかの範疇に入ってしまうように思われますｗ しかし、先を続けましょう。
「僕は君について考へ直させられた。『いち』｛八重｝との関係をマルデ異つた人間で殆ど３年間信じさせられてゐたやうに、僕は芸術家としての君の力と趣味とをアザムかれてゐたと思つた。」
「「君と私と」の私に」, in：『志賀直哉全集』,第７巻,1974,岩波書店,p.686.
ずいぶん手きびしい批判ですが、批判の矛先は「芸術家」うんぬんではなく、里見が自らと八重との関係を、志賀に３年間隠していた。しかも、「マルデ異つた人間」との関係であるかのように偽っていた、という点にあるようです。『君と私と』では、“外神田の煙草屋の女”との関係だというウソをついたのは、志賀が吉原遊郭へ行った話をした時がはじめてで、１か月もしないうちに、それはウソで本当の相手は女中の八重だと打ち明けたことになっています（⇒：同性の愛慾と葛藤(6)【15】）。
“外神田の煙草屋の女”だと思わせていたのは、１か月足らずなのか？ ３年間騙しつづけていたのか？ ‥‥里見が、たった１ヶ月足らずにしては不釣り合いなほど、そのことを気に病んで罪深そうに書いていることから考えると、志賀の言うのが事実であったようです。『君と私と』の・そのあたりで、できごとの前後関係が混乱しているのも、それと関係があるかもしれません。
そうすると、これもやはり、《同性愛》者の痴話げんかの範疇に入ってしまうでしょう。弴のやつ、オレというものがありながら、どこかの女とヨロシクやってやがる。しかしマァ正直に言うんだからガマンしてやろう。なかなかイキな女みたいじゃないか｡｡｡ と思ってたら、それはウソで、ゾッとする女中のオバサンだった。こいつ、美意識ゼロぢゃねえか!! 汚らわしい(>.<)!! ‥‥たしかに、志賀の気持は、ゲイとしては、よくわかるんネ。ただそれを、「芸術家としての君の力と趣味とをアザムかれてゐた」などと、ゲイジツうんぬんを味方にして言うのは、どーかと思うけれどもねｗ
さて、このあとの部分では、「モデルの不服」と「『君と私と』の私に」は、内容が並行しています。「モデルの不服」から引用しましょう：
「全体何故君｛里見弴｝があんなにくだらない事実を根気よく並べたかゞ僕には解らない。
君は偉い人間或は人を少しでも偉さうに書く事はイヤだ、而してその反対なら平気で出来ると云つてゐたが、僕｛志賀直哉｝には、下らない人間或は人を殊更下らなく書く事に何の意味があるのか解からない。〔…〕
真の芸術は何かの意味で人類の進歩或は運命を暗示するものでなければならぬと思ふ。」
志賀直哉「モデルの不服」,in：『明治文学全集 76 初期白樺派文学集』,1973,筑摩書房,p.113.
この部分は、２人の考え方の違いを示していると言えるでしょう。それは、里見弴が『君と私と』に記しているエピソードによっても確認することができます：
「マースといふ亜米利加の飛行家が来て、目黒の競馬場で飛行を見せるといふので、私｛里見弴｝は君｛志賀直哉｝に誘はれて、麻布の三浦君のうちで落ち合つた。〔…〕
盛な爆音をあげながら暗紅色に塗つた機体が地上を走りだすと、間もなく吸ひあげられるやうに軽く空中に浮び昇つて行くのを見た時には、私は思はず胸の迫るほどの亢奮を感じた。〔…〕口を衝いて出るやうな叫び声、拍手の音は暫く鳴りも止まなかつた。
〔…〕君はいつまでも不思議な亢奮状態を続けてゐた。
〔…〕今日の飛行機ばかりは、俺の感じられない何かを感じてゐるらしい。〔…〕一時熱心な〔ギトン注――キリスト教の〕信徒だつた君と、一度も宗教的な敬虔を経験したことのない私との相違が、そんな思ひがけないところに現はれて来たやうな気がした。
その晩おそく〔…〕
『伊吾はあんまり亢奮しないやうだつたネ』君はその日のことをもう一度思ひ出してかう云つた。『僕は近頃にないほど愉快だつたナ。なぜ人間はあんなことをするんだ。君、一つ間違へば死ぬんだぜ。どうしても何かしないぢやアゐられないんだネ。本能的に、実際、人間にやアなんでもやれるんだヨ』
〔…〕
『僕にはどうもさういふ英雄的な興味はないナ』」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.196-197.
志賀と里見は、裕福な士族の家で育ち、ともに学習院へ通い、東京帝大に進学して中退するという、よく似た生い立ちを持っています。成長の過程で衝き当った問題も似ていますし、遊郭通いをはじめとする遊蕩を捌け口にしながら文学・小説を志すという、問題解決の方向も共通しています。そして、二人は《同性愛》のきづなを結びながら歩んでいました。
しかし、考え方の上では、対照的だったと言えます。志賀はいわば、「英雄的」というか、超越的な人道的理想を目標として持しているのです。思想のような形で表現されることはなくとも、これはおそらく志賀の心の中の信念でした。ただそれは、家父長的な観念や“士族”的な秩序感覚など、当時の上流階級の支配的観念を否定するものではなく、かえって土台にしていました。たび重なる父との衝突も、志賀の支配階級的意識を、むしろ強めたように思われます。
これに対して、“家”の中で他家の養子である立場の里見は、“家”の秩序との衝突を、志賀のように表立って闘うことはありませんでしたが、それだけに、より内面的に、はるかに徹底して遂行したと思われます。
“家”の権威を否定したあとに里見が手にしたのは、近代的な啓蒙的意識ではなく、いわば民俗的・土俗的な習俗の意識であったと思います。ただそれを、『君と私と』の段階の里見はまだ手にしておらず、その後の大阪滞在が重要な経験となって獲得することになるのです。
志賀が、突撃する場所を間違えた“革命軍戦士”ｗ だったとすれば、里見は、“革命”に背を向けた民衆的モラリストとして大成したのだと思います。
同じ部分を、草稿の「『君と私と』の私に」で確認すると、草稿では、志賀の考え方はもっと正直に述べられています。
「人類は或る目的に向かつて絶えず進むで行かなければならぬ。何かの意味で一日は一日と進歩して行かなければならない。その進歩も一ト通りの進歩では間に合はない。グヅ＼／してゐれば人類は地球の滅びる運命に殉じなければならない。
而してその進歩を導くものが人間のする第一義の仕事なのだと僕は思つてゐる。芸術、哲学、科学も総て此目的で出来るだけの努力をしなければならない。」
「「君と私と」の私に」, in：『志賀直哉全集』,第７巻,1974,岩波書店,p.686.
あまりに性急な考え方です。おそらく、当時の人びとも、もしこちらを読んでいたら、志賀の考え方に対して首を傾げたことでしょう。だから、「モデルの不服」では、あのように変えています。しかし、こちらのほうが、志賀が本当に考えていたことなのでしょう。
もっとも、志賀は上に続けて、芸術、哲学、科学が人類を「導く道は一ト筋ではない」とも書いています。
「仮りに第一流でない芸術家――オスカー・ワイルド※のやうな人でもいゝ。それに徹底した個性があれば何かの意味では必ず、人類の進歩を暗示するのである。日本の小説家では〔…〕西鶴が左ういふ意味の立派な芸術家である。」
a.a.O.
※「オスカー・ワイルド」：1854-1900。アイルランド出身の詩人、作家、劇作家。耽美的・退廃的・懐疑的だった19世紀末文学の旗手のように語られる。多彩な文筆活動をしたが、男色を咎められて収監され、出獄後、失意から回復しないままに没した(Wiki)。
オスカー・ワイルドが「第一流でない」という評価には、異論もあるはずですが、志賀は世間の評価を不問にしています。ここで注目されるのは、オスカー・ワイルドが《同性愛者》であることです。ワイルドを出しながら、自分の《同性愛者》性は前面に出したくない、という志賀の意識を読みとることができます。
里見の『君と私と』は、里見と志賀の《同性愛》を前面に出す結果になっていました。志賀は、そのことを最も恐れたのではないか？‥志賀の反論の表面には表れない部分で、この“恐怖”が彼を苛立たせていた―――そう考えることができると思います。
『モデルの不服』をつづけましょう：
「此考へで見て、君｛里見弴｝の『君と私と』には余りに左ういふ意味の暗示〔「人類の進歩或は運命」の暗示――ギトン注〕がなさ過ぎる。事実に若し左ういふ暗示がなかつたのならマダいゝ。然し事実にはカナリ多くそれが含まれてゐたと僕には思はれるのだ。それを君が易々と見逃がして平気でゐるやうなのが僕には不服だつた。〔…〕自分が副主人公になつてゐるだけに、不服を云はないではいられない気がして来るのだ。」
志賀直哉「モデルの不服」,in：『明治文学全集 76 初期白樺派文学集』,1973,筑摩書房,p.114.
ここまでの部分では、志賀は何か立派な指摘をしているような気がするのですが、その例として、志賀が『君と私と』から引用しているのを読むと、あまり中身のある議論ではないことが分かります。
ひとことで言えば、自分なら「シーリアス」に書くことを、里見はいつも冗談めかして、軽口をたたくように書いている、―――という、批評とも言えない非難に尽きています。
同じことを、しんけんな面持で取り上げるか、ユーモアたっぷりに軽く扱うかは、作家の持ち味で、どちらがよいなどと言うことじたいが無意味だと、私には思えるのですが｡｡｡
Oscar Wilde (left) & Alfred Douglas, 1891.
「君はシーリアスな部分を書くのに君｛里見弴｝には悪い誘惑なる軽い興味の笑談口で其所を埋めて了つてゐる所がある。
例へば、俊之助兄｛壬生馬｝と僕とが君の事で議論をした翌日、その事を僕が君に話す所がある。」
志賀直哉「モデルの不服」,in：『明治文学全集 76 初期白樺派文学集』,1973,筑摩書房,p.114.
同性の愛慾と葛藤(6)【16】で見ましたが、洋行から帰ってきた壬生馬が、弟の弴の自堕落な生活を見て、弴とつきあっている志賀を難詰し、志賀がそのことを弴に伝える場面です。
「『伊吾｛里見弴｝のことで昨夜（ゆうべ）は随分ヒドく兄貴｛壬生馬｝と云ひ合をしちやつたぜ』
私｛里見弴｝の顔を見るなり君｛志賀直哉｝はかう云つた。俊之助｛壬生馬｝はその頃の私のデカダン風な生活を案じて、君が側でなんの責任もなしに興味の目で、闇〔あん〕に奨励するやうな興味の目でそれを眺めてゐることを責めた。君はそれに対してどういふ風に答へたか知らないが、兎も角も兄の私を見てゐる目には『兄弟』といふちよつと取り去りにくい色眼鏡がかけられてゐる、それを通して、弟としてではなく小説を書かうとしてゐる伊吾を見るのはいけない、―――こんなことはその時私にも云つてゐたが。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.171-172.
ところが、この場面について、志賀が里見に向けている「不服」は、けっきょくのところ、
「どう云ふ風に答えたか知らないが」
という、冗談めかした一言が気に入らない、というに尽きるのです。
そしてさらに、志賀が引用して里見を非難するのは、志賀がはじめて吉原遊郭へ行ったことを里見に話す場面（同性の愛慾と葛藤(6)【15】）です。ここでは、里見は志賀の行動とその誇大な話しっぷりを、ほとんど風刺しているように見えます↓。志賀が怒るのは無理もないのですが｡｡｡
「君は前年｛1909年｝の 9月に初めて吉原へ行つた時のことから話しだした。〔…〕鞭うつやうな意思の力で一歩々々を遊郭へ運んで行つた君。〔…〕妓楼の没趣味、貪慾、不潔、露悪に直面して性来の潔癖を甚だしく脅かされた君。〔…〕永い間養はれたかういふ場所に対する総ての感情と闘ひながら、遂に床の敷いてある部屋まで行つた君。〔…〕君の姿は、殆ど革命の軍に向ふ戦士のそれほどにも勇ましく思はれた。然し、君がこの軍に従つた、苦闘して贏（か）つた、その動機も、その勝利の価値も、私には全く理解することの出来ないものだつた。」
この「革命の軍に向ふ戦士」「苦闘して贏つた」という比喩は、ほんとうに風刺として、志賀を笑い物にする意図で書いているのでしょうか？ それとも、里見としてはしんけんに、志賀の勇気にほれて書いているのでしょうか？
ここで参考になるのは、この比喩にたいへん近いことを、石川啄木が『時代閉塞の現状』(1910年）に書いていることです（⇒：【必読書150】石川啄木『時代閉塞の現状』(5)【13】)。啄木は 1886年生まれ、里見弴は 1888年生まれで、ほぼ同世代です。
「かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその『自己』を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙（現代社会組織の欠陥）に向つてまつたく盲目的に突進している。
今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが女郎買（じょろうがい）、淫売買、ないし野合、姦通の記録であるのはけつして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは国法によつて公認、もしくはなかば公認されているところではないか。」
「時代閉塞の現状」, in：石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,pp.117-118.
さすがに啄木は、「盲目的」な志賀と里見には見えていなかったものを、はっきりと見ています：
「抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙（現代社会組織の欠陥）に向つてまつたく盲目的に突進している。」
しかし、その「突進」は、進歩でも何でもありません。遊郭を繁栄させて人身売買の誘因を再生産し、家父長制社会の維持に貢献しているにすぎないのですから。それを「革命戦士」の「苦闘」と呼ぶことは、揶揄、風刺以外ではあり得ません。
やはり里見は、この表現のもつ風刺的ニュアンスを理解して使っている、悪意はないかもしれないが、志賀に対する“いたずら心”が、ここでは頭をもたげている‥‥そう解してよいと思います。
ところで、この“革命軍戦士”の部分、志賀の草稿「『君と私と』の私に」では、もっと露骨に書かれています。引用してみましょう：
「僕は君に公衆の前へ引き出された。〔…〕君が演説を始めた。人がかつ采した。君は段々乗気になつて来た。君の口調も少し変つて来た。而して、日常生活の下らない事まで頭へ浮ぶまゝに次々と話し出した。知つてる人は面白がつて笑つてゐる。と君は
『此人は然しこんな事をしてゐるが中々下らない人間ではないのですよ。』こんな事を入れた。『それは遊カクへなど行きますが、その心持は革命軍へ従ふ勇士の心持です。正々堂々たるものです』
皆がワァーと笑つた。君は割りに平気な顔をしてゐるが、僕はシラフだ。〔…〕もうワキで黙つて立つてはゐられない。〔…〕」
「「君と私と」の私に」, in：『志賀直哉全集』,第７巻,1974,岩波書店,pp.687-688.
やはり、志賀直哉は里見弴よりもはるかに文章がうまいですね。この点は誰しも認めざるを得ないと思います。私は、このクダリを読んで、思わず吹き出してしまいました。もっとも、それだからこそ、志賀は、この部分を、発表用の「モデルの不服」からは削ったのでしょうけれども。
もしも、里見に志賀ほどの文章力があったら、あるいは、志賀に里見ほどの自由なユーモアがあったら、そして、どちらかが、こうしたフィクショナルな設定をまじえて、二人の“つきあい”を、事実そのままでない小説として仕上げていたとしたら‥‥、その後の日本の文学小説は、もっとずっと面白いものになっていたと思うのですが｡｡｡
もっとも、志賀ほどではなくとも、『君と私と』に対する苦情は多かったのです。
「連載し始めてから、絶えず血族、友達、思ひもかけぬ他人などからもち込まれる苦情に悩まされた」
里見弴「解説」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.504.
たとえ氏名を変えても、身の回りであったことをそのまま公刊雑誌に書けば、登場したモデルには、みな自分のことだとわかってしまいます。神経質な人や誤解しやすい人が怒りにかられることは避けられないでしょう。
それでなくても、モデル小説は、まったく無関係な人が自分のことだと思って抗議してくることが多いのです。
「里見は 7月8日の志賀宛書簡で、返答として『モデルの不服に就て』を書こうかと思ったがやめる、と書き、10日、志賀は厳しい手紙を書いて、11日、里見は、君の手紙でへこたれた、と書いている。12日、志賀は、弱りきらないように、今まで才能によりよかかって努力が足りなかった、二人の関係を何とかしたい、小説は続けて書いて欲しいと書いているが、里見には何の落ち度もないのに、志賀の態度は年上とはいえ妙に高飛車である。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.81.
おそらく、里見が「へこたれた」のは、志賀からの非難だけではなかったと思われます。四方からの非難を受けて、里見はこの７月号（連載４回目）のあとは、しばらく休載します。その間、４ヶ月ちかく、里見は『君と私と』の続きも、他の作も書いていません。筆を折っていたようです。
里見は 10月に『君と私と』の執筆を再開して、11月号の原稿として武者小路実篤に送りますが、その原稿は、印刷所で紛失してしまうという事件が起きます。
「東京中の襤褸（ぼろ）屑を回収する三河島のなんとやらまで、捜索は綿密を極めてゐるが、今もつてなんの手がかりも得られないとか、そんな話ばかりいくら詳しく聞かされたとて、私の気分はからツと晴れあがらず、鬱々として、もう一度同じ部分を書き直すどころの騒ぎではなく、たうとうそれツきりの半端仕事になつてしまつたわけ。
後年、志賀直哉が、『自分には、書きだして途中でよした憶えは一度もないが……』と、暗に私の優柔不断が指摘され、事実それに違ひないので黙したが、あの当時のやりきれなさは、思ひ出すさへいやだつた。」
里見弴「解説」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.501.
里見弴は、『失はれた原稿』という小説も書いています（1916年執筆,17年発表）。原稿を失くされた作家が、年をとって臨終の際に、志賀がモデルと思われる友人の作家に、
「『真実（ほんたう）のことを云つて聞かせないか。死んで行く僕に、もうそんなことはどうでもよささうなもんだと思ふか知らないが、僕は知りたい！ 今更それをどうしようたつて、勿論どうも出来やしないぢやアないか、唯知りたいのだ。本当は君が盗つたのだらう？』」
「失はれた原稿」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.429.
と言って懇願する筋です。里見は、志賀を疑っていた。当時、志賀は尾道にいましたから、西村京太郎の推理小説でもない限り、東京で起きた「原稿紛失事件」に関与できるはずはないのですが、それでも、疑う気持ちを消すことはできなかったのでしょう。里見には、この紛失事件は、よほどこたえたようです。
【22】路面電車の幸運―――里見26歳、志賀30歳
志賀直哉は、この前年(1912年)11月から尾道で暮らしていました。といっても、その間ひんぱんに上京し、里見にもしじゅう会っています。(1913年)6月29日、『君と私と』の連載４回目と「モデルの不服」が載った『白樺』７月号の製本が上がった日にも、二人は話し合っています。
そのあと２週間は、電話と手紙のやりとりが続き、7月10日の志賀の「厳しい手紙」に、里見は「君の手紙でへこたれた」と返事しています。叱られたショックのせいか、里見は「水銀中毒で歯茎が腫れて惨め」な状態になり、ひきこもっています。
しかし、16日には志賀が里見宅（有島邸）に来て里見を連れ出し、いっしょにビリヤード。翌日も二人で会っています。
この二人の関係は、いつも、付かず離れずというより“付いたり離れたり”。しじゅうけんかと仲直りを繰り返しているのですから、公の場で論争しているからといって、私的な行き来がないと思ったら大まちがえです。
そうした 7月26日、志賀は市電（路面電車）に乗っていて、男の子が轢かれかかって無事助けられる事件を目撃し、すぐにこれを小説『出来事』に書きます。志賀は、『出来事』を脱稿した 8月15日に里見と芝浦海岸に出かけていて、山の手線電車と接触する事故に遭い、入院するけがを負います。
8月15日はお盆で（第２次大戦より前ですから、終戦記念日とかはありません）、にぎやかな人出だったでしょう。
明治時代の路面電車（京都）
京都府立京都学・歴彩館所蔵「石井行昌撮影写真資料」
まず、志賀の小説『出来事』ですが、内容をざっと見ていきます。
「７月末の風の少しもない暑い午後だつた。私の乗つて居る電車は広い往来の水銀を流したやうな線路の上をただ真直に単調な響を立てて走つて居た。〔…〕―――私は一番前の窓に倚りかかつて唯ぼんやりとして居た。〔…〕
乗客は八九人あつた。私の前に電気局の章（しるし）のついた大黒帽子をかぶつた法衣着（はつぴぎ）の若者がかけて居た。若者は不機嫌な顔をしてうつら＼／としてゐる。〔…〕
或るダルな数分間が過ぎた。私は運転手の妙な叫び声で急に顔を上げた。そしてその方を見た時に、小さい男の子が今電車の前を突切らうとするのを見た。子供は此方（こつち）を見ようともせずに一生懸命に駆けて居る。〔…〕運転手は大声で何か云ひながら急いでブレーキを巻いた。電車ももう餘程のろくはなつて居た。が、それは直角に交はる線を子供も電車も其交叉点へ向つてのろいなりに馬鹿々々しい鉢合せをする為に走つて居るやうなものだつた。〔…〕子供の姿が運転手台の前のてすりのやうな物のむかうへ隠れると同時にガチャンと音がした。電車は其儘一間ばかり進んだ。〔…〕少時（しばらく）して急に子供の大きな泣き声が起つた。ほつとした。」
「出来事」, in：『志賀直哉全集』,第２巻,1973,岩波書店,pp.65,67-68.
青字は、原書の傍点付き文字。
暑さでうだるような・ものうい夏の日に、いきなり目を覚まさせるような事故。幸いに、男の子は、電車の前にある“あみ”に乗っかって、無事でした。
当時の路面電車は、このような人身事故を想定して、フロントに大きな網のかご（救助網）を付けて走っていました（写真↑参照）。非常時には、この網を運転手が操作して、ぶつかりそうになった人をすくい上げるのです。
「私は近よつて行つた。そして人々の間から窓の外を見た。
もう其辺の家々から人々が集つて居た。烈しく泣く子を抱き上げて今迄私の前に居た電気局の若者が何か罵りながら恐ろしい顔でその辺を見廻して居る。若者は気が立つたやうに成つて居た。子供は手拭い地の短い甚平さんを若者の掌と一緒に胸までたくし上げられて其肉附のいい尻を丸出〔だし〕にし、短いくびれた足をちぢめて無闇〔むやみ〕と大きな声で泣きわめいて居た。〔…〕
『大丈夫々々々』と車掌は子供の尻を撫でながら云つて居た。若者は怒つたやうに、
『一寸〔ちょつと〕、もつとよく見てくれよ』と云ふと、子供を逆様に尻の方を高くして見せた。〔…〕
運転手は冷淡な調子で、
『又うまく網へ乗つかつたもんだ』と云つた。〔…〕」
「出来事」, in：『志賀直哉全集』,第２巻,1973,岩波書店,p.68.
ところが、子供が怒ってあばれるので、若者が子供を下ろすと、周囲の者が異変に気づきます。子供は、若者の身体の上でションベンを漏らしていたのです。
「若者は黙つて目に角を立てた儘自分の胸を見た。縮（ちぢみ）のシャツが鳩尾（みぞおち）から下へぐつしよりと濡れて居た。人々は又どッと笑つた。子供のくびれたももに挟まつて居る五分瓢程の綺麗な似指（ちんぽこ）の先はまだ湿つて居た。
『マ。此餓鬼は呆れたぜ』若者は子供を抱き寄せるやうにして顎で其頭をゴツン、ゴツンと撲つた。子供は又烈しく泣き立てた。
〔…〕電車は動き出した。
若者は勢よく法衣（はつぴ）を脱ぎ、そして小便に濡れたシャツを脱いだ。しまつた肉附きの白い肌が現れた。彼はシャツの濡れたところを丸め込んで、それで忙（せは）しく鳩尾から下腹の辺を拭いた。肩から腕、胸あたりの筋肉が気持よく動く。若者が一寸顔を上げた時向ひあひの私と視線が会つた。
『往生々々』と云つて若者は笑つた。先刻（さつき）の気の立つたやうな恐ろしい表情は全く消えて善良な気持のいい、生き＼／とした顔つきになつて居た。」
「出来事」, in：『志賀直哉全集』,第２巻,1973,岩波書店,pp.70-71.
尻と「ちんぽこ」を「丸出」しにした男の子、そして「しまつた肉附きの」若者の裸半身の描写に、作者の眼は集中しています。いや‥‥、夏ですから、ハッピとシャツを脱いだら猿股（パンツ）だけでしょう。子供も若者も、ほとんど全裸です。子供の「ちんぽこ」に垂れる・おしっこの雫、子供のおしっこで濡れた若者の胸から腹の筋肉、そしてチラ見えの「下腹」など、動きのある細部が次々と、読者のまえに現れます。作者と、裸体の若者の「視線が会」うと、若者は「善良な気持のいい、生き＼／とした顔つきになつて」笑顔で応ずるのです。
「暑さにめげて半睡の状態に居た乗客は皆生き＼／した顔附きに変つて居た。
私の心も今は快い興奮を楽しんで居る。」
「出来事」, in：『志賀直哉全集』,第２巻,1973,岩波書店,p.72.
青字は、原書の傍点付き文字。
都電荒川線（さくらトラム） 王子駅前。
梅雨の鬱陶しさを振り払う突然の「出来事」が、少年と男性のエロスとともに、さわやかな夏空のような世界を現出させた―――という小品でした。
志賀直哉は、この小説の執筆に 20日近くを費やしています。そして、ようやく脱稿した 8月15日、《同性愛》的情緒に半ば酔った状態で、里見弴と海岸へ出かけ、そこでもおおぜいの“オトコのはだか”を目の当たりに享受したあと、自らが電車事故に遭うことになるのです。
ばいみ～ ミ
彡
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