06/21の日記
01：32
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(6)
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浅 草 寺
こんばんは。(º.-)☆ﾉ
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛と葛藤(5) からのつづきです。
【14】寂寥の巣立ち―――里見22歳、志賀26歳
1909年9月、里見弴は学習院高等科を修了して東京帝国大学英文科に入学。同級生の『麦』同人たちも、工科、法科などそれぞれの道に岐れて行きます。里見は、10月1日発行の 24号を最終号とすることを決めました。
「丁度丸１年でやめることにした。それは私にとってはなんとなく寂しく感じられた。
〔…〕寄り添ってゐた心が四方に離れ散って行く。私だけが暗闇に置いて行かれるやうな不安がある。―――私が脣〔くちびる〕の硬（こは）いいち｛八重｝を対手に、惨忍な、やけ酒でもあふるやうな感じの肉交を恣（ほしいまゝ）にしたのはこの時分だった。〔…〕
みんなが少しの執着もなく 24冊の『麦』をほぐして、各自（めい＼／）の原稿を持って帰って行くのを見ると、有繋（さすが）に寂しかった。〔…〕
寂寥が私の心を往来してゐた。友達との間に共有でない、何か強烈な幸福を漠然と索めてゐた。よく一人でぶらぶらとあてなしに出歩いた。
或日私は外神田を歩いてゐた。〔…〕
行ってみようか知ら、さう思ったばかりでも胸がドキ＼／して来た。〔…〕
２年ばかり前、私は宮戸座※で一つ桝※※にはいった見知らぬ三十二三の女につれられて、はねてから一緒に公園の料理屋で晩めしを喰べたことがある。女は自分で勘定をして、うちへ遊びに来いと云って番地を教へた。
二三日して私はちょっとした菓子を持って礼に行った。『女』を識って間もなくだった。小ぢんまりした店には煙草を並べてあった。薄暗い茶の間に通された。女は身の上話しなど始めた。田舎の家は可なりのもの持であるが、婿が氣に入らないばかりに一人で東京に出てゐる、と話した。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.140-142.
青字は、原書の傍点付き文字。
※「宮戸座」：みやとざ｛写真↓参照｝。浅草寺裏手にあった歌舞伎の常設・芝居小屋。1896年開業。新派俳優の興行もあり､ほとんどの俳優が宮戸座の舞台をふんだというほど､多くの俳優が巣立った｡
※※「桝」：「桝席(ますせき)」のこと。歌舞伎、芝居小屋、大相撲などの観客席。板敷きの「土間」を木組みで四角形に区切った客席。座布団が置かれ、椅子はない。１つの「桝席」は数人用で、一括で貸し出されたが、１人客には、他人同士の相席をバラ売りした。里見が書いているのは、このバラ売りで相席になった女性のこと。
この・芝居小屋で知り合った・弴より 10歳年上の女性は、（おそらく）田舎の慣習で宛てがわれた婿養子の夫が気に入らず、東京に飛び出てきたというのです。女性は、ウブそうな弴の前で、田舎の家では、障子の桟に釘を刺して、夫が入って来られないようにして寝た。夫は障子の外で泣いていた、などと平然と語ります。
女性が弴を呼んだ目的も、弴がそれに応じて訪ねた目的も、セックス以外にないことが以心伝心してしまう展開に、弴は面食らって、「(八重によって）『女』を識って間もなくだった」彼は、30分程度で引き揚げてしまいました。
「酒の用意をしようとした女の心も、礼に行った私の心も、お互に解ってゐて、私は或る忌はしい空想から、後日を約して 30分ばかりで帰って来て了った。それきりそこへは行かなかった。
―――私は今、その煙草屋の店を指して歩いてゐた。横を向けばその店がもう見えるといふ街の角へ来て、そのまゝ真直に行って了ったり、それから一ト廻りしてまた戻って来たりして、漸くその店の前まで行って見ると、〔…〕」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.142-143.
逡巡したあげくに、やっと女性の「煙草屋」のあった場所にたどりつくと、建物はすっかり建て替えられてブリキ屋になっており、住人も入れ替っていました。
「かうなると、あの色の浅黒い物慾の烈しさうな女が俄に慕はしくなって来る。もう一度そこらを歩き廻ってみたが、正しく移転したに違ひなかった。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.143.
ところが、家には、「学校（東大）へ行く」と言って、講義をさぼって外神田をぶらぶらしていたのが、翌日、志賀にばれてしまい、里見は気まずい思いをすることになります。
「『昨日は、珍しく学校へ行ったんだって？』
『どうして』
『電話をかけたら君のうちの人がさう云ってた』」
a.a.O.
志賀に、こう訊かれて、講義に出たと嘘をついてしまいます。しかも、志賀はどういうつもりなのか、何の講義だったか、学習院同級の誰々もいたか、などと根掘り葉掘り訊きます。弴が適当にお茶を濁して答えたあと、志賀は弴を連れて、弴の学習院同級の東大生の家へ回ります。ここで、弴が出たと答えた講義は休講だったことが発覚してしまうのです。
「私の体は石のやうに堅くなった。側にゐた君は一ト言も口を利かずに黙って聞いてゐた。私はソワ＼／して早く帰った。」
a.a.O.
宮戸座・址（台東区浅草3-22-23）
左の工事中ビルが「宮戸座」のあった場所
石碑も工事現場内で今は見られません。
志賀は最初から、弴が家に嘘をついて学校をさぼったことを知っていて、弴をひっかけたように思われます。
しかし、里見は、志賀を怨むのではなく、このことを思い出しては自責の念に駆られることを繰り返しました。里見の道徳感情からして、そうするよりほかはなかったのです。
「『畜生！』
一人になると私は思はずかう口へ出して云った。そのことを思ふと、カツと顔へ血が昇り、胸を掻き毟りたいほど腹立たしくなる。イラ＼／と何か破壊したいやうな気持が騒立つ。
『こん畜生！』
もう一度かう呟いて、歯を喰ひ締めて、二三度頭を振った。
『フン、馬鹿にしてやがら』この、諦め、放棄（うつちやつ）った、冷〔ひやや〕かな笑が鼻の穴から熱く洩れると、それでもいくらか平静に返る。往来を歩いてゐる時、飯を食ってゐる時、本を読んでゐる時、人と話してゐる時、寝床に横たはった時、いつでも、一ト度そのことを思ひ浮べると、必ずこれだけの心理作用を一順繰り返さなければをさまらなかった。幾度それを繰り返したらう。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.143-144.
志賀は、里見と二人の関係では、分け隔てないようでもあり、心がひとつになるほど親密なようでもありながら、第三者をふくんだ関係のなかでは、里見を翻弄して楽しんだり、冷静に観察したりしていたのです。
里見が感じていた寂寥は、彼の家庭のなかでの立場とも無関係ではありませんでした。当時の大家族の家庭で、しかも有島家のような富裕家では、長男以外の子と父の関係が薄いのは、むしろふつうだったと思われます。しかし、弴の場合には、母（実母）との関係も疎遠だったのです。
「父の世話や家庭の雑用に追はれてゐる母と、めったにうちに落ちついてゐない私とは、同じ屋根の下に住みながら、まるで他人のやうに生きてゐた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.145.
「母が私の部屋へ来るなどといふのはよほど珍しいことで、来ないとなれば３月でも４月でも、半年でも来ないことがある。」
a.a.O.
ある晩、弴の部屋に母が来た。父が旅行で不在の時だったので、「奥に一人でゐるのが寂しくなつて」来たようだったが、弴はちょうど友人に手紙を書いていたので、手が離せなかった。
「『いゝ月だヨ』母は窓布（ブラインド）をあげて窓に倚った。」
a.a.O.
弴が机から顔を上げずに生返事を繰り返していると、母は、しばらく待っていたが、話し相手にならないとわかると、隣りの幼い弟の部屋へ行ってしまった。
「筆を置くとすぐに私は窓へ立って行って、
『成程いゝ月ですね』と隣室へ話しかけてみたが返事がない。私は悲しくなって来た。月の面（おもて）を薄い雲が走ってゐる。窓を離れて隣室へ顔を出してみると、いつの間にかもう母はゐなかった。―――尊い快い機会が一つ永遠に逭れて行って了ったやうな寂しい気になって、私はそのまゝ自分の部屋から出ずにゐた。〔…〕
『俺にはもうなんにもない』
涙が頬へ流れて来た。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.145-146.
「この少し前から、君は落ちつかない様子で、いつもソワ＼／してゐた。二人で当てもなく歩き廻る癖がだん＼／ひどくなって行った。おでんや鮨の立食ひも覚えた。日本橋の花村といふ小料理屋なども知った。〔…〕席亭（よせ）へもよく行った。〔…〕
ぶら＼／歩きは、その春ごろからの癖だった。〔…〕
私たちはよく『流れて』歩いた。夜が更ける、飾窓（シヨウ・ウインドウ）が鎖〔とざ〕される、行きどころはない、それでもまだうちの方へは足を向けたくない。橋の欄干や飾窓の手摺りに腰かけて、疲れ切って、二人とも黙ってゐる。〔…〕
白熱の街灯、それに隣って雨に濡れた柳、暗く流れる大川の水にチラ＼／する対岸の灯（ひ）、そんなものの魅力が私の上に不思議な力をもって来た。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.148-149.
【15】「太さ」の比べあい―――里見22-23歳、志賀26-27歳
1909年後半から 1910年にかけて、たしかに志賀の態度にも変化が現れていました。里見は、
「この少し前から、君は落ちつかない様子で、いつもソワ＼／してゐた。」
と書いています（↑前節で引用）。そして、『君と私』では、その原因は、志賀が遊郭に通うようになって、吉原遊郭の大店（おおだな）の「峯」という勝気な遊女に執着して気もそぞろだったため‥‥という筋で書いています。しかし、そうでしょうか？ 遊郭通いを始めたのにも、やはりその原因があるはずです。「いつもソワ＼／してゐた」のは、そのおおもとの原因からきているかもしれません。
そうした志賀の態度の変化が、里見と「二人で当てもなく歩き廻る癖」と連動していたとすれば、なおさらそう思わせます。
里見を苛んでいた「寂寥」感、志賀の態度が里見の精神を翻弄して煽っていた“虚無”感が、しばらくして志賀に返って来た構図がイメージされます。一種のブーメランでしょうか。
直哉と弴の二人を被ったものは、「依存性」ないし「依存症」という言葉で理解できるように思います。この言葉は、もちろん当時はありません。現在でも、一般に通用する言葉なのかどうか、わかりません。ＬＧＢＴの一部で通用しているだけなのかもしれません。
「依存性」は、特定の人に対する感情で、「恋愛」によく似ていますが、それは「恋愛」ではない、というニュアンスで使われます。身体も心も相手に耽溺して、自分の中にある不安を溶解させて安心したい、―――そういう感情です。したがって、多くの場合に身体の関係を伴います。少なくとも、セクシュアルな接触を求めます。
直哉と弴が、このころ「依存性」を高めていたことからも想像できるように、二人のあいだに“身体のつきあい”が始まったのも、やはりこのころだと、私は考えます。
『君と私』には、そのことがはっきりとは書かれていません。しかし、二人とも 15歳ころから自分の家の書生と身体の関係を持っていたのですから、二人のあいだでの性行為は、いつでもありえたはずです。とはいえ、継続的な関係、‥現在の私たちが“つきあう”と呼ぶような関係になったのは、二人のあいだに「依存性」が高まった・このころだと思うのです。
ところで、その“遊郭通い”ですが、里見は、「山の手のもの堅い家庭に育った私たちには」、“遊郭”というものに対する抵抗感が、障碍としてあったと書いています（『君と私』,p.151. 以下、同頁）。
「実際遊郭などと云ふところは不思議な恐怖と憎悪なしに、自分自身をそこへ置いては考へられないくらゐだった。」
つまり、“不潔な場所”“低級な場所”という潔癖感と結びついた意識です。一種の差別感情と言ってもよいでしょう。「娼妓」の人身売買や奴隷的境遇に同情するのとは異なる感情です。
身分・階級は、単なる経済的“格差”ではありません。第２次大戦後の社会に育った私たちには、実感困難ななにかです。
1895-96年に発表された樋口一葉の『たけくらべ』は、吉原遊郭に育つ子どもたちの物語ですが、同じ小学校に通っていたのに、親の職業が、遊女屋（置屋）、寺の住職、金貸し、等々さまざまなために、卒業後は、ばらばらに別れてしまいます。しかし、たがいに相手の職業を蔑む感情は、そこには、まったくありません。
それに対して、里見、志賀らが通った“山の手”の小学校には、遊郭の子も、卒業して遊女になる子もいなかったでしょう。彼らの“遊郭”に対する観念は、身分・階級意識に基いているのです。
「君は前年｛1909年｝の 9月に初めて吉原へ行った時のことから話しだした。〔…〕鞭うつやうな意思の力で一歩々々を遊郭へ運んで行った君。〔…〕妓楼の没趣味、貪慾、不潔、露悪に直面して性来の潔癖を甚だしく脅かされた君。〔…〕永い間養はれたかういふ場所に対する総ての感情と闘ひながら、遂に床の敷いてある部屋まで行った君。〔…〕君の姿は、殆ど革命の軍に向ふ戦士のそれほどにも勇ましく思はれた。然し、君がこの軍に従った、苦闘して贏（か）った、その動機も、その勝利の価値も、私には全く理解することの出来ないものだった。」
遊郭に行くことが、どうして革命戦士の闘いなのか？！‥‥理解に苦しむ異様な讃美ですが、志賀が、そういう誇大な言い方で自分の行動を自慢して見せた、ということなのでしょう。しかし、ここまで大げさに書くと、皮肉を言っているようにも思われてきます。ちなみに、「勝つ」と書けばすむところに、「贏」という難しい字を当てています。この字は、「貝」(金銭、財産の意）と「蠃」(なめくじ）から成る字で、たしかに、「満ちる、儲ける、勝つ」という意味ですが、これも皮肉に取れます。
「それを考へてみるよりも先づ、私は君の正々堂々たる軍容と思ひ比べて、自分の曖昧な態度を恥ぢた。〔…〕君は金で女を買った。私はなんで女を自由にしてゐたらう。この考は衝撃（シヨツク）だった。私は好奇な耳を聳〔そばだ〕てながらも、ぢツと焔を見詰て他のことを考へなければならなかった。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.152.
端的に言えば、弴の場合は逆で、自分の身体をタダで「八重」に売っていたのです。読んで私はそう思います。しかし、里見が「ぢツと焔を見詰て」考えたのは、そういうことではなかったでしょう。たとえば、「八重」の身体を「自由に」する代りに、いわばそれと引き換えに、家庭の中で誰とも情のあるつながりを見いだせない寒々とした境遇に陥った、あるいは、同年代の他の青年のように、若い女性との「恋愛」を夢見ることさえできなくなった……、そういった思いが浮かんだのではないでしょうか。
「『さア、こんどは伊吾｛里見弴｝の番だ』
突然君は向き直って私にかう云った。『俺はもうすっかり話しちまったんだヨ。一体伊吾はずるいネ。いつだって具体的に話したこたアないぢやアないか』」
a.a.O.
こう志賀に詰められて、里見がとっさに思いついたのは、「八重」との情交を、例の“外神田の煙草屋の女”とのことにして、話を作ってしまうことでした。たしかに、宮戸座で“煙草屋の女”と知り合ったのは、「八重」に最初に犯された直後の時期でしたし、“年上の女”という点も共通していたので、話を作りやすかったのです。
「『話しちまへヨ』
『困るなア、どうも』
かう云った時には、然し、私は或る謀計（たくらみ）を心のうちに見つけて、小悪魔のやうに雀躍（こをどり）してゐた。続いてそれを用心深く一ト通り吟味した上で、たうとう君をこの虚構へ嵌め込んで了った。―――いち｛八重｝との関係をそのまゝそっくりあの宮古座で一緒になった煙草屋の女の方へ移して話したのだ。巧に辻褄を合せて。―――然し、この謀計〔たくらみ〕に嵌まり込んだのは君ではなくて、企てた私こそ実はこの謀計の本当の贄〔いけにえ〕であった。動きがとれないほど嵌まり込んで苦しんだのは私ばかりだった。嘘といふものは、大抵の場合自分自身が一番しツかりと引ツ掛かる罠である。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.154.
翌日、志賀は里見を吉原へ連れて行くのですが、外から見るだけで帰ってきます。
「『伊吾｛里見弴｝ってなか＼／図々しいやつだネ、平気ぢやないか』
『ナニ、これで内心びく＼／ものなんだ』
〔…〕
『あんまり落ちついてゐると妓夫太郎のとこへ突き飛ばしてやるゾ』
『よせ＼／、冗談ぢやないぜ』私はこの戯れに震へあがった。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.155.
※「妓夫太郎」：ぎゅうたろう。客引きや護衛をしながら夜鷹（コール・ガール）などについて歩く男。また、遊女屋で客引きをする若い男。遊女と客の割り振り、客の応待もした。
ところが、それから１週間もしないうちに（1910年1月26日頃）、里見はひとりで吉原へ行って、妓楼に上がってしまいます。
「私にはまるで道徳的な阻止がなかった。因より悔いもない。これまで考への上だけで許してゐた『遊び』が、自分もそれをしたといふだけの理由で、すぐに感情の上でも許すことが出来るものになった。〔…〕
或る時｛1910年2月9日｝君はちよっと綺麗な女を見つけたから、と云って私を芝神明前へ誘った。私はこの女が好きになった。晩食後うちに落ちついてゐられないやうな時、私はよくそこへ行く気で内玄関を出た。すると台所口の方からいち｛八重｝が出て来て、門まで、時には電車通りまでついて来た。そして、『お菊さんによろしく』などと戯れて引き返して行った。私は薄穢い曖昧屋で、そのお菊といふ、女と情らしい言葉を取り交して、それで十分に満足して帰った。私はいちでは満たすことの出来ないほんの少しのものをこの女に覓（もと）めて、それを得てゐた。実際私は女の体よりも、うら若い顔の光沢（つや）や声音（こわね）などを喜んだ。その所有者の處女性や性質などを顧る遑（いとま）もなく。それほど私の周圍は若い女に乏しかった。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.155-157.
里見弴が、遊郭や花街に求めていたのは、性慾の充足ではなく、「うら若い顔のツヤ」を間近に見、「声音」を聞いて会話することだった―――肉体よりも愛情を渇望していた、ということがわかります。
「芝・神明前」は、現在の地下鉄「大門」駅付近、芝大神宮門前にあった花街で、明治・大正期には、東京３大花街に数えられる賑いだったそうです。こちらによると、料亭が置屋と同じ数だけあったとのことで、吉原のような娼妓中心の遊郭よりも、今でいうキャバクラやメイド喫茶のような、客次第で軽い娼婦にもなれる酌婦を置いている「曖昧」な料亭が多かったのでしょう。
しかし、最初の発祥は、芝・増上寺の僧侶の需要を当て込んだ「陰間茶屋」の街だったそうです。天保の改革で取り壊されて花街になったとのこと。明治以降には、ここの「陰間」は消滅してしまったのでしょうか？ 寛永寺に近い上野の「陰間」は、近代を通じて現在までゲイ・タウンとして残っているのに｡｡｡
Gaston Goor
うがった読み方になりますが、「お菊」は、本当に女性だったのでしょうか？ 志賀が里見に紹介して、里見が気に入ったという点からも、この「曖昧屋」が陰間茶屋だった可能性はあるのではないか‥ 「お菊」という名前―――小説上の仮名でしょうけれど―――も、男娼を思わせます。↑上の引用文には、「女」という字が６回出てきます。これは、『君と私』の中では異例なことで、この部分でだけ、ことさらに念を入れて何度も「女」だぞ！と断っているのです。まるで、何かを覆い隠そうとするかのように……
ゲイの相手に対する好みというのは、ほんとうに千差万別で、個人差が大きいのですが、セックスなどはどうでもよくて、相手の男が望むならしかたないから付き合ってもよいが、それよりも顔を見ている方が好き、しかも 18歳以下とか、14歳以下の少年でなければダメ、‥‥という人たちも、じつはかなりいます。
ずっと以前ですが、若い子にくっついて上野の場末のゲイバーに行っていたことがあって、行くと、店のカウンターの隅には、かならず１人か２人、場違いな年齢のスーツ・ネクタイのおじさんがいて、‥若い男の子ばかりの喧騒の中で、じっと座っているのです。あの人たちは、いったい何がおもしろくて来ているのだろう？‥と、最初はふしぎだったのですが、何度も行くうちに、見馴れた風景になってしまいました。べつに、若い子に声をかけて引っ掛けようとする様子もないのです。おそらく、性慾は別のしかたで満たされているのでしょう。家に帰れば、奥さんも子供もいるのかもしれない。しかし、家に帰っても、精神的には満たされないのでしょう。
そういうことがあるので、里見が気に入って、会話をするのが目的で通ったという「お菊さん」も、もしかしたら少年では？ と思ったのですが｡｡ これはちょっと断定するには材料が足りないかもしれません。
2月1日、里見は、ひとりで吉原へ行って妓楼に上がり、床入りしたことを、志賀に告げました。その勢いで、「八重」についても打ち明けてしまいます。“煙草屋の女”の作り話をすっかり信じていた志賀は、どれほど驚いたことでしょう。
『彼は中々に所謂太い男である』
と、その日の『志賀日記』には書かれています。
【16】おフランス帰りのナニサマ画伯―――里見23歳、志賀27歳
1910年2月23日、里見弴の次兄・壬生馬が帰国します。船は神戸に着き、そこから汽車で東京に帰ってきました。
「翌る日、いよ＼／新橋へ着いて来るといふ電報が来た。それはからツと暖かく晴れた日だった。せめて国府津まででも〔迎えに――ギトン注〕行かうと云ふので、昼食を済すとすぐ二人で出かけた。〔…〕海岸の砂へ腰をおろしたり、柑橘類の実の美しい日向の丘をぶら＼／したりして、時の経つのを待った。
〔…〕
さよ君｛壬生馬の情婦・関安子｝の話も出た。
『赤松｛有島壬生馬｝の心持ももう変ってるかも知れないネ。……若しいやなら、さよ君の話だって、僕はどうでもいゝと思ふんだ』
〔…〕私はこの言葉をまるで予期することが出来なかった。習俗的な情操から、私は君の言葉に反対した。
『そんなことは、僕には可なり不愉快だナ』
『いゝサ。何もネフリユドフの考へ方ばかりが、あゝいふ問題の解決ぢやないんだから』」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.161-162.
※「ネフリユドフ」：トルストイの長篇小説『復活』の主人公。復活祭の夜、侍女カチューシャを犯したうえ、手切れ金を無理やり握らせて捨てる。しかし、10年後に、自分の行動がもとで彼女が身を持ち崩し殺人事件の被告人となったことを知り、回心して全財産を捨て、流刑に処せられたカチューシャに付き添ってシベリアに赴く。⇒：同性の愛慾と葛藤(4)【11】参照。
壬生馬が日本に残した安子は、親には内緒で、里見の姉と志賀直哉らが、女学校の学費と生活費を援助して、婚約相手の帰国を待っているようにさせていました。ところが、帰国した壬生馬は、さっさと安子を捨てるだろう、それでも「いゝサ」と志賀は言うのです。壬生馬からの便りを読んでいた志賀は、彼が心変りしていることに気づいていたのです。
じっさい、このあとまもなく、志賀は、壬生馬に付き添って安子の母に会いに行き、婚約破棄の話をまとめています（4月17日）。そして 8月には、壬生馬は華族・原田熊雄※の妹・信子と婚約し、11月に結婚します。
※ 原田熊雄：日独混血の華族。元老・西園寺公望の側近として活動。第２次大戦中は、近衛文麿、吉田茂らと組んで東條内閣の打倒を企て、終戦工作を計るが発覚して頓挫。
里見は、『君と私』で、壬生馬の変節を当然のごとく容認しようとする志賀の態度がショックであったこと、また納得できなかったことを、縷々述べています。しかし、志賀自身も、内心では壬生馬の変身ぶりに憤り、‥その後の生涯にわたる怨恨さえ抱いたようです。志賀は、ずっと先、晩年になってから小説『蝕まれた友情』(1946年）を書いて公表し、壬生馬（有島生馬）と絶交しています。
「君｛壬生馬｝が画の勉強に最初は羅馬に、それから巴里に移り、何年かして、二十六七で、大家然とした顔つきをして帰ってから、二人の間は段々と疎遠になった。それまで君は僕にとって、兄事する唯一の親友だった。少なくとも重美｛里見弴｝と知合うまでは僕にとって君は実に掛替えのない唯、一人の大切な友達であった。君が欧羅巴に去った後、僕は非常に淋しく思い、実に頻繁に君に手紙を書いた。〔…〕そして、重見と親しくなったのも其頃だった。〔…〕
出発間際になって、君は僕と黒木｛三次｝に安井関子｛関安子｝との婚約を打明けた。〔…〕番町の君の家｛六番町の有島家｝の女中になっていた。僕はその時初めて会ったが、不幸せな境遇をそのまま容貌にしていると云ったような淋しい感じの人だった。〔…〕留守中の事を君は僕と黒木とに託した。留守中の事というのは関子にある程度の教養を与える事、それから若い女にあり勝ちな誘惑から護る事、僕たちはそう解して出来るだけの事をやるつもりになった。〔…〕
帰ってから、君は安井関子に就いて殆ど何も云わなかった。彼地にいる時から、その事は余り書いて来なかった。君にはもう、関子と結婚する意志はなかった。〔…〕
二人の間の愛情もそう深いものには思われなかった。〔…〕
只、寛大になれなかったのは、関子との問題が未だ片附かないうちに、頼子さん｛信子, 同年11月壬生馬と挙式｝との結婚話を君が積極的に進めていた事だ。」
志賀直哉「蝕まれた友情」, in：『昭和文学全集』,第３巻,1989,小学館,pp.257,263,265-266.
『蝕まれた友情』には、↑このように書かれています。
阿川伝記には、志賀と里見は、帰国した壬生馬に会った時から、その横柄な態度に驚き、反感を持ったと書かれています：
「国府津駅まで迎へに行った直哉の前へ、生馬｛壬生馬｝が１等車から悠揚迫らぬ大家然とした顔つきで下り立った時以来、二人の間には微妙な感情の齟齬が生じる。」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,p.165.
「兄｛壬生馬｝を間に、３人並んで腰かけて新橋へ向った。話しはちぎれ＼／で、どうかすると緒（いとぐち）さへ見失ってしまった。それを繋がうとする兄のもの馴れた調子が却って私たちの口を堅くした。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.162.
「並んでかけた君｛壬生馬｝は身を反らし、腰かけに背をつけると、腕組みをし、一方の足を膝に重ね、ゆっくりした調子で、僕を顧み、『どうだい』と云った。これが７年ぶりで直接会った君の最初の言葉だ。〔…〕嘗つての君にはこんな安っぽい容体振った様子はなかった筈だ。どうしたのだろう。僕は取りつく島のないような変な気持で、直ぐは返事も出来なかった。〔…〕
関子｛安子｝は君と会って直ぐ、君との距離を感じ、もう自分には君の細君になる資格はないと自覚し、身を退（ひ）く気になったのだと思う。意地悪い推察をすれば、関子がそう思わないわけに行かないような態度――丁度、国府津で会った時のあの態度で君は関子にも接したのではないかと思う。〔…〕
兎に角、関子は君の帰りを７年間待っていた女だ。そして他人からも、君の細君になる者と思われていた女だから、その面目からも、別れるにしろ、君はもう少し関子を労（いた）わってやってもよかった。〔…〕君は関子とそういう交渉をしながら、他方で、毎日頼子さんの家を訪ね、その話を急いでいた。その有頂天な様子は僕には苦々しく感じられた。」
志賀直哉「蝕まれた友情」, in：『昭和文学全集』,第３巻,1989,小学館,pp.264,266.
志賀らが、帰国後の壬生馬に感じた異和感は、関安子の問題にはとどまりませんでした。文学、芸術に対する態度、およそ生活全般に関する考え方が、洋行前の真摯な壬生馬とは違ってしまっていたのです。
壬生馬は、在京の「仲間たちに、『ラ・ヴィー』といふフランス語を使って、『生活を愛する』人生態度を、折ある毎に説いて聞かせた。意味がよく呑み込めないまま、直哉は、何か自分らの未だ思ひ到らぬ高尚な考へが盛られてゐるのかと思ってゐたが、やがてそれが、新思想でも何でもない、最も低俗な意味での快楽主義に過ぎないと分って、気持を白けさせてしまふ。
ちやうど『白樺』の刊行が軌道に乗り出した頃で、同人たちは『芸術々々』『文学々々』と皆熱に浮かされてゐるやうな状態だったが、」壬生馬の眼には、「子供じみて見えるらしかった。〔…〕自分たちの熱情を馬鹿にされてると感じた直哉は、強く反発し、かうして、少年時代以来長く兄事し敬愛した親友が急速に親友でなくなって行った。」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,pp.165-166.
壬生馬が有島邸に帰宅した翌日、志賀は壬生馬を訪ねて来て、自分と弴の「性的冒険」のすべてを壬生馬に語ってしまいました。弴の遊郭通いのすべても、「八重」との関係も、何もかも、次兄にばれてしまいました。
壬生馬は、洋行帰りの自負に酔っているのか、自分の身の不始末で志賀らに尻ぬぐいをさせているにもかかわらず、逆に、弴が直哉とともに大学に行かなくなり、遊郭に出入りして不規則な生活を送っていることに腹を立て、志賀を難詰するに至ります。
壬生馬にとっては、無責任な女遊びも自分がやれば美しきロマンス、他人がやればふしだらな放蕩―――というわけですｗ
「俊之介兄｛壬生馬｝が帰って来た当時、それまで殆ど毎日のやうに遇ってゐた君が、うちへ来ても兄の部屋にばかりゐて、たまにそこへ加はってもなんとなくのけ者のやうにされる、―――〔…〕兄と君の間を嫉妬するやうな感情を自分でどうすることも出来なかった。君が兄と一緒に私の知らない所で夜を更〔ふか〕した話などを聞く時、殊にさうだった。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.171.
青字は、原書の傍点付き文字。
ところが、「関安子」との婚約破棄の一件を片づけたあとで、志賀は里見の前で、壬生馬に対する不満を漏らします：
「『赤松｛有島壬生馬｝はもうちっとかういふ問題に神経質であってもいゝナ』
〔…〕
『どうしたんだい』
『どうしてってこともないが、一体にサ』
私｛里見弴｝は君を兄貴の手から取り戻したやうな喜びを感じた。」
a.a.O.
志賀は、自分の女中「千代」との婚約破棄の経緯と引き比べないではいられなかったでしょう。志賀自身の至らなさも大きかったとはいえ、「千代」に失望させられた後も、１年間にわたって学費を出して裁縫学校に通わせ、両親・祖母との衝突に堪えながら、婚約を成就させようと限界まで努力したことはたしかでした。ところが、壬生馬は、不在中のすべての世話を他人に任せきりにしたうえ、帰って来たとたん、にべもなく婚約破棄。「かういふ問題」とは、壬生馬にとっては、邪魔な女をどうするかという自分の体裁問題、しかし直哉の考えでは、相手の「安子」自身はもとより、その母や、あいだに立った自分や壬生馬の姉の立場と気持の問題です。
志賀の言葉は、壬生馬の弟である弴に対して遠慮したのか、たいへん婉曲な言い方になっています。が、はっきり言えば、壬生馬は無神経すぎる。とくに、自分より立場の弱い者に対して、あまりにも無神経だ、ということです。
「それから一ト月ばかり後のことだった。
『伊吾｛里見弴｝のことで昨夜（ゆうべ）は随分ヒドく兄貴｛壬生馬｝と云ひ合をしちやったぜ』
私｛里見弴｝の顔を見るなり君｛志賀直哉｝はかう云った。俊之助｛壬生馬｝はその頃の私のデカダン風な生活を案じて、君が側でなんの責任もなしに興味の目で、闇〔あん〕に奨励するやうな興味の目でそれを眺めてゐることを責めた。君はそれに対してどういふ風に答へたか知らないが、兎も角も兄の私を見てゐる目には『兄弟』といふちよっと取り去りにくい色眼鏡がかけられてゐる、それを通して、弟としてではなく小説を書かうとしてゐる伊吾を見るのはいけない、―――こんなことはその時私にも云ってゐたが。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.171-172.
弟（里見弴）の扱い方に関する壬生馬の志賀に対する不満―――その要がどこにあったのか、諸資料を読んでもよくわかりません。いわゆる「悪所通い」――遊郭通いの悪習に染めたことを責めている、多くの人は、そう読みとっているようです。しかし、女中との交情をなぜ問題にしないのか？ ふつうの家なら、こちらのほうが大問題でしょう。“家の中の問題”には目をつぶるのか？‥
たしかに、このころ里見は養親の山内家で、利子だけで暮らしていけるほどの資産（５万圓）があることを聞いて、文学に志す気になっています。大学に行かなくなり、まもなく志賀らのまねをして退学してしまうのも、それと関係があります。ところが、その５万圓を、まもなく遊郭で浪費して無くしてしまうのです。それだけを見れば、壬生馬の心配はもっともでしょう。
しかし、そのうえで、里見は大阪の遊郭で馴染みになった娼妓と結婚しています。財産を失う代わりに生涯の伴侶を得たのなら、差引勘定はマイナスではないかもしれない。また、財産を蕩尽したおかげで、背水の陣で小説修行に身を入れるようになり、志賀、武者小路とならぶ大作家になれたと言えるかもしれません。そういう意味では、志賀の「答へ」は、結果的には正しかったことになります。
それにしても、遊郭通いと、小説を書くことと、どういう関係があるのか、私にはわかりませんｗ
別の方面から考えてみることもできると思います。壬生馬としては、数年間日本を空けて、戻って来てみたら、親友と弟が異常に仲良くなっていて、弟を取られたような気持になった‥‥そういうことではなかったでしょうか？ 志賀が里見の前で壬生馬を指す呼称が、壬生馬の親友として呼ぶ「赤松」から、里見と同体になって言う「兄貴」に変っていることも、顕著な指標です。
里見が、志賀と壬生馬に対して嫉妬したのと同様のことを、壬生馬は、里見と志賀に対して感じたのではないか？
もしそういう意識か無意識が壬生馬にあったとしたら、志賀の“反論”は、壬生馬をいよいよ苛立たせたにちがいありません。“おまえの弟だと思うな”と言っているに等しいのですから。
「闇〔あん〕に奨励するやうな興味の目でそれ〔弴の自堕落な生活――ギトン注〕を眺めてゐる」
たしかに、志賀の態度には、そういう印象を与える点があったかもしれません。ハタからは、そう見えたでしょう。
しかし、【14】↑にも書きましたが、それは一面にすぎず、他の面では、直哉と弴は似た者同士、一心同体なのです。二人の“つきあい”がつづき、たがいの意思と感情が近づいてゆけばゆくほど、こちらの面が強くなります。また、少なくとも弴のほうは、そのように対等に“融合”してゆくことを望んでいました。“ひとかどの大人”同士として対等になるのではなく、仲のよい子供のように“融合”して対等になるのです。それは、《同性愛》そのものでなくて何でしょうか？
「然し、実際俺は伊吾にとっての悪友かも知れないヨ。悪友だネ、可なり』かう云ひながら君｛志賀直哉｝は片一方の立てた膝の上で紙片（かみきれ）をいくつにも折ってゐた。『悪友』といふ言葉は私の弱い性分を一方に確認しなければ云はれない筈の言葉だ。それを平気で君に使はれては、事実は兎も角も、私としていゝ気持はしなかった。
『然し俺｛志賀直哉｝は、――昨夜も兄貴｛壬生馬｝にさう云ったんだが、君｛里見弴｝のことに就て少しも責任を負はないヨ。俺には実際そんな爺むさい心持にやなれないからナ』かう云ってから少し冗談のやうに、『伊吾がどうなったっておいらのせゐぢやないヨ。いゝかい、そのつもりでゐてくれヨ』
いくらその頃の私でも自分のことを他人に責任を持って貰ひたくはない。それは有難いが、そんなことを半ば冗談のやうな態度で言明される、――この際自分の態度を明かにして置かうと云はぬばかりに言明される私だと思ふと嬉しくなかった。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.172.
直哉の態度と「言明」は、壬生馬に追及されて、弴との間でも社会人としての“個”を意識せざるを得なくなったために、出たものと言えるでしょう。もし、直哉が影響を与えたために弴が堕落したとすれば、直哉は弴に加害したことになる。つまり「悪友」である。「悪友」という言葉に、現代のような軽い意味ではなく、犯罪に加担させるような反社会的な響きが感じられます。そこで、直哉としては、「悪友」であることを認めつつ、弴に対して、君も一個の社会人なのだから、自己責任で対処せよ、と「言明」することになります。それでもなおかつ、弴が自分と付き合うのなら、自分は責任を負わない、と言って“免責”を約束させるのです。
そう言われれば、弴としても、それはまったくそのとおりで、自分にも異存はない、と答えざるをえません。しかし、それでもなおかつ弴が不満を抱くのは、直截の「言明」が、いわば他人行儀だからでしょう。親密であるべき“ふたり”のあいだに“社会”を持ちこんでくることが、弴の心情に反するのです。
しかじかに「言明される私だと思ふと嬉しくなかった」という表現が、そういう里見の気持を表しています。
【17】「粘着」と「反発」の夜ふけ―――里見23歳、志賀27歳
「こんな風に私たちは可なり多くの時を街上に暮した。〔…〕どこにも落ちついてゐられないやうなソワ＼／した気持も兎角私たちを街上に引き出した。東京市の塵埃を焼き捨ててゐる原で、四十五六の男の乞食が独りでわけの解らない踊りを踊ってゐた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.175.
２，３人の深川の若者が見ていて、揶揄して嘲っているのに、乞食は、どこ吹く風か、というように受け流して踊り続ける。すると、揶揄した若者のほうが「あせつて来た」。直哉と弴は、それを見て、「乞食の方がよツぽど役者が上だなア」と評して、小賢しいことを言う「利口がつた馬鹿」を痛快に眺めて嬉しくなった。
皮相的で物知り顔の亜流インテリに対する二人の反感が、ひたすら自己にのみ向う「乞食」に、“芸”の真実を見いだして、我が意を得ているのでしょう。
「街を歩いてゐると、よくこんな些細な、然し面白い事件に遭遇（であ）った。これも私たちの労れて繊細になった心が汲み取るには盡きない興味だった。
五六時間くらゐ続けさまに歩いてゐることは珍しくなかった。それを仕事のやうにしてゐても、有繋〔さすが〕に二人とも労れて了ふことがあった。体の労れから心までなんとなく堪性（こらへしやう）がなくなって来る。なんの検則もなく、無意味な、どうかすると下等なことをペラ＼／と喋ったり、俗謡でも唄ってゐるより仕方がない。さういふお互をたまらなく醜く思ふやうになって来る。その心持がまたすぐにお互に通じる。『いやだ＼／』胸さきへジリ＼／と嫌悪の情がこみあげて来る。
『一人にならう！』
君は幾度も心にさう思ふ。
『あゝ、いやだ＼／』
私もさう思ふ。それが、どうしても別れられない。―――かういふ一種不合理な関係がいつの間にか君と私との間に、女郎蜘蛛の巣のやうに粘り強く、複雑にまつはり附いて了った。その関係をまた私たちは他人（ひと）ごとのやうに語ることも出来た。どちらの固有でもない。二人の間に自然と生じて来るこの関係を〔…〕『化学作用』と名づけたりもしてゐた。普段はそれほど離れて考へることも出来るのに、いざその場となると、ずる＼／と引きずり込まれるやうにさういふ状態に陥って行くのをどうすることも出来なかった。
大川端の水練場の跡の丸太に腰かけて、30分ぐらゐ口を利かずにゐることがある。お互に別々なことを考へてゐる。〔…〕
総ての慾が満されてゐる。どうしたらば、と云ふ望みもなく、唯なんとなく物足らないやうな気がする。どうしてもうちへ帰って寝る気にならない。夜がふける。方々で雨戸を閉（た）て始める。どうにもかうにも仕方がない。〔…〕とうに電車はなくなるし、人通りさへ稀になった日本橋通りをへと＼／になって歩いてゐる。仙女香の飾窓の鉄棒へ腰かけて、いつまでも饐（す）えたやうに醜い自分をさらけ出してゐた。
かういふ関係は君と私との間に限られてゐた。他の友達とでは、君もそれほど不可抗力な粘着を感じはしなかった。〔…〕
私は、この醜い、自己、並に相互嫌悪の状態に沈湎してゐる間の、だらしのない、不貞腐れた、上ツ調子な、下劣な感情にも、不知不識の間に不思議な魅惑を感じてゐた〔…〕
私は過去としていくらももってゐない自分の生活に疲れてゐた。〔…〕だらしのないと云ふことも、不貞腐れと云ふことも、上ツ調子と云ふことも、下劣と云ふことも、かういふ古池のやうな生活から湧きあがる沼気（メタン）※である。然し私の周圍は、この沼気〔…〕そのものに同感を表してゐるには餘りに足早に歩いてゐた。成長することばかり考へてゐた。正直な話は、私と君との『化学作用』に於てのみ自分のうちに溜って来る沼気に心置きない発散の口を与へることが出来たのだ。
それが事実である如く、また一方にはさういふ感情を醜く厭はしく思ふ正反対な感情をもってゐたことも事実なのだ。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.175-177.
※「沼気」：『明治文学全集 76 初期白樺派文学集』,1973,筑摩書房.所収の異本テキスト「君と私と」では、「メタン」とルビが振られている。
互いの吸引力と反発力の併存・交替は、「恋愛」関係では珍しいことではありませんが、この直哉と弴の「不可抗力な粘着」と「嫌悪の情」の記述は、凡庸でない特徴があります。
まず、「嫌悪の情」といっても、相手の見た目が醜いとか、相手がそばにいることが不快感を催す、といった感情とは異なることです。「自己、並に相互嫌悪の状態」「労〔つか〕れて了」った「お互をたまらなく醜く思ふやうになって来る。」と書かれているように、「嫌悪」は相手にも自己にも同等に向けられている、というか、（ある条件によって一時的に生じた）相互の関係に対して向けられているのです。別々に離れたいのに「別れられない。―――かういふ一種不合理な関係がいつの間にか……、女郎蜘蛛の巣のやうに粘り強く、複雑にまつはり附いて了った」と言っているように、この「嫌悪」を催す作用は、それぞれの内部からではなく、外部から「まつはり附いて」くるものと意識されています。
「〔…〕丸太に腰かけて、30分ぐらゐ口を利かずにゐることがある。お互に別々なことを考へてゐる。」
30分もじっと寄り添って動かないでいる“吸引力”のほうは、「恋愛」関係から当然のことで、私たちには説明を要しないでしょう。しかし、同時に、「お互に別々なことを考へてゐる。」ということが、この二人の場合には意識されているのです。
特徴的なのは、これが、“相互にばらばらで、内心は別のほうを向いている”こととして、強く意識されていることです。どんな「恋愛」関係でもそうなるわけではありません。
私事ながら、経験から言いますと、この時の里見弴と同じ年齢の私と、当時つきあっていた同年齢（誕生日も同じ！）の男とは、↑この描写と同じ状態で、二人で黙ってじっとしていることが、よくありました。相手の男は、周囲の風景に私よりも関心が深くて、よく、
「あ、カラス！」
などと言っては、私の注意を向けさせていました。それでも私が知らんふりをしていると、私の顎と頭をつかんで、えいっとそっちへ向けるのです。（すると私は、きまって高い声で悲鳴をあげるのですが、そのあとの縺れあいは想像にお任せします）
この場合も、「お互に別々なことを考へてゐる」のは明らかですが、それが特に意識されるわけではありません。「粘着」と「嫌悪」の対抗関係のようなことは、私たちにはありませんでした。「粘着」のみで「嫌悪」は無いといってよかったのです。
直哉と弴の関係では、“反発力”をもたらすものは、それぞれの“個人としての自立”を求める“自我”意識です。直哉の弴に対する呼び名「伊吾」は、Ego の英語読みに基いています。“自我”は、帝国主義成立期の日本の青年の意識を支配した“新しい思想”だったのです。かれらは、それぞれの“自我”の維持・確立を強く意識していました。かれらの「自由」も「生」も「芸術」も「文学」も「恋愛」も、これと結びついていました。
しかし、そのような啓蒙的“自我”、言説的“自我”は、無意識の“吸引力”に支配された「恋愛」の結合に介入し、邪魔をします。ここに、“吸引力”と“反発力”の対抗が生じます。
「私の周圍は、〔…〕餘りに足早に歩いてゐた。成長することばかり考へてゐた。」
と書かれているように、当時の日本の時代と社会は、“自我”の確立と自律、自己責任、自己統制を、至上命令としていました。直哉と弴のあいだでも、それは強く意識されざるをえなかったのです。それは、“吸引力”と“融合”を本位とする「同性愛」関係と矛盾することになります。しかも、「芸術」的意識の上では、「恋愛」は、啓蒙的“自我”言説によって支えられているのですから、自己矛盾とならざるをえません。
二人のうち、里見弴のほうは、“吸引力”と“融合”への志向が優越していたと言えます。啓蒙的“自我”に対抗して、“吸引力”“融合”への志向を護るために、里見が尊重したのは、志賀との沈滞状態に見出だされた「だらしのない、不貞腐れた、上ツ調子な、下劣な感情」のもつ「魅惑」でした。里見はこれを「沼気（メタン）」と呼んでいます。
里見の・この感情は、志賀と二人の「ぶらぶら歩き」を始めたころに、「水の低きにつくやうに」雨水の流れる方向へどこまでも歩いて行こうとしたこと（p.149）や、二人が、明るい電灯やガス灯に照らされた遊郭よりも、薄暗い低級な場末の「淫売宿」をより好んだこと（p.156）にも表れています。
もっとも、こうした里見の意識は、相手の志賀にも共有されていたわけではありません。志賀のほうは、啓蒙的“自我”を、より優越させていたようです。そこで、二人の関係を把えるしかたも、二人それぞれ違ってきます。そこから、小説に対する考え方、相手の書いた小説に対する評価も影響されます。
志賀は、里見の小説を、「自然主義ニヒリズム」の正宗白鳥の亜流と見なして批判（ほとんど非難）しましたが（pp.197-198）、この批判は里見には心外でした。里見の「沼気」志向は、志賀には理解されていないのでした。
里見は、「粘着」と「嫌悪」に陥った二人の関係を描写した↑上の引用節（48節）の末尾で、次のように書いています：
「この矛盾した心の２方面は、私の生活にも、同時に作品にも形をとって現はれて来る。然しそのことに関しては、わたし以外の何者の脣も私の面前で動かせたくない。〔…〕このことに関して近い頃２度動いた君の脣を私は忘れない。〔…〕私はさういふ脣の所有者を、決して快しとするわけにいかない。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.178.
「脣〔くちびる〕」という字が３回使われています（「唇」は「脣」の俗字）。志賀の「くちびる」に対する・里見の官能的な感情が表出されています。ふたりのあいだでは、作品の評価をめぐる葛藤も、「同性愛」の感情・行動と無関係ではなかったのです。
Michel Gourlier / Daniel Barkley
ばいみ～ ミ
彡
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