07/28の日記

08:49
【ユーラシア】『哲学の貧困』ノート(3)

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ヴィンセント・ファン・ゴッホ『工場』  







 こんばんは。(º.-)☆ノ




 【ユーラシア】『哲学の貧困』ノート(2)からのつづきです。


 マルクス著『哲学の貧困――プルードン氏の「貧困の哲学」への回答』は、プルードン『貧困の哲学』(1846)に対する批判の書として 1847年にフランス語で公刊された。

 「第2章 経済学の形而上学 第2節 分業と機械」は社会的分業と工場内分業の関係を、「第4節 所有ないし地代」はリカード「地代論」にからんで資本主義下の「近代的土地所有」の問題を扱っている。これらの節から抄録する。

 筑摩書房『マルクス・コレクションU』の塚原史・今村仁司訳を使用した。第2章第2節、第4節は今村氏の訳である。

 ちなみに、現在、ネットや書店の端末で『哲学の貧困』の訳本を検索すると、まとばウンタラの訳しか出てこない。他の訳書は品切れのようだが、マトバ訳はお勧めしない。“超訳”で無理やりマルクスとプルードンを近づけようとしているらしく、「効用価値」を「使用価値」と訳すなどの誤訳(故意の誤訳を何と言うのか?)が目立つ。だいいち、この本は中身のわりに高すぎる。読者を貧困にしないと気がすまないのだろうか?


 この「ノート」は、例によって、著作の内容を要約することも、著者らの思想を伝えることも目的としていません。あくまでも、私個人の思索のための抄録と、必ずしもテクストにとらわれないコメントを残すためのものです。






 【5】第2章第4節―――プルードンの「土地所有地代」論




「歴史上の時期の違いに応じて、所有は違った仕方で、またまったく違う一連の社会関係の下で発展してきた。だからブルジョワ的所有を定義することは、ブルジョワ的生産のすべての社会関係を叙述することにほかならない。

      
〔…〕

 『地代の起源は所有の起源と同様にいわば経済外的である。それは富の生産とはほとんどかかわりのない心理的な配慮や道徳的配慮にある』(第2巻,265ページ)

      
〔…〕

 『経済的進化の第7期――信用――では虚構が現実を消滅させてしまったし、人間の活動が空虚のなかに消え去るおそれがあるから、人間を自然に前より強く結びつけることが必要になった。この事実を思いおこすだけでよい。ところで、地代とはこの新しい契約の代価であった』(第2巻,269ページ)

      
〔…〕

 ひとたび地代の存在が認められると、
〔…〕借地農と土地所有者の間で地代をめぐって意見の対立が起きる。〔…〕言い換えれば、地代の平均分担額はどれだけか。〔…〕

 『リカードの理論がこの問いに答える。社会のはじまりでは、大地の上に登場したばかりの人間の前には広大な森ばかりがあり、
〔…〕そういう時代には地代はゼロであったにちがいない。〔…〕土地は万人のものであって、社会のものではなかった〔…〕労働が土地に価値を与えるようになったので、地代が生まれた。同じ量の労力をもって農地が成果をあげるにつれて、農地は高く評価されるようになった。また借地農の賃金すなわち生産費を差し引いた土地生産物の全体をわがものにするのは、いつも土地所有者の習性であった。このように、所有は労働の後からやってきて、生産物のなかで現実の費用を超えるものをすべて労働から取り上げる。所有者は神秘的な義務を果たし、小作人に対して共同体を代表するから、借地農は〔…〕彼が収穫したものをすべて社会に報告しなければならない責任ある労働者以上のものではない。……したがって本質から見ても使命から見ても地代は配分的正義の道具であり、経済の守護霊(ジェニー)〔=天性――訳者註〕が平等に達するために駆使する多くの手段のひとつである。〔…〕……小作人が自分のものと思わずにはいられないし、自分こそが生産者なのだと思うところの生産物の増加分を、小作人から取り上げるためには、やはり所有の魔術が必要であった。地代、いやむしろ土地所有は農業上の利己主義を挫き、どんな権力もどんな土地分割も生じさせることのできない連帯を創造した。……目下のところ、所有の道徳的効果が得られたうえは、残された課題は地代を配分することだけである』(第2巻,270-272ページ)

      
〔…〕

 プルードンにとって小作人を責任ある労働者に転換させることが地代の摂理的目的であるが、そこから彼は、地代の平等分配へ移る。」

『哲学の貧困』,in:今村仁司・他訳『マルクス・コレクション』,2008,筑摩書房,pp.316-319,323.



 つまり、「地代」は、「社会」が取得すべき剰余価値だ、ということになる。この考えを進めると、全土地を所有する社会主義国家に行き着くのではないか?













 【6】第2章第4節―――リカード地代論と農業技術革新



 プルードンの経済学理解は不正確なので、まずはリカードの地代論をマルクスに説明してもらおう。



「リカードの意味での地代はブルジョワ的状態の土地所有である。すなわち、それはブルジョワ的生産によって条件づけられた封建的所有である。

 すでに見たように、リカードの理論によれば、すべての物の価格はつまるところ産業的利潤を含む生産費によって決定される。言い換えれば、使用された労働時間によって決定される。マニュファクチュア工業の場合、最小限の労働によって得られる生産物の価格が、同一種類の他のすべての商品の価格を規制する。ただし、もっとも安くもっとも生産的な生産用具を限りなく増やすことができること、自由競争は必ず市場価格しなわち同一種類のすべての生産物にとって共通価格を生む、という条件
〔のもとでのみ、それは成立する――ギトン註〕で。

 農業では反対に、最大量の労働によって得られる生産物の価格が同一種類のすべての生産物の価格を規制する。第一に、
〔…〕生産性が同程度である生産用具すなわち同じ肥沃度の耕地を随意に増加させることができない。第二に、人口が増加するにつれて、劣等な耕地を耕作せざるをえないし、あるいは〔開墾によって耕地を拡大する方法でなく、〕同一の耕地面に新しい資本を投下して〔同じ耕地面積のままで収量を増やす方法を採って〕も、〔新たに開墾される土地は、いままで耕作されていなかったような極劣等地であるから〕前の土地〔既耕地〕ほど収穫はあがらないようになる。どちらにころんでも、より多くの労働を使うのだが、得られる収穫は〔投下労働量の増加には比例せず、労働生産性は減退し、生産費の増大が収穫の増大を上回る――ギトン註〕比例的に減少する。人びとの生活要求が労働の増加を必然的にすると、耕作費用の高い土地の生産物は、耕作費用の低い土地の生産物と同じように、無理にでも売りさばかれる。競争は市場価格を平準化する〔が、もともと需要が供給を上回っている状況で農産物増産が行なわれているのだから、需給均衡点では、新しく開墾された最劣等地の高い価格に「平準化」されることになる――ギトン註〕〔…〕。優等地の生産物も、劣等地の生産物も、同じ程度に高く売れる。生産費を上回る優等地の生産物価格の増加分が地代となる。」
『哲学の貧困』,in:今村仁司・他訳『マルクス・コレクション』,2008,筑摩書房,pp.320-322.



 「リカードの意味での地代は……ブルジョワ的生産によって条件づけられた封建的所有である」――――「封建的所有である」と言う意味が不明。資本主義下の農地の地代は「封建的所有」の原理で発生すると言うのか、それとも、そんなことはないはずだが、リカードの地代発生理論は「封建的所有」の原理であって誤りだと言うのか。どちらもマルクスのほうが誤りではないか?

 リカードの・この「比較生産費説」は、「新墾地の生産性は低い」という誤解の上に成り立っている。つまり、農業生産力の基礎は《自然》生産力であり、人間による攪乱を受ける前の「大地」が有している生産力だ、という認識が欠けている。

 マルクスもまた、この時点ではその認識が欠けており――そのことが、「比較生産費」の説明の不十分さに表れている――、彼のリカード批判はもっぱら、農地の生産性は固定したものではない――技術発展、資本投入、需要状況によって変化する――というだけであった。つまり、まったく批判になっていなかった。






 






「リカードの学説が全体として真実であるためには、つぎのことが必要である。すなわち、資本を種々の産業部門に
〔工業にも農業にも〕自由に投下することができること、資本家たちの間で大きく展開される競争が、同等の比率で利潤をもたらす〔ように資本家が要求し、それに応じて各生産物の価格が調整される〕こと、借地農は劣等地に投下された彼の資本に対して、たとえば彼の資本が木綿工業に投下されたとしたら得られるであろう利潤と等しい利潤を要求する〔、もし等しい利潤が得られなければ、農業から資本を引き揚げて木綿工業に投資する〕こと、農業経営は大工業体制に適応していること、最後に、土地所有者自身は貨幣収入しかめざさない〔小作人に尊敬されるとか、彼らを政治的に支配するとか望まない――ギトン註〕こと、である。

 アイルランドでは小作制度が極度に発展しているとはいえ、地代がまだ存在していない
〔伝統的耕作方式、英国と比べての農業生産性の低さ、農業余剰の薄さなどのために、農業資本家(借地農)が介入できる余地がない――ギトン註〕地代は、〔…〕工業利潤をこえる増加分であるから〔工業利潤に匹敵する利潤が得られて、その上さらに余剰が出るのでなければ、地主の取り分は生じないから――ギトン註〕〔…〕

 
〔資本制〕地代は、〔…〕土地所有者に対して、奴隷・農奴・貢納者・賃労働者でなく、資本家を対立させる。土地所有は、いったん〔…耕作者との間に借地農(資本家)が介入すると――ギトン註〕、賃金だけでなく工業利潤によっても決定される生産費以上の増加分しか取得しなくなる。〔…〕

 プルードンのいう小作人しかいない間は、
〔資本制〕地代もなかったはずである。〔…〕土地をあたかも別の工場のように経営する工業資本家の介入、土地所有者が〔…〕ありきたりの高利貸しに変わる地代収入にしか関心をもたなくなる〕こと、これらこそ地代によって表現されるさまざまの関係である。

 
〔…〕地代は、人間を自然に結びつけるどころか、土地の耕作を競争に結びつけるだけである。ひとたび地代〔rente:年金,利子配当〕体質を身につけると、土地所有そのものが競争の結果になる。というのは、そのときから土地所有は農産物の売買価値に依存するからである。〔…〕土地所有は動産化され、商業の一結果になる。都市工業の発展とそれから生じる社会組織に強制されて、土地所有者が〔…〕自分の土地所有に貨幣を打ち出す機械しか見なくなってはじめて、地代は可能になる。地代土地所有者を大地自然から完全に切り離したので、イギリスに見られるように、彼は自分の土地に出でかけていくことすら必要としない。〔…〕

 借地農は自分が耕作する土地にもはや関心がなく、マニュファクチュアの企業家と労働者は自分たちが作る木綿や羊毛に関心がない。彼らが関心をもつのは、農産物価格や貨幣額だけである。またそこから封建制、古き良き家父長的生活、先祖の簡素な習俗と偉大な徳へと戻れと熱心によびかける反動的党派の嘆き節が聞かれることにもなる。」

『哲学の貧困』,in:今村仁司・他訳『マルクス・コレクション』,2008,筑摩書房,pp.321-323.






 






地代は耕地肥沃度の安定した指標になりえない。というのも、化学の現代的応用はたえず耕地の性質を変えてしまうし、いま眼前で地質学的知識が相対的肥沃度に関する古い評価をすべてくつがえしはじめているからである。イギリスの東部諸州にある広大な耕地が切り開かれたのは、ようやく 20年前からである。腐植土と下方の地層の成分との関係がよく理解されていなかったために、これらの耕地は原野のままに放置されていたのである。

      
〔…〕

 肥沃度はふつう信じられているほど自然な性質ではない。それは現在の社会関係に密接に結びついている。ある土地は小麦を作るためにきわめて肥沃であるかもしれないが、にもかかわらず小麦の市場価格によっては、耕作者はこの土地を人為的に牧草地に変えるのを余儀なくされるだろうし、そうすることで土地を不毛にしてしまうのである。

      
〔…〕

 プルードンによれば『土地の利用面での改善』――『生産法の充実』――は地代をたえず上昇させる原因だという。ところが事態は反対であって、この改善は地代を周期的に低下させるのだ。
〔…〕

 改善とは、同一の労働をもってより多くを生産すること
〔つまり生産性の増大〕であり、〔…〕〔その結果、優等地と劣等地の生産力の差は縮まり、――ギトン註〕同じ土地につぎつぎと投下される〔追加〕資本部分は同等に生産的でありつづける〔つまり、農業技術の進歩によって、追加投下資本の生産性逓減は無くなる、肥料を2倍投下すれば収量は2倍になる!!、と言う――ギトン註〕〔…〕

 17世紀のイギリスの土地所有者たちは、この真実を十分に感じとっていたから、彼らの収入が減少するのではないかと恐れて、農業の進歩に反対したのである。(チャールズ2世〔1630-85〕時代のイギリスのエコノミスト、ウィリアム・ペティを参照せよ)。」

『哲学の貧困』,in:今村仁司・他訳『マルクス・コレクション』,2008,筑摩書房,pp.326-327,329.







Henry Scott Tuke






『哲学の貧困』ノート ――――終り。   










ばいみ〜 ミ




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