07/10の日記

06:34
【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(6)

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 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(5)からのつづきです。


  マルクス/エンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー』は、編集中途の草稿の状態で遺された未完成の著作です。内容的に未完成で、さまざまに矛盾する主張を含んでいますが、それこそがこの作品の魅力でもあります。また、内容だけでなく、形式面でも大きな混沌をはらんだテクストであるため、字句はもちろん篇別構成・断片の順序に至るまで、編集者の介入を必要としており、版本によって相異があります。ここでは、廣松渉・編訳,小林昌人・補訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,2002,岩波文庫. をテクストとして使用します。

 上記岩波文庫版からの引用中、青字はマルクスの筆跡、それ以外(白字)はエンゲルスの筆跡。草稿の抹消箇所は下線付きで、追記・挿入は斜体で示します。



「エンゲルスの筆跡エンゲマルクスの筆跡ルスの筆跡」



「人間を動物から区別するのは、生産するみたいな感じでことによってである。」



「人間が自らを動物から区別するのは、道具を用いて生産することによってである。」



 この「ノート」は、著作の内容を要約することも、著者らの思想を伝えることも目的としていません。あくまでも、私個人の思索のための抄録と、必ずしもテクストにとらわれないコメントを残すためのものです。






 【14】「本論三2」――マニュファクチュア《第一期》






「さまざまな都市の間に拡がった分業がもたらした直接の結果は、マニュファクチュアの成立であった。これは、ツンフト制度の殻を破って成長していく生産部門である。マニュファクチュアの最初の――イタリア、そしてやがてフランドルにおける――開花は、外部の諸国民との交通を歴史上の前提とした。別の国々――例えばイギリスやフランス――では、初めのうちマニュファクチュアは国内市場向けに限られていた。マニュファクチュアは、上述の諸前提の他になお、人口――特に農村人口――の集中と資本の集中がすでに進捗していることを前提とする。資本は、ツンフト規約にもかかわらず、一部はツンフト内部で、また一部は商人の下で、個々人の手に集まり始めていた。」

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.149-150.



 マニュファクチュアの発生。現在の社会経済史学の通常の理解では、都市はツンフト規制が厳しくて、マニュファクチュアなど発展できない。マニュファクチュアは、既存の中世都市ではなく、市場町のある農村で発生した、ということになる。

 しかし、マルクス/エンゲルスは、都市間交通、とくに外国との交通が刺激になって、都市内部からマニュファクチュアが発生し発展する、と。もっとも早く興ったイタリアでは、そうだったのか? フィレンツェなどイタリア都市は、都市貴族と遠隔地商人が支配していて、ツンフト規制はあまりないのか? フランドル都市は、もっとツンフト規制があるように思うが? ともかく、このあとの段↓では、農村からマニュファクチュアが始まった英仏の例にも言及する。

 農村からマニュファクチュアが始まる場合でも、「交通」つまり遠隔地商業による刺激がなければ、大量の商品生産は市場を獲得できない、というのが、マルクス/エンゲルスの立場か?

 たしかに、開国後の日本の例を見ても、外国貿易が繊維製品の商品生産にもたらした刺激は顕著だ。







Jules Elie Delaunay: 鍬を持つ農夫






「最初から機械を――それがどんなにみすぼらしかろうと――前提とするような労働が最も発展性のあるものだということは、たちまち明らかになった。
〔…〕織物業が最初のマニュファクチュアであった。そして主要なマニュファクチュアであり続けた。人口が増えるにつれて増加する衣料品の需要、流通の加速によって始まった自然発生的資本の蓄積と可動化、ここから生まれ、交通全般の漸次的拡張によって助長された奢侈品への欲求、これらが、量的にも質的にも織物業に旧来の生産形態から脱皮する刺激を与えた。

 自家用に織る農民は前からいたし、まだ残っているが、これと並んで、都市に織布工たちの新しい階級が現われた。彼らの織物は国内全市場に向けられたものであるとともに、たいていは外国市場にも向けられたものであった。――織物業、つまり機織仕事は、たいていの場合、さして熟練を要せず、無数の部門に分解しやすいという性質があるため、この労働の性質全体からして、ツンフトの束縛とは相容れなかった。そのため、織物業はたいてい村落や市場町といった小さな一帯で、ツンフト組織なしで営まれたが、このような一帯が次第に都市化し、しかもやがてどの国でも国一番の賑わいを見せる都市となっていった。――――――」

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.151-152.



 原文を確認すると、「最初から機械を……前提とするような労働」は、途中から機械を導入するのではなく、そもそもの初めから機械を据えて生産を開始する労働(生産活動)という意味らしい。Diejenige Arbeit, die von vornherein eine Maschine ... voraussetzte, ...

 つまり、こういうことを言いたいのだろう。ある新発明の機械が、それ自体が生産を行ない貨幣を生み出すかのように表象され――「機械なくして生産なし」と!――、資本家(問屋)から職工に貸し出されて、問屋制マニュファクチュアが成立する。工場制マニュファクチュアならば、もっと「物象化」は顕著だろう。職工は、あたかも機械の部品のように観念され、故障が起きればいつでも交換され、量的に不要となればいつでも廃棄される。こうして職工は、独自の生産者たることをやめる。こうした生産形態が、「最も発展性のあるものだということは、たちまち明らかになっ」て普及した、というのである。

 しかしこの「機械なくして生産なし」には、見えなくされている・ある前提がある。機械が「貨幣を生む」のは、魔法だからではなく、安定して増大しつつある需要が存在するからである。もっぱら外国貿易が需要を生み出していた時代もあった。しかし、↑この叙述では、外国貿易を背景にしながら、主要な需要産出者は、国内の「人口」と「交通」であるとする。そこに疑問がある。人口が増えても自給自足していたら需要を生まないし、商業「交通」は、あくまでも需要の伝達者にすぎない。


 ↑3段落目からは、ツンフト都市外の農村・市場町で営まれた事情が述べられる。「村落や市場町といった小さな一帯」⇒局地的市場圏! 前の引用部分にあった・ツンフト都市内でのマニュファクチュア発生という概観と、どういう関係になるのか不明だ。



ツンフトに縛られないマニュファクチュアに伴って、所有諸関係もたちまち変化した。自然発生的・身分的な資本を乗り越える最初の一歩は商人の登場によって踏み出されていた。商人たちの資本は初めから可動的であり、近代的意味での資本――
〔…〕当時の諸関係の下では、という但し書きを付けてだが――であった。マニュファクチュアとともに第二歩が踏み出された。マニュファクチュアが、今度は、自然発生的資本のかなりの量を可動化し、全体として、可動的資本の量が自然発生的資本の量を上回るようにした。――同時に、マニュファクチュアは、農民を排除したり彼らへの支払いが悪かったりしたツンフトに対して、農民たちの逃げ込み場となった。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,p.152.



 ツンフト   自然発生的・身分的な資本
 商人     可動的資本、当時としては近代的な資本 (第1歩)
 マニュファクチュア 自然発生的資本を可動化した   (第2歩)

 まとめると、↑こうなる。「可動的」とは? 利潤機会を求めて、狭い地域を越えて移動し、投資される、あるいは、さまざまな事業に投資される、という意味か?



マニュファクチュアの草創期は、浮浪者群の時代と重なる。封建的家臣団の終焉、家臣と対抗する国王に仕えていた寄せ集めの軍隊の解散によって、また農業の改良や広大な農地の放牧地への転換によって、浮浪者群が生み出されたのである。すでにこのことからしても、この浮浪者群が封建制の解体といかに密接に関わっているかが明らかになる。13世紀にすでにこのような時期が個別的には散見されるが、この浮浪者群が普遍的・持続的に登場するのは、15世紀の終わりから 16世紀の初めである。この浮浪者たちは膨大な数にのぼり、イギリスのヘンリー8世に至っては 7万2000人も絞首刑にしたほどであった。彼らを仕事につかせることは、極めて大きな困難なしには済まなかった。彼らは
〔…〕長期にわたる抵抗の末にようやく、仕事につかせられた。急速に開花し始めたマニュファクチュアが、とりわけイギリスで、彼らを次第に吸収していったのである。――――――

 マニュファクチュアに伴って、同時に、労働者と使用者との間にも、従来とは異なる関係が生じた。ツンフトでは職人と親方との家父長制的関係が維持されたが、マニュファクチュアでは労働者と資本家との金銭関係がそれに取って代わった。労使関係は、農村や小都市ではまだ家父長制の色合いを残していたが、しかしもっと大きな都市、本来のマニュファクチュア都市では、いち早く、家父長制の色彩をほとんどすべて失った。」

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.153-154.






 






かつては、結び付きのあった諸国民は、結びついている以上正直に交換する方向へ誘導しあったものだが、マニュファクチュアとともに、諸国民は競争関係に、つまり戦争や保護関税や輸入禁止といった形で戦い抜かれる商業戦に、入ることになった。これ以降、商業は政治的な意義を帯びることになる。

 マニュファクチュアは、また総じて生産の運動は、アメリカと東インド航路の発見がもたらした交通の拡張によって大躍進を遂げた。これらの地から輸入された諸産物、特に大量の金と銀――これが流通に投じられると、諸階級相互間の地位を一変させ、封建的土地所有と労働者に痛打をくらわせた――、探検旅行、植民、そしてとりわけ、ようやくにして可能になった、
〔…〕市場の世界市場への拡張、これらが、歴史的発展の新しい局面を〔…〕呼び起こすに至った。新しく発見された土地への植民によって、諸国民相互の商業戦は新たな勢いを得〔…〕た。

 商業とマニュファクチュアの拡大は、可動的資本の蓄積を加速した。その一方、生産拡張への刺戟を受けなかった諸ツンフトでは自然発生的資本は
〔…〕減少さえした。商業とマニュファクチュアは、大ブルジョアジーを生み出した。ツンフトには小市民層が集中したが、〔…〕昔日の面影もなく、大商人や大マニュファクチュア業者の支配に身を屈する他なかった。こうして諸々のツンフトは、マニュファクチュアと接触したとたんに没落〔した〕。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.154-156.


 「価格革命」の効果:商業とマニュファクチュアの興隆。しかし、封建的規制や特権は、なくなるどころか、むしろ新たな環境(絶対主義王権の財政政策)のもとで拡大した。それが↓



「諸国民の交通における相互関係は、上述した時期に、相異なる二つの姿をとった。

 初めのうちは、金銀の流通量が僅かだったために、この両金属の輸出が禁止されていた。増大する都市住民に仕事を与える必要性に迫られて、たいていは外国から持ち込まれることとなった産業は、諸々の特権なしにはやっていけなかった。これらの特権は、国内での競争はもちろんのこと、むしろ主として国外での競争のために与えられえたものであった。こうした初期の禁止措置と保護関税の形をとりながら、局地的だったツンフトの特権は全国に拡がっていった。――――――

 関税の発生は、封建領主が自領地を通過する商人たちに、彼らを略奪から免れさせる代償として課した税に由来する。その後、諸都市も同様に税を課すようになった。近代国家の登場に際しては、税は国庫にとって貨幣を入手する最も手近な手段であった。

 アメリカの金銀のヨーロッパ市場への出現、工業の漸次的発展、商業の急激な躍進、そしてこの躍進がもたらしたツンフト外ブルジョアジーと貨幣の興隆、これらの事情は、これらの事情は、右の諸方策にこれまでとは別の意義をもたせることになった。国家は貨幣なしにやっていくことが日増しに難しくなった国家は金銀輸出の禁止を続けたが、それも今では国庫財政上の都合からである。新たに市場に投げ込まれたこの大量の貨幣をかき集め暴利を貪ろうと狙いをつけていたブルジョアたちは、この禁止措置に満足しきっていた。旧来の諸特権は、政府にとって収入源の一つとなり、金
(かね)で売られた。〔…〕輸出関税も登場した。これは工業にとってはただ行く手を遮る障害物でしかなく、純財政的な目的しか持たないものであった。――――――」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.156-158.



 ↑2段目は「価格革命」以前の「姿」。3段目は「価格革命」以後の「姿」。

 特権マニュファクチュアは、「特権なしにはやっていけなかった」がゆえに特権を与えられていたのだ。日本の明治期の政商・財閥も、資本主義産業として自生的に成長したのではなかったから、特権を必要としたのだ。

 ここまでが、近世《第一期》:「マニュファクチュア」が中心の時代。すなわち、16世紀初め〜17世紀半ば。













 【15】断章――廣松渉氏のテクストと解釈



 テクストとして選んだ岩波文庫版は、故・廣松渉氏・編・訳による『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,2分冊,1974,河出書房新社(以下、「廣松版」)を、小林昌人氏が補訳したもの。

 廣松氏によれば、アドラツキー版のテクストは、「手稿に見出される文章を切り貼りして、編輯的に再構成している」「『大きい束』から抜き出してきた文章を」『小さい束』に「陥入」している。「『大きい束』は数十の断片に切り刻み、編輯的につぎはぎしたうえで三章構成に仕立て直」している。「以上のごとき切断・結合・配列替えをおこなっている」ので(第1分冊,pp.xii-xiii)、「手稿を甚しく誣いるものであって、極言すれば“偽書に等しいもの”になり了ってい」ると言う(『廣松渉著作集』,第8巻,p.407)。

 しかし、平子友長「廣松渉版『ドイツ・イデオロギー』の根本問題」(https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/17054/010081091.pdf)によれば、廣松版は、アドラツキー版テクストの踏襲(アドラツキー版巻末の Textvarianten を本文中に組み込んだ以外には、見るべき改訂がない)であって、新MEGA版の改訂成果も取り入れていない。

 そして、小林昌人氏・補訳の岩波文庫版は、「解説」等で断ることもなく、新MEGA版から重要な改定を取り入れて、廣松テクストを“こっそり”直している。と言う。

(なお、平子氏は、廣松氏が「アドラツキー版」の踏襲を超えて、もとのマルクス/エンゲルス手稿をさらに改竄している点を多々挙げておられる。しかし、それらはあまりにも些末な改変で、たとえば、手稿の Es war sowWeit を Es war soweit Weit [下線部は抹消。太字は加筆] に変えている、など。文献学者としては正当な指摘であろうが、一般読者にとっては、どうでもよい違いなので、ここでは扱わない。)

 これらの点について、今後テクストを照合して確認するつもりだ。@「切り貼り」の有無を含めた、断片配列の当否。Aテクスト自体の字句の正確性ないし改竄有無。この2点の問題があるように思われる。しかし、平子論文に表示されている部分を見るかぎり、廣松氏の「アドラツキー版踏襲」は事実のようだ。つまり氏は、みずから偽書呼ばわりしたテクストをそのまま(異文を本文に編入しただけで)持って来て、自分の「新編輯版」だと偽称して公刊したことになる。

 このように、廣松氏はテクスト編集者としては問題が多いが、その一方で、『ドイツ・イデオロギー』の内容解釈に関しては、赫々と輝ける足跡を残したと言わなければならない。たとえば、


 @ マルクス/エンゲルスの「唯物史観の原像」は、固定した完成体ではなく、「体系的に閉じていない」「時を追って若干の変容」さえ孕んでいる、としている点。

 A 『ドイツ・イデオロギー』の史観構想を、「生態史観」の出発点として評価している点。


 などに、余人にない優れた着眼が見られる。とくにAは、1970年代という、欧米の“エコ・マルクシズム”もまだ存在しなかった時代に、驚くべき先見的見解を表明している。

 

「マルクス・エンゲルスにおける唯物史観の原像は、いわゆる『史的唯物論』とはおよそ径庭があり、しかも、それは必ずしも体系的に閉じていない。
〔…〕マルクス・エンゲルスの唯物史観は、基本的な意想と基幹的な命題の提示に留まっており、その埒内においてすら、時を追って若干の変容が見られる。」
廣松渉『生態史観と唯物史観』,1991,講談社学術文庫,p.20.






 






 また、『ドイツ・イデオロギー』手稿ボーゲン{1?}d, 岩波文庫版,pp.25-26.「われわれが出発点とする諸前提は……現実的な諸個人であり……物質的な生活諸条件である。……」という有名な冒頭箇所を引いて、次のように述べる:



「見られる通り、マルクス・エンゲルスは、唯物史観の視座を設定するに際して、まさしく、生態学的な了解から出発しているのである。右に掲げた一文は、まさにヘッケルの『生態学』の定義
〔…〕における『動物』を『人間』という種に特定したケース、すなわち人間生態学流の構えを表明するものになっている。〔…〕

 マルクス・エンゲルスは、『自然的諸条件』を固定的な所与とみなしてしまうのではなく、『歴史の行程中において、人間の営為によって変様を蒙る』与件としてそれを押さえており、
〔…〕生態学が、〔…〕かのサクセッション〔森林の系列的「遷移」〕の理論などにおいて顕揚される通り、当事生体群の営為が環境条件を改造していくこと、そしてこの改造的変様が生体群の在り方を逆規定すること、この相互規定的なダイナミックな関連に主眼がある。マルクス・エンゲルスは、まさにこの点を押さえることにおいて、いわゆる『地理的決定論』や『風土史観』のたぐいと相岐れ、対象的活動としての『実践』の立場を生態学的な場面において定礎する。〔…〕

 『人間が環境を作るのと同様、環境が人間を作るのである。』(ボーゲン{10}c=[25],岩波文庫版,p.89)

 是を以てみれば、マルクス・エンゲルスが歴史を観ずるに当り、
〔…〕人間的主体と自然的環境との、生態系的な相互規定態を表象していたこと、これには疑いを容れないであろう。」
廣松渉『生態史観と唯物史観』,1991,講談社学術文庫,pp.45-47.



 ただ、廣松氏の当時の考察が不足していた点を言えば、


 @ 「人間的主体と自然的環境との相互規定態」の在り方が歴史的に変様することを、前資本主義⇒資本主義の・生産様式変転の問題としてマルクス/エンゲルスは捉えているのだが、廣松氏は、そこまでは読みとれず、あと一歩というところで留まってしまっていること。(そのため、生態史観の内実についても、人間と自然の「統一」‥という非歴史的把握に陥っている)

 A 『ドイデ』以後のマルクス生態史観の深化を読みとれず、マルクス/エンゲルスの「生態史観」は『ドイデ』以後、展開されることなく終ったとしている点。


 が惜しまれる。@は、今日のような環境危機の深刻化によってはじめて、われわれは気づくことができた点である。また、Aは、マルクスの草稿・ノート類がまだ一部しか公刊されていなかった――少なくとも日本語にはなっていなかった――当時としては、いたしかたなかったであろう。

 しかも、『ドイデ』の段階では、マルクスはまだ《物質代謝》という生態史観のキー概念を獲得していなかった。《物質代謝》概念は『資本論』に至って本格的に展開されることになるのだが、この語 Stoffwechsel は、当時日本では生理学用語としてしか知られておらず、正当に翻訳されなければ気づかれずに埋もれてしまう。













【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(7) ―――につづく。   










ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: ユーラシア

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