07/18の日記

23:28
【必読書150】ドストエフスキー『悪霊』(1) 附『罪と罰』

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モスクワ   




 【1】『悪霊』と『罪と罰』








 こんばんは。(º.-)☆ノ



 前回に予告しましたように、『悪霊』は、かつて読みたい読みたいと言いふらしたまま、ずっと読みそびれていた一書でした。この本を読むきっかけを与えてくれただけでも、『必読書150』に出会った意味があったわけです。

 とはいえ、長年にわたって、読みたいけど時間がなくてとか、他の本を先に読まなくちゃとか、いつまでたっても読めないじゃないかと自責にかられてきたわりには、読み終ってみれば、あっけなかったです。

 私には、『罪と罰』のほうがインパクトが大きかった。



 『罪と罰』には、主人公ラスコーリニコフの抱く一種の“超人”思想、そしてそこからの回心―――という大きなテーマがあるわけですが、私には、このラスコーリニコフの思想が、どうしても馴染めなかった。救いようのない世界を改革し救うために、自分がナポレオンのような独裁的権力者になる。それにはカネが必要だから、ユダヤ人の金貸しの婆さんを斧で切り刻んで金を奪う。

 理屈としてまったく理解できないだけじゃなくて、感情的にも、何言ってんだろアホ‥の世界w 共感はもちろん、反発もない。どこ吹く風(Nur Windhauch!)って感じ。(もっとも、ロシアの当時の青年たちには、これこそ心から共感できる感情だった―――ということが、いまはわかるんだけど)

 しかし、犯行の前後の心理の動揺、犯行現場から下宿に帰って眠りに落ち、目覚めると返り血を見て驚愕するなど、サスペンスみたいなところは、たしかにおもしろかった。どうも、ドストエフスキーはサスペンス小説に長けている気がする。『悪霊』もサスペンス小説の部分が多くて、楽しめた。森村誠一に匹敵するサスペンスがあるし、乾いているぶんだけ、森村にまさっていると思う。

 思想、心理、どうのこうのよりも、ドストエフスキーはサスペンス小説として読んだほうがおもしろい。作者の意図はともかく―――作品の出来から言っても、ドストエフスキーは“おもに”サスペンス小説だと思う。

 ラスコーリニコフに関してはそういうことで、ちっとも共感できなかったんだけれども、『罪と罰』前半で、主人公にも比肩するウェイトを与えられている人物が、下級官吏のマルメラードフ。このオジサンの饒舌は、ラスコーリニコフ以上に支離滅裂で、論理も何もあったもんじゃない。でも、その支離滅裂さが共感を呼ぶ。少なくとも野次馬根性をくすぐる。相手が聞いていようが聞いていまいが、八方破れのクダを巻きつづける。現代日本のオジサンたちのようにオツに澄ましたところは、微塵もないw

 そして、マルメラードフの奥さん! いや、ダンナが死んだ後で本格的に登場するので、その未亡人と言うべきか。この人の饒舌もハンパじゃない。ダンナが死んで、おおぜいの幼い子を抱え、売春婦の鑑札をつけた娘(ソーニャ)以外に収入源はない境遇。それでも、皇帝の奥様だかにお慈悲を求めるんだという、ありえない主調をとことん追求して喚きつづける長ゼリフが、すごい。君側の奸がどうのこうの、いちばんトップの皇帝やら皇族やらはいつでも庶民の味方‥‥という帝政下ではありふれたパターンの思想が、これほど激しく、ややこしく、何者にも潰されようのない威力で噴出したことが、かつてあっただろうか? こういうのも“思想”と呼ぶならばだが……いやいや、“思想”って、ほんとはこういうものじゃないだろうか、とまで思わせる迫力。

 前半でのラスコーリニコフの“思想”が理解しがたいだけ、後半の大部分を費やしている予審判事ポルフィーリー・ペトローヴィチの審問も、退屈に感じられる。それでも、ポルフィーリーが、ラスコーリニコフの犯行を確信していながら、自白を強要するのでも決めつけるのでもなく、容疑者自身の回心と告白を静かに促していることは、よくわかる。退屈だが、作者の言いたいこと、伝えようとする話の“しくみ”は理解できる。

 そして、ソーニャの前でのラスコーリニコフの告白と回心。それを聞いたソーニャの言葉:


「このロシアの大地に口づけしなさい!」


 ……だったかな? いま手もとに原著がないので、確かめられないんだけど、そういう言い方だったと思う。

 前半で犯行動機に共感も反発もできなかっただけに、この場面も、心に染み入る‥というわけには行かない。あ、そう――程度の印象しかなかった。

 しかし、前半のラスコーリニコフの“超人”思想、“権力への意志”が、ひっくり返って反転したような“大地の思想”――民衆への限りない信頼のようなものは、ほとんど意識を超えて理会された。

 読んですぐの時点では、ほとんど印象がなかったのに、年月を経て思い返すたびに、この印象は、より広く、より深く、たしかなものとして、私のなかに定着していたのだった。 







ペテルブルク、センナヤ広場
『罪と罰』の舞台






 【2】『悪霊』の物語の構造




 『罪と罰』はこのくらいにして、本題の『悪霊』に移りたいと思います。

 私の見るところ、『悪霊』は、


 《農奴解放》直後のロシアの一地方都市での社交界・名士・インテリ・およびもう少し下層の社会を巻き込んだ“から騒ぎ”を描く主スジと、

 そこに絡まる多様な人物たちの脇スジ


 からなっている。だから、以下の《あらすじ》も、“主スジ”と、“脇スジ”それぞれについて示す必要がある。

 ただ、それを、ミハイル・バフチン以来多くの批評家が「ポリフォニー」とまで言うのは、正直言って疑問に思いました。このくらいの複数のスジの独立性と複雑な絡まりは、ドストエフスキーにかぎらず、長篇小説ではそんなに珍しくないと思うのですが、どうでしょうか?。。。

 『悪霊』という題名は、あまり気にしない方がいい―――と、これも私ひとりの考えかもしれないが、そう思う。何か、悪魔のような極悪な人物が出てくるわけじゃない。スタヴローギンにしても、幼児性(愛)者だという以上の異常さは、私には感じられなかった。その幼児性愛にしてからが、宮崎勤クンほどのものでもない。ただ、スタヴローギンはある意味で正直すぎる:世の中の常識や、習慣に基いた感情を排除し、醒めようとして、そういう生き方になっている点が特別なだけだと思う。

 『悪霊』では、殺人事件も複数起きているが、それらを引き起こした人間関係の構造は、――不幸なことだが――現代ではそれほど珍しいものではない。『悪霊』の秘密結社の殺人は、「連合赤軍事件」の十分の一、「オウム真理教」の百分の一のものでしかない。

 けっきょくのところ、私たちの時代の現実は、ドストエフスキー以来の近代小説を、はるかに超えてしまったのだ。もはや、ドストエフスキーの意味で――つまりリアルなフィクションとして――小説を書くことは、不可能になった‥‥と言ってよいのではないか?






 【3】『悪霊』の主スジ



《あらすじ》(1)――主スジ


「19世紀半ば、《農奴解放令》施行直後のロシアの地方都市であり県都である『わが町』を舞台とする。

 町の随一の資産家で、故陸軍中将スタヴローギンの未亡人であるワルワーラ夫人のもとで、スタヴローギン家の家庭教師ステパン・ヴェルホーヴェンスキーをはじめとする穏健な自由主義インテリのサロンが形成されていた。ワルワーラ夫人は、やはりこの県に領地を持つ故ドロズドフ将軍夫人とは犬猿の仲だったが、スタヴローギン家の子息ニコライとドロズドフ家の一人娘リザヴェータとの間に持ち上がった縁談話に、町の人びとは好奇の眼を集中させていた。

 そこへ、ドロズドフ家のイトコ筋にあたる新任の県知事フォン・レンプケが赴任して来る。知事夫人ユリヤ・ミハイロヴナは、文学趣味の夫を、有為な官僚として“再教育”すべく、夫の県政に口出しして牛耳るほどの女丈夫。本県出身の女性家庭教師を救済するためのチャリティーとのふれこみで、大がかりな講演・舞踏会の“お祭り”を打ち上げ、町の社交界に確固たる地位を得ようともくろんでいた。この知事夫人の巧みな持ち上げ方に、ワルワーラ夫人もすっかり気をよくして、町の社交界は、新知事夫妻のもとで再編成されるかに見えた。

 ところが、その間に、ワルワーラ夫人のサロンに出入りしていた自由主義インテリの一部は、ステパン氏の“縁遠い息子”ピョートル・ステパノヴィチの極秘の指導の下に、反政府的秘密結社を組織し、虚無主義的なテロルによるツァーリ体制の転覆を企てていた。そして、陰の指導者ピョートルは、成員の結束を高める目的からか、成員の一人であるシャートフの密殺を企てる。シャートフは権力側のスパイであるとの虚偽を、成員らに信じさせ、集団的な殺害を実行させるのである。同時に、自刹志願のキリーロフに、自分がシャートフを殺害したとの遺書を書かせて自刹させ、リンチ殺害の発覚を免れようとする。

 さらに、ピョートルは、ヴェルホーヴェンスキー家の元農奴である脱獄囚フェージカを教唆して、レピャートキン大尉兄妹を殺害させ、放火させる。ピョートルは、ニコライ・スタヴローギンを秘密結社の“教祖”に祭り上げることを狙っていたが、スタヴローギンは、レピャートキンの妹マリヤと、放蕩時代の戯れに内密に婚姻しており、兄レピャートキンは、そのことをネタに、スタヴローギンに対して“ゆすり”を続けていた。スタヴローギンが公けの場で、マリヤとの婚姻関係を告白してしまったことから、ピョートルは、スタヴローギンの意思を忖度して、兄妹を亡き者としたのである。」






 
 ペテルブルク、ストリャールヌイ通り
    ドストエフスキー住居跡






レピャートキン兄妹の殺害と放火は、知事夫人が主催したチャリティー講演・舞踏会の当夜に実行され、火災が家々を嘗め尽くすようすは、舞踏会場からも眺められた。客の大部分は恐怖に駆られて逃げ帰った。そればかりでなく、催しは、すでに講演の段階から、講師に立ったステパン氏らが、過激思想の青年たちに嘲弄されるなど、さんざんの荒れようであった。町の良識的な人びとは、講演が終った時点で、眉をひそめて引き揚げて行った。翌朝まで会場に残っていたのは、呑んだくれるのが目的で紛れ込んできたゴロツキのような人びとであった。知事夫人の催しは大失敗に終った。

 ニコライ・スタヴローギンは、その夜リザヴェータを自分の別宅に引き込んでセックスしたうえ、彼女を連れて逃亡しようと図るが、この計画はリザヴェータに一蹴されてしまう。リザヴェータにとっては、ニコライは憧れの対象にすぎず、1回寝れば十分なのであった。そして、彼女は、ニコライの法律上の妻であるマリヤが殺害されたとの報を聞き、真相を確かめるために現場へ赴いて、激昂した群衆に撲殺される。

 ニコライは、今度はワルワーラ夫人の養女ダーリヤとの逃亡を企てるが、結局それも断念して町に戻り、別宅で自ら縊首する。

 キリーロフの遺書の欺瞞は、捜査当局によって難なく見破られ、シャートフ殺害の犯人は、ピョートルを除いて全員検挙される。ピョートルだけは、捜査の手が及ぶ前に、首都から国外に逃亡してしまう。

 ピョートルの父ステパン氏は、ワルワーラ夫人との仲たがいから“家出”し、旅先で病に倒れる。彼は、追いかけてきたワルワーラ夫人の見守るなか、『まるで蝋燭が燃えつきるように、静かに息を引き取った。』」




 《農奴解放令》の施行(1863年)は、ひとつの象徴なのですが、そのあたりを境に、ツァーリ帝政を支えていた厳格な身分統制の社会は、大きく崩れ始めていました。

 1863年といえば、日本の明治維新に近い年代ですが、明治維新と並行する歴史事象と考えても大きな誤りではないでしょう。たしかに、それまでの身分制社会―――士農工商⇔貴族と農奴―――を一変する大変革なのですが、その変革のあとも、古い社会の仕組みはかたちを変えて残り、社会の矛盾は、いよいよ深く矛盾として露呈するのです。そうしたなかで、西洋からの文化的・思想的影響が、滔々と流れこんできます。

 《農奴解放令》を前後する時代の、ロシア社会の変化は、大きく3つの側面に見ることができると、私は思っています。

 ひとつは、貨幣経済の浸透、商品化・商業化ということです。これは、近代化にともなって、どの国にも起こってきたことがらですが、この『悪霊』に描かれている現象でいえば、貴族が領地の一部を売り払って金銭に変える、あるいは、外国の事業家に賃貸して経営させる、といったことがあります。「わが町」の近くには、すでに大きな工場もあり、工場労働者の動きに、貴族たちは神経をとがらせ、怖れを抱いています。貴族のなかには、ワルワーラ夫人のように、文芸サロンにのめり込むのは自制して、領地の経営と貯蓄に専念する人もいれば、ステパン氏のように、トランプ賭博の賭け金支払いのために、息子名義の領地を切り売りして窮地に陥る人もいます。

 もうひとつの側面は、ドストエフスキーのみならず、当時のロシアの小説には必ずと言ってよいほど取り上げられる現象―――インテリゲンチャのあいだの“世代の断絶”ということです。大きくいえば、“自由主義”から“虚無思想”へ、ということだと思います。この“世代の断絶”をテーマにした小説としては、ツルゲーネフ『父と子』が有名ですが、ツルゲーネフよりもドストエフスキーの小説のほうが、よりリアルに描いているように、私は思います。ツルゲーネフの題名を英語で言えば The fathers and the sons でして、父の世代と子の世代、という意味です。

 『悪霊』で、ステパン氏や、ツルゲーネフをモデルにした作家カルマジーノフを典型とする「父の世代」は、西欧の自由主義・啓蒙思想をモデルとして、人類社会の進歩を信じ、遅れたロシア社会の漸進的な文明開化を望んでいます。

 しかし、「子の世代」には、もはやそのような楽天的な進歩観はありません。かれらは、ある意味でより性急であり、ある意味でペシミスチックです。また、「父の世代」の伝統的価値や社会慣習に対する敬意を喪失しています。西欧からの思想的影響も、「子の世代」になると、フーリエの社会主義思想や、「第1次インターナショナル」に結集した労働者の共産主義思想が尖端部になります。これらは、ツァーリ政府にとっては、恐るべき危険思想です。「子の世代」の一部は、皇帝や要人を暗殺すれば、社会は自然に良くなると考える“虚無主義”に浸されていました。

 しかし、そこには、ロシアの農民大衆に対する、あまりにも楽観的な“信頼”―――悪い支配者を除けば、大衆は自分たちで理想的な社会を作るにちがいない―――があるとも言えます。そして、もっぱらその面を強調してゆくと、むしろツァーリ帝政を讃美する「スラヴォフィル」:伝統主義思想に近づきます。『悪霊』で、数々の殺害を指導するピョートルや、伝統的価値・社会慣習を侮蔑するスタヴローギンは、ニヒリズム(虚無主義)の代表でしょう。彼らに対して、秘密結社の犠牲となって殺害されるシャートフは、「スラヴォフィル」思想を代表しています。

 3つ目の側面は、《農奴解放令》などの制度改革や、貨幣経済の浸透に直面して変貌しつつある、農民たちの動向です。この面は、『悪霊』では、さいごのステパン氏の“家出行”で、氏が生れて初めて身近かに接する農民たちのリアルな姿として活写されます。ドストエフスキーが描く《農奴解放》後の農民は、みな貪欲でカネに目がなく非人情であり、相手がカネを持っているとわかるやいなや、純朴で人なつっこい“ロシアの農民”に変身するのです。レピャートキン殺害の火事場でリザヴェータを撲殺する群衆も、こうした“変貌した民衆”の他の面といえます。













 しかし、全体として、この小説の読後感を言えば、これらの騒動や事件は、いずれもどこか宙に浮いた“から騒ぎ”の印象があります。2件の殺人事件の結果は深刻であり、主要な登場人物のほとんどすべてが、小説の結末で命を絶ってしまう。一番悪質な首謀者だけが、うまうまと逃げおおせるのです。そうした結末の深刻さにもかかわらず、読後感はあっけらかんとしていて、ばかばかしい“から騒ぎ”の印象をぬぐえません。

 しかし、それはある意味でリアルです。世の中の事件というものは、みなそうした“から騒ぎ”にすぎない。大地に深く根ざしたものなどひとつもなく、どれもこれも、宙に浮いた猿芝居でしかない……著者に、そう言われているようにも感じられます。

 こうした感想は、世にあふれている重々しい、深刻そうな、ドストエフスキーの解説書類の趣旨には反するかもしれません。でも、私はたしかにそう感じました。それは果して、異常に偏った、まちがった見解なのかどうか、‥みなさん自身で『悪霊』を読んで、たしかめていただきたいと思います。






 【4】おもな登場人物



《おもな登場人物》


ワルワーラ・ペトローヴナ・スタヴローギナ ワルワーラ夫人 「わが町」の郊外に領地と別宅を持つ資産家。陸軍中将の未亡人。かつて、家庭教師の「ステパン先生」とともに首都ペテルブルクに打って出、雑誌出版の事業を試みたが、田舎者としてあしらわれ、事業の主導権を奪われる憂き目を見た。いまは領地経営と致富に専念しつつ、町のインテリのサロンを主宰するだけで満足している。

ニコライ・フセヴォドロヴィチ・スタヴローギン ニコラス スタヴローギン ワルワーラ夫人の子息。家庭教師の「ステパン先生」に少年愛的に抱かれながら成長する。首都ペテルブルクでの学生時代には放蕩三昧の生活を送り、あげく、ただの気まぐれで、呑み仲間だったレピャートキンの“びっこ”の妹マリヤと婚礼を挙げてしまう。しかし、マリヤの身体には触れることもなく無視する。ペテルブルク時代には、2人の情婦と密会するために、2ヶ所のアパートを借りていた。そのひとつで、隣家の幼女を犯したうえ、自刹に追い込んでいる(「スタヴローギンの告白」)。西欧を旅行した後、「わが町」に戻って来る。世間の習慣を意に介しないふるまいのために、最初は、町の人びとから精神異常者とみなされるが、決闘の場で、わざと宙に向けて撃って相手を愚弄したふるまいが、勇気ある行動とみなされ、にわかに高い評判を得ることになる。しかし、かれ自身は、世の中の慣習も自分の感情もいっさい無視して、いつもただ理性にのみ従っているつもりなのである。それが彼に、時には異常な、時には醒めた、白けきったふるまいをさせることになる。

ダーリヤ ダーシャ スタヴローギン家の養女。ニコライとともに、ステパン先生の教育を受けて育てられた。ワルワーラ夫人に連れられてスイスに赴くが、リーザ(↓下記)は、彼女とニコライの仲を疑い、嫉妬する。他方、ワルワーラ夫人は、彼女をステパン先生に嫁がせようと画策する。ところが、ステパンは、ダーリヤはスイスでニコライと肉体関係があったことを疑う。そして、ワルワーラ夫人の画策は、「傷物」を自分に押しつけて片づけようとしているのだと、他人に言いふらしてしまう。彼の疑いは(的中していたらしく)ワルワーラ夫人を激怒させ、ステパンの家出(↓下記)に帰結する。私は、ダーリヤは故スタヴローギン中将の落とし子ではないかと思う。だとすれば、ニコライとは腹違いの兄妹であり、二人の仲は近親相姦である。

ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキー ステパン先生 スタヴローギン家の家庭教師としてワルワーラ夫人に迎えられ、ニコライが成長した後も、離れの家をあてがわれて、ワルワーラ夫人の世話になっている。かつてドイツ中世史研究の専門論文を著わし、学者として知られているが、学界から遠ざかって久しく、昔日の面影はない。息子ピョートルの名義で小さな領地を持っているが、トランプ賭博の借金のために切り売りしてしまっている。2度結婚したが、いずれも長続きせず、息子とは、ほとんど顔を合わせたこともない。

ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホーヴェンスキー ピョートル ピエール ペトルーシャ ステパン先生の一人息子だが、父親と顔を合わせたことは2度ほどしかない。実家というべき「わが町」へやってきて、新知事夫人ユリヤ・フォン・レンプケに取り入り、町の社交界で好評を博する。その裏で、虚無主義の秘密結社を組織し、巧妙なやり方で操縦している。ストライキ中の工場や各都市で扇動ビラを配布するほか、配下の秘密結社でリンチ殺人事件を引き起こし、また、スタヴローギンの邪魔になるレピャートキン兄妹を殺害する。そして、逮捕を免れて国外へ逃亡する。

イグナート・レピャートキン レピャートキン大尉 退職陸軍大尉。肥った「2メートル余りの大男」で、いつもぐでんぐでんに酔っぱらっている。妹マリヤと内密に(しかも戯れに)婚礼を挙げたというスタヴローギンの秘密を握っており、それをネタに、スタヴローギンからカネをゆすっている。また、ピョートルの手先となって扇動ビラを配布している。が、それらの稼ぎの大部分を呑んでしまい、妹には貧しい生活をさせている。妹をしばしば殴っている。最後には、口封じのために、妹とともに殺害される。

マリヤ レピャートキナ嬢 レピャートキン大尉の“びっこ”の妹。じつは、ニコライ・スタヴローギンと内密の婚礼を挙げており、正式の氏名は、レピャートキナではなく、マリヤ・スタヴローギナ。スタヴローギンが衆人の前で婚姻の事実を告白した後、ピョートルの指示によって殺害される。






    






プラスコーヴィヤ・イワノヴナ・ドロズドワ ドロズドワ夫人 プラスコーヴィヤ夫人 ワルワーラ夫人とは旧知の間柄だが、本心では互いに犬猿の仲。滞在先のスイスで、一人娘リーザがスタヴローギンと仲良くなったことから、二人の縁談話をにおわせながら「わが町」に帰って来る。

リザヴェータ・ニコラエヴナ・ドロズドワ リーザ ドロズドワ家の美貌の一人娘。精神を病んでおり、スタヴローギンに首ったけだが、縁談の噂にもかかわらずスタヴローギンのほうは彼女を相手にしない。そのため、彼女にご執心の若い将校マヴリーキーを従えて、毎日乗馬にふけっている。しかし、この保守的な田舎町では、女が乗馬をするというだけで、人びとのひんしゅくを買うのである。

アンドレイ・アントーノヴィチ・フォン・レンプケ フォン・レンプケ 新任の県知事。ドイツ系ロシア人。小説を書いたり、模型を組み立てたりする内向性の趣味がある一方、官僚としては小心な人物。夫人に尻をひっぱたかれて、地方官として成績を上げようとしている。

ユリヤ・ミハイロヴナ 知事夫人 ユリヤ夫人 ジュリー フォン・レンプケの妻。夫を“再教育”して、栄達の道を歩ませようとしている。他方、町の社交界を手のうちに収めようとして、目端の利くピョートルらを重用するが、その結果、ニヒリストのグループや、有象無象のゴロツキを、のさばらせることになる。夫人の主催したチャリティーの催しは、かれらの狼藉のせいで、一大騒動の場と化してしまう。

リプーチン ピョートルの秘密結社のメンバー。シャートフ殺害の犯行後、ペテルブルクへ逃亡するが、そこで放蕩に明け暮れてしまい、逮捕されて『わが町』に連れ戻され、裁判を受ける。

シャートフ シャートゥシカ ピョートルの秘密結社のメンバー。自身は「スラヴォフィル」の思想を抱いており、過激なニヒリズムになじまないことから、脱退を希望している。そのことから、当局に密告するのではないかと疑われ、ピョートルによって“リンチ殺人”のターゲットにされる。そして、結社の仲間たちに、集団的に殺される。殺される直前、スタヴローギンに身籠らされた彼の元妻が、彼を頼って来ており、シャートフは、出産のために奔走する。しかし、彼が死んでしまった結果、無事生まれた子供も、元妻も死亡するに至る。ピョートル、スタヴローギンらは、シャートフのみならず3人の生命を、無残にも蹂躙したのである。

キリーロフ 若い土木建築技師。独自の論理的理由から自刹を志願しており、秘密結社のために自分の死が利用されることを承諾している。ピョートルは、これを利用して、キリーロフをおだて、シャートフを殺害したとの虚偽の遺書を書かせ、自刹させる。

フョードル・フョードロヴィチ フェージカ ヴェルホーヴェンスキー家の元農奴。殺人罪で終身刑の判決を受けて服役中、脱獄して町に戻って来た。ピョートルの教唆を受けて、カネ目当てにレピャートキン兄妹を殺害し放火する。

カルマジーノフ 小説家。ツルゲーネフがモデル。滑稽でいやらしい人物として、揶揄して描かれている。ステパン氏と同じ「父の世代」に属する。

アントン・ラヴレンチェヴィチ・G この小説の語り手。ワルワーラ夫人のサロンの一員で、ステパン氏の年若い親友。













 さて、『悪霊』については、これで終りではありません。次回は、《脇スジ》をいくつか見ていきたいと思います。








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 必読書150

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