07/16の日記

00:14
【必読書150】『必読書150』とは?

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 【1】見てまずア然。。。









 こんばんは。(º.-)☆ノ



 ある日、近所の公共図書館で『必読書150』などという脅迫的なタイトルを冠された本に出会ってしまいましたw 「必読」って、‥読まなきゃいけないんですかい?!

 と思って手にとって見ると、そこに並んだリストのまた、すごいこと。これを見て、


 @「なんだこりゃ?!」と驚愕する人

 A「オレには関係ない」と書棚に戻す人

 B 呆然として立ちすくむ人


 反応はさまざまでしょうけれども、

 しかし、私は@の反応をしたあとで、‥‥いや、これもしかしたら使える、とも思ったのです。

 ちなみに『150』と言いながら、“原典”クラスの 150タイトル以外に、それらを読むための参考書・解説書、また通史タイプの本を集めた『参考テクスト70』もついているので、じっさいのリスト合計は 220冊ですw

 ⇒:『必読書150』の一覧


 しかも、この本の「序文」には、↓こんなおそろしい脅迫文言まで書かれている!!



「われわれはサルにもわかる本を出すことはしない。単に、このリストにある程度の本を読んでいないような者はサルである、というだけである。」



 柄谷行人氏のグループ‥‥「グループ」と言わないほうがよいのかなw まとまりをもって見られることを喜ぶ人たちじゃなさそうだし、自嘲して「柄谷ファンクラブ」と言ってるくらいだから、‥‥「フォーラム」と呼んであげたら、どうだろう。

 本のあとがきにある著者たちのサイトは、いまは全部リンク切れになっています。でも、この本じたいは、今も新本で手に入ります。読者のSNSもある:

 ⇒:『必読書150』アマゾン

 ⇒:読書メーター:必読書150を読破しよう


「選定された本の全てを読んでいる読書人はなかなか見当たりません。」


 ↑このサイトは、『150』リストの読破を志す人のためのコミュニティーのようで、各著を読んだ人の感想・解説が完備しています。『参考テクスト70』を含む。






 【2】1冊ずつ読破してゆくのもよいが‥



「このリストにある程度の本を読んでいないような者はサルである、というだけである。」



 などと言われて、そりゃあたいへんだ、サルはいやだ、人間になりたい、とばかり、リストにあがったタイトルを片っ端から順々に読んでいく人も、そりゃあいるでしょうけれど..., そういう人は見あげたものだけれど、そればっかりが読み方じゃない。少なくとも、このリストの著者たちが推奨するやり方ではありません



「渡辺直己 
〔…〕最後まで読む必要はない、読んでダメならすぐやめろ、その代わり、即その次の本を読みなさい、と。そのうちに自分にピタッと合う本があるから、それを深く読めばいい。」
柄谷行人・他『必読書150』,「反時代的『教養』宣言」,太田出版,2002,p.23.







アルチュール・ランボー 『太陽と月に背いて』より






「実際にテキストを読んでみて、こいつはとても無理だと思った場合、
〔…〕頑固でない諸君は、迅速に別の本へ進もう。〔…〕

 そのうちに、これだと思える書物に出会えたら、リストにはこだわらずに、同じ作家著述家の作品を読み進むのがいいだろう。すると、その読書のなかから、読むべき書物、読みたい書物が、芋蔓式に出てくるはずだから迷わずためらわずどんどんと読めばいい。そうこうしているうちに、はじめは難しくて無理だと思われたものにも手応えが感じられるようになったりするから、やはり勉強はしてみるもんだと、きっと思うようになる。」

奥泉光「リストを見て呆然としている人々のために」, in:柄谷行人・他『必読書150』,太田出版,2002,p.219.



〔…〕僕自身〔…〕正直、読んでいないものは数多い。序文には『このリストにある程度の本を読んでいないような者はサルである』と書いてあって、どうにも弱ってしまうが、逆に考えれば、まだまだ多くの未知の宝が前途に隠されていると思えば希望も湧いてくる。実際、諸君がこのリストのなかのどれかひとつでも好きになる好きになるなら、大変な財産を得たといってよいだろう。」
奥泉光「リストを見て呆然としている人々のために」,op.cit.,p.220.



 つまり、「150冊」全部を、最初のページから最後のページまでべったりと読む必要はないのです。逆に、リストにあげられた 150 のタイトルだけを、「日本百名山」尽くしのピーク・ハンターのように全部読んだからといって、それ自体はあまり意味のあることではないわけです。

 つまらないもの、わからないものは読み飛ばしてよいし、途中でやめてもよい。リストにしたがって読む目的は、「これだと思える書物に出会」うことにあります。

 “100人斬り”をしたからといって、その“100人”のなかで生涯の伴侶にできる人に出会わないのでは意味がない。数が問題ではないのです。

 「これだと思える」までいかなくとも、気になる本があった時は、同じ作家のほかの本、また関連する著者の本を読み漁ってゆくことに意味があります。

 もちろん、せっかく各分野から 50冊ずつ選んだ 150冊のリストがあるのですから、自分の疎い分野はこれをフルに活用して、“試し読み”の出会い探しをするのがよいでしょう。

 そういうわけで、私としては、リストを平板にただ読破してゆくというような、ピーク・ハンティングに参加するのは、最初から御免被りたいw いわば、“街道の道しるべ”としてこのリストを活用し、しかし我が目的はむしろ枝道に入りこんでゆくほうにある―――と、最初に宣言させてもらいます。






 【3】わたしはどのくらい読んでいるのかな?



 150冊、ないし 220冊という冊数以上に脅威なのは、各冊が、どれもこれも簡単には読破できないいわゆる“古典的名著”ぞろいなことですね。

 「日本百名山」というのがあるけれど、「世界150名山」というリスト――そのなかには、素人には到底登頂できない山も含まれる――を作ったら、これに近くなるのかもw‥‥

 とはいっても、リストをよく見てみると、ホメロス、プラトンから江藤淳まで、各著者につき1冊ずつ‥のその標題作の選び方には、やはり“入門書”になるものを、という配慮があるようで‥

 たとえば、アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』ではなく『詩学』を、ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』ではなく『悪霊』を、というふうに、同じ著者のなかでは、比較的読みやすいものが選ばれている。

 まず試みに、自分は今までにどれくらい読んでいるんだろう‥‥と、自己診断してみましたw リストにあげられた標題作を読破した場合だけでなく、リストの下にある、同じ著者の主要著作をふくめて、どれかを読みかじっている場合にはカウントします。

 リストの性質上、標題作だけを読むことに意味があるわけではないし、1冊を最初から最後まで読み通すことも、それほど重要なことではない、と思うわけです。そうして集計してみると:



1 人文社会科学50 15/50 30%

 ギリシャ〜ルネサンス pp.58-63 3/6 50%
 近代(デカルト以後) pp.64-74 5/11 45%
 ソシュール以後    pp.75-86 3/12 25% ▲
 レヴィストロース以後 pp.87-97 3/11 27% ▲
 日本         pp.98-107 1/10 10% ▲

2 海外文学50   20/50 40%

 ホメロスからサドまで pp.108-119 5/12 41%
 近代(ゲーテ以後)  pp.120-131 4/12 33% △
 カフカ以後      pp.132-140 4/9 44%
 サルトル以後     pp.141-148 3/8 38% △
 詩集・批評      pp.149-157 4/9 44%

3 日本文学50   19/50 38%

 近代(谷崎潤一郎まで)pp.158-173 8/16 50%
 夢野久作以後     pp.174-192 6/19 32% △
 詩歌・批評      pp.193-207 5/15 33% △

  合計:     54/150 36%



 あ、けっこう読んでるもんだな。。。






 
  ヴェルレーヌとランボー 『太陽と月に背いて』より






 「150冊」のうち、約50冊は、読んだか、読みかじったか、自分としては、この本はこのくらいにしとこう、と思うあたりまではやっていることになります。

 そこで、今後の目標としては、合計100冊までもっていきたい。すでに“読みかじった”ものも、「この本はこれで十分」にまで達していなければ、改めて読み直す。

 ちなみに、このリスト、けっして“標準的なものを集めた”とか“重要なものを網羅した”などとは標榜しないところが、おもしろい。つまり、リストには偏りがあって、偏りがあることを隠そうとも直そうともしない点に、好感が持てるわけです。

 なぜって、こういう、べたっと“一般的”な知識に限って―――何やらの専門分野を修練しようというんでなく、べたっと一般的に“教養”なるものを身につけようという場合には―――“標準”などというものは、そもそもありえない。たとえば、文科省あたりが“標準リスト”を作ったとしたら、それは、“文科省官僚の偏見を示すものだ”ということになって、格好の攻撃材料にされてしまう。だから、文科省は絶対にこういうリストは作らないw

 では、このリストには、どういう偏りがあるかというと:



● 著者たちもこの本のなかで言っている点ですが:リストには、中国古典――漢籍がほとんどない。『唐詩選』しか挙がってない。これは欠陥です。

  『論語』『孟子』はともかく、『老子』『荘子』は、西洋哲学への影響が無視できないはず。トルストイは『老子』をロシア語に翻訳している。夏目漱石は、小説を執筆するときには、『離騒』などの漢詩を読んでから書いた。漢文学は、意外に日本近代小説の表現の土台になっているのです。

  また、『史記』を読破しないまでも、『十八史略』は押さえておきたい。お経は般若心経しか読んだことがない、というんでは片手落ちでしょう。儒教でも、『朱子語類』などは現代思想として重要だと思う。

● ドストエフスキーがあるのに、トルストイがない。スタンダール、フローベールがあって、モーパッサン、バルザック、ゾラがない。ゲーテがあって、シラーがない。しかし、この“偏り”はむしろ注目すべきかもしれない。現代の批評、思想に影響を与えている著者は誰なのかが分かる点で。

● ボードレール、ランボーがあって、ハイネ、リルケ、ヘッセがない。キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガー、アドルノがあって、フッサール、カッシーラー、レヴィナスがない。ウィトゲンシュタインがあって、フレーゲ、ラッセル、ポッパー、クーンがない。全体にフランスと実存主義に偏ってる。それはまあ、現代思想への影響の大きさを考えれば、“しかたがない”のかも。

〇 「自己診断」では、「人文社会科学50 日本」の読破率が、とくに低い。これは意外でした。そのリストを見ると、昭和戦前期までが中心になっている。

  言われてみれば、この範囲の“原典”は、ほとんど読んでいない。つまり、この点で偏りがあるのは、リストではなく私の読書のほうだ。これは、填めるべき分野として重要。

〇 ついで「自己診断」について言うと、「人文社会科学50 ソシュール以後」と「レヴィストロース以後」も、読書不足を自覚している部分。柄谷氏の本を読んで、いちばん解らないのが、この分野の術語――じゃないかと思う――がたくさん出てくるもの。漠然と必要性を感じていた“柄谷対策”を、リストで確認できた。

〇 「海外文学50」では、ゲーテからプルーストまでの「近代」を、「日本文学50」では逆に、「夢野久作以後」と「詩歌・批評」を、もっと読んでいいらしい。



 つまり、このリストから教えられるのは、“もっと原典を読め”ということなんですね。

 小説や古典文学ならば、すくなくともぼくらの世代までの人間は、ネットで「あらすじ」を探して読んで終われりとするようなことはなかった。ネットなんてありませんでしたからねw 読むなら原典か、その現代語訳(読みやすくした“あらすじ”などではない!)を読むほかはなかった。

 しかし、「人文・社会科学」の古典ということになると、解説書を読んで終り‥‥というか、原典を読もうとしても、どうにも難しかったり退屈だったりして歯が立たないので、解説書類に逃げることになる。カントの『純粋理性批判』なんか、いくらがまんして読んでも、何を言ってるのやら、さっぱり解らなかった。解説書も数冊読んで、やっぱりどれもこれも納得できなかった。さいごに、定評はあるが大部でン〜万円なので、それまで敬遠していた古典的解説書を奮発してアタックしたら、ようやく頭に入り始めたのです。もう、まるで眼のまえがパアッと開けるように感じたが、同時に、カントの限界みたいなものも――それを大胆に指摘していることが、この解説書の特徴なのですが――よくわかったのでした。



「島田雅彦 入門書とか解説書の本は無数にあるけれども、おおむね扱っている作家の作品を持ち上げるなり、流行の読み方だけをなぞってあるものが圧倒的でしょ。しかも読者は入門篇を読んだら、
〔…〕ニーチェは理解したとか、ヘーゲルを理解したというふうになってしまう。だったらオリジナルのテクストを誤読するのは当たり前として〔当たり前だということにして―――ギトン注〕、読んじゃえばいいと。〔誤読でもかまわないから、オリジナルのテクストを読んじゃえばいい。―――ギトン注〕結構、オリジナルのテクストには野蛮なところがいっぱいあって、読者のレベルに合わせてわかるところもあるし、わからないところもあるし。」
柄谷行人・他『必読書150』,「反時代的『教養』宣言」,太田出版,2002,pp.28-29.






 
ヴェルレーヌとランボー 『太陽と月に背いて』より  






 【4】「こーゆー記」での、これからの予告



 そういうわけで、『150冊』リストにある本を読んだときには、“あらすじ”なり読後感を書いていきたいと思います。リストにあがったものだけでなく、同著者作品や関連書籍も、‥‥つまり“枝道”の書物も扱います。私としては、そちらのほうが読書の目的ですから。

 さて、最初に扱うのは、ドストエフスキーの『悪霊』―――リストを見て、つい最近、読了しました。

 この小説、何十年たっても忘れない思い出があります。といっても、読んだのは今度が初めて。読みたい読みたいと言いふらしたのが思い出で、けっきょく今の今まで読みそびれていたわけです。

 読んでみたら、やはり、私なりに持っているドストエフスキーのイメージにぴったりの作品でした。それは、世間で言われている「ドストエフスキー」とも「悪霊」とも、全然違うイメージです。『貧しき人々』のイメージ―――と言えば、ドストエフスキー・ファンにはわかるはず‥

 そういうわけで、近々『150冊』最初のレビューをアップしますので。。。















ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 必読書150

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